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第2章
女の子とベンチに座り、無言のままコーヒーを飲み終わると長友は女の子に声をかける。
「じゃあ、行きますか。」
女の子は頷くと立ち上がり、長友は女の子から空のカップを受け取るとゴミ箱に捨てに行く。
「運転、大丈夫ですか? 落ち着きました?」
「大丈夫だよ。ありがとう。」
軽く笑いかけながら長友はカップをゴミ箱に捨てると、足早にタクシーに戻り、後部座席のドアを手で開ける。
どうも、と女の子は笑顔を見せながらタクシーに乗り込む。長友は丁寧に後部座席のドアを閉めると、運転席に乗り込む。エンジンをかけたところで、女の子が声をかけてきた。
「行先なんですけど、新木場駅の近くまでお願いします。」
「え?」
最初の行先は駒沢公園だったはずだ。
「とりあえず首都高乗って、湾岸線の新木場まで行ってください。」
「駒沢公園じゃないの?」
女の子は困ったように笑いながら言う。
「いや、どこでも良かったんですよ。長友さんと話すために、わざと時間のかかる目的地にしただけで。」
そういうことか、と長友は思った。営業所の前から俺のタクシーに乗って来たことも、一般道で駒沢公園まで行けと言ったことも、最初からこの子の計画だった、と。
「参りましたね。」
合点が行った長友はコンビニ駐車場からタクシーを出すと再び国道4号に入り、首都高の入り口に向かいながら長友は女の子に尋ねる。
「で、お願いって、何ですか?」
「実はもう1人、困っている幽霊がいて、その人を助ける必要があるんです。その手伝いをして欲しくて。」
この子は何の商売をやっているんだろう? そんな質問をしたかったが、とりあえず長友は話を進める。
「その幽霊さんは、どんな人ですか?」
「榎本愛梨ちゃん、ってご存知ですか?」
長友は少し考える。アイドルか何かだろうか?
「知らないです。」
「5年前に新木場公園の近くで行方不明になった、小学3年の女の子です。いまだに彼女のご両親が『探しています』のビラを駅で配ったりして、時々ニュースになっています。」
そう言えばそんなニュースを見たような気がする。
「ただ、その愛梨ちゃんはすでに殺されていて、愛梨ちゃんの死体は、倒産した建設会社の事務所に隠されているんです。」
なんでそんなことを知っている? と、聞き返そうになったところで長友はピンときた。
「助けたい幽霊って、その、殺された女の子?」
ご名答、と言うように女の子は頷きながらミラー越しに長友を見てくる。
「そうです。その子に頼まれて。自分が生きていると信じて、いつまでも探しているお父さんとお母さんが可哀想だから、自分の死体を見つけて警察に通報して欲しい、と。」
長友は驚いて思わず聞き返した。
「死体を見つけるんですか?」
「あ。死体と言っても、スーツケースの中に入っているので・・そのスーツケースだけ見つけ出せれば、あとは匿名で私が警察に通報します。」
「そのスーツケースを見つける手伝いをすればよい、と?」
「そうです。」
「場所は分かっているんです?」
「新木場の潰れた建設会社の事務所だそうです。立入禁止になっているようだから、その中に入る手伝いとか、もしくは見張りとかをお願いできればと。」
「分かりました。ただ、自分が中に入るのは、ちょっと。」
さすがに不法侵入で捕まりたくはない。
「中に入るのは私がやるので。長友さんに迷惑はかけません。」
分かりました、と頷くと長友は少し窓を開けて、話を続ける。
「その、榎本愛梨ちゃん? は誰に殺されたんですか?」
最初は順調に流れていた首都高だったが、少し走ったところで軽い渋滞が始まった。
「愛梨ちゃんは、もともと調布に住んでいたんですけど、夏休みに新木場のおばあちゃんの家に遊びに来ていたんですね。」
長友はふと気になって女の子に尋ねる。
「ちょっと、1つだけいいですか?」
「何です?」
「その愛梨ちゃんは、今、このタクシーに乗っていたりします?」
女の子は軽く吹き出すように笑うと、乗っていません、と否定した。
「大丈夫です。もう、私しか乗っていません。」
分かりました、と頷くと長友は女の子に話の続きを促す。
「で、愛梨ちゃんは、おばあちゃんの家から公園に行こうと一人で歩いていたんです。そうしたら、小学1年のときの担任の先生がたまたま車で通りかかって、危ないから公園まで乗せて行く、と言ってくれたんだそうです。」
ふむ、と長友は相槌を打った。
「まあ、元担任だった学校の先生なんだから、信用して乗りますよね。そしたら、その先生が車の中で、暑かったでしょ、汗を拭いてあげると言い出してきて。」
雲行きが変わって来た話に、長友は顔をしかめる。
「もしかして、その元担任の先生が?」
ええ、と女の子は頷くと窓の外を見る。
「誰も通らないような道に車を停めて、愛梨ちゃんにいたずらしようとして。愛梨ちゃんは抵抗して、お母さんに話す、警察にも言う、って言ったら、その瞬間に首を絞められて。」
「ひどいな。」
吐き捨てるような口調で長友は呟く。
「その元担任と、愛梨ちゃんが新木場で会ったのは偶然なんですか?」
「ええ。その元担任は、その時には教師を辞めて新木場の不動産会社で働いていて。たまたま営業車で走っている最中に愛梨ちゃんを見つけたようです。」
運が悪いな、と長友は首を振って少し体を動かすと、渋滞中の車内で運転席のシートに身を沈める。
ほんとですよ、と女の子も後部座席で足を組んでシートにもたれると、言葉を続ける。
「で、結局、愛梨ちゃんを殺した元教師は、愛梨ちゃんの死体をスーツケースに入れて、勤め先の不動産会社が所有している、立入禁止の潰れた建設会社に隠したんです。」
「今から向かうのは、その潰れた建設会社ですか?」
「そうです。」
「住所って、分かります?」
「あ。そうですね。」
女の子がスマホを操作して読み上げた住所をカーナビに入力しながら、長友はふと思ったことを口にする。
「その犯人の元教師ってのは、何歳くらいなんです?」
「不動産屋のホームページでは29歳、ってなってました。愛梨ちゃんを殺したときは、24歳ですかね。」
「ホームページに載っているんですか?」
ええ、と女の子は答えると、スマホを操作して長友に見せてくる。
「鹿島田不動産・・・聞いたことないな。」
「個人経営で昔からやっている不動産屋ですね。街中によくある感じの。それでも、社長以外に社員は4人いますね。」
「最近、都内もマンションが増えたからなあ。」
「その流れに乗って、景気はいい感じですね。」
女の子はスマホに表示された「社員紹介」のボタンをタップする。飾り気のない爪と細い指が器用に画面を操作していく。
「この人ですね。営業主任、だそうです。」
鹿島田雄一、との名前と一緒に、やや小太りで色白の人懐っこい笑みを浮かべた男が映っている。
「こいつが?」
「元教師の犯人です。普通にどこかで会ったら、いい人だと思いますよね。見た感じは。」
タクシー運転手として色々な人間を見てきたが、確かにこいつだけは第一印象で「いいやつ」だと判断してしまいそうだ。再び滑らかに女の子の指が動き、スマホに別の画像を表示させる。
今度は「お客様の立場で物件を探します!」との文章と一緒に、鹿島田雄一が笑顔の白いワイシャツ姿でボクシングポーズをとっている。ユーモアのある親切な不動産屋さん、そんなイメージだ。画像の下では「本日お休み」とのプレートが点滅している。まるで美容室か何かのホームページだ。
「本日お休み、だそうです。いいですね。」
君も休みなんじゃないの? と言おうと思ったが長友は口にせず、別の質問を口にする。
「鹿島田不動産で、鹿島田雄一ってことは、そいつは社長の息子さんなの?」
「どうなんでしょうね。親子か、親族か。まあ、血縁はありそうですね。」
「なんで教師を辞めて、その不動産会社に行ったんだろう?」
「さあ・・。教師の世界も色々あるみたいですからね。人間関係が嫌になったんじゃないですか?」
さらっと、興味なさげに言った女の子の言葉に長友は軽く鼻で笑う。女の子は笑うことなく、少し考えながら言葉を続ける。
「もしくは、女子生徒にイタズラしてクビになったとか。」
今度は笑えない女の子の言葉に、長友は少し苦い顔をしてルームミラーを見る。
「失礼、あまり考えたくないですね。」
長友は無言で首を振ると、動き出した前の車に合わせて、軽くアクセルを踏み込んだ。
「ここ・・ですかね?」
カーナビの画面に従いながら、倉庫やアパート、工場などが点在する、新木場の中でも少し寂しい感じの場所で長友はタクシーを停めた。学校の校門のような重そうな鉄製の門があり、門には「鹿島田不動産 管理物件」の金属板が針金で取り付けられている。
「ここですね。」
女の子の言葉を聞くと長友はハザードを点灯させて停車し、手元のレバーで後部座席のドアを開ける。女の子が車外に出たことを確認するとドアを閉め、自分も車から降りて軽く伸びをする。
「運転、お疲れ様です。」
女の子の優しい声に笑みを返しながら、潰れた建設会社を眺める。
鉄門の先に2階建ての事務所らしき建物があり、その横にはプレハブの物置小屋がポツンと建っている。敷地は割と広いが、半分以上は駐車場のようだ。おそらく、重機や作業用車両の駐車スペースだったのだろう。
「あの建物に、その、スーツケースが?」
死体、という単語を使いたくなくて、思わず口ごもった。
「多分、そうですね。愛梨ちゃんの話だと、あの事務所の、1階のロッカーの中だそうです。」
「なるほど・・。こりゃあ、5年間も見つからないわけだな。」
潰れた会社の敷地だと、誰かがゴミを不法投棄したり、暴走族が侵入して落書をしたり、というのが定番だが、この会社は四隅を高い塀で囲まれており、誰も侵入できそうにない。
「出入口は・・この鉄門だけですかね。」
女の子が鉄門から中を覗き込みながら言う。長友も門の隙間から目を凝らすが、敷地の横や裏口に扉らしきものは見当たらない。
「他に出入口は無さそうだね。」
長友は少し後ろに下がると鉄門を見上げる。高さは3メートルくらいだろうか。ただ、鉄門や横のブロック塀の上には鉄条網が何重にも巻き付けられており、乗り越えられそうにはない。鉄門自体も、重そうなチェーンで門柱と結ばれており、これまた頑丈な南京錠がかけられている。
「ずいぶん厳重ですねえ。」
女の子は失望したような声を出す。
「チェーンと南京錠は、不動産屋が付けたんかな。」
長友は鉄門の南京錠を覗き込みながら呟いた。
「門の上の鉄条網は、元からですかね?」
女の子が訝し気に質問してくる。こちらは錆びて赤茶けており、相当、年季が入っている。
「そうだろうね。防犯用かな。建設会社だと作業員の給料を現金で保管しているし。あと、作業車のハイエースとかは結構、窃盗団に狙われるからね。」
なるほど、と女の子は呟くと不満そうに鉄門の南京錠を手に取って観察する。
「鍵開け・・とかできませんよね?」
女の子の突拍子もない質問に長友は思わずむせた。
「ピッキングなんかできるわけないだろう。」
「そうですよねえ。」
女の子は、今度は鉄門の隙間から敷地の奥の方を覗き込む。
「奥側の塀は、比較的、低いですね。」
女の子の言葉を聞いて、長友も改めて門の隙間から覗き込む。
「ああ、ほんとだ。塀の向こうはアパートみたいだね。」
「そうか。日照権の関係で、塀を高くできなかったのかも。」
日照権なんて言葉をよく知っているな、と思いながら長友は言葉を返す。
「でも、塀の向こうはアパートの敷地だよ。おそらく向こう側は、1階の部屋の庭になっているんじゃないかな。アパートの部屋に入らないと、庭にも行けないと思うよ。」
女の子は腕組みをしたまま、うーん、と唸っている。
「まあ、アパートの1階の部屋を借りたら、庭に出れるだろうけどね。」
長友は軽い冗談を言ったが、女の子は、「ん?」 という仕草で顔を上げると「借りる?」と呟いた。
「いや、冗談だよ。」
長友は慌てて取り消したが、女の子はしばらく考え込んだあとに長友の方を向いて言った。
「借りる、ってのはアリかもしれない。」
「アパートの部屋を?」
「いえ。アパートではなくて。この建設会社の事務所を不動産屋から借りるんです。」
女の子は建設会社の事務所を指さして言う。
「ええ? そっちを借りるの?」
女の子の思わぬ発言に長友は少し大声を出す。女の子は真顔のまま言葉を続ける。
「建物を借りれば、貸借人として堂々と入れるじゃないですか。」
「いや、それはそうだけど。」
「ちゃんとした契約で借りると色々と証明書類が必要になるから、1日か2日レンタルしたい、って感じで軽く借りるんですよ。」
いやいや、と長友は首を振る。
「そんな簡単に貸してくれないでしょ。そもそも、何に使うのか、って不審に思われる。」
女の子は、大丈夫、という仕草で笑みを浮かべながら人差し指を1本立てる。
「この事務所をドラマの撮影で使いたいから貸してくれ、っていうのはどうです? 予定していたロケ場所が急に使えなくなって、明日から撮影のため、1日か2日、20万円くらいで貸して欲しい。中を掃除したいから鍵はすぐもらいたい、って。」
女の子のアイデア、というか悪知恵に呆れながら、長友は建設会社の事務所を眺める。
「言われてみれば、刑事ドラマの犯人のアジトとかで出てきそうな雰囲気・・かもしれないけど。」
「でしょう? これなら怪しまれないはず。」
女の子が得意気な表情で答える。
「でも、誰が借りてくるの?」
言った後で長友は嫌な予感がした。案の定、女の子は無言のまま、手を合わせて長友を拝んでくる。
「いやいや、ちょっと待って。」
「テレビの制作会社の人らしい恰好に変装して、借りに行ってもらえませんか? それに、長友さんは役者だったんだから、その・・演技とかもうまいと思うし。」
長友は空を見上げると首を振る。
「無理だよ。もしバレたりしたら、面倒ごとになる。」
「まあでも、ドラマの撮影はウソだとしても、ちゃんとお金を払って借りるわけですし。」
「お金はちゃんと払うの?」
「ええ・・。2日間借りる、ってことにして、20万くらいあれば大丈夫ですよね。」
女の子はトートバッグに手を入れると、封筒を取り出して万札の束を見せた。
「何でそんなにお金持っているの?」
不審そうに問いかける長友に、女の子は苦笑いをしながら答える。
「何ででしょうね。まあ、使うあての無いお金なので。」
歯切れの悪い女の子の口調が気になり、長友は、眉をひそめながら尋ねる。
「犯罪で稼いだお金じゃないよね?」
「違います。」
女の子は、むっとした表情で言い返す。長友は軽く溜息をつくと、お手上げのポーズをしながら質問する。
「君は、一体何者なんだい? 幽霊と話せて、大金を持ち歩いて。」
トートバッグに封筒を戻そうとしていた女の子の動きが止まると、長友の顔を見ながら女の子はイタズラっぽく言った。
「知りたいですか? じゃあ、手伝ってくれたら、教えます。」
長友は額に手をやって、しばらく考え込む。女の子は、あと一押し、という感じで、長友に頭を下げる。
「お願いします。人助け、と言うか、幽霊助けだと思って。」
長友は根負けしたように、やや投げやりに言う。
「分かった。やるだけ、やってみるよ。20万円払うから2日ほど貸してくれ、って言えばいいんだね?」
「そうです。ありがとうございます。」
女の子は嬉しそうに再び頭を下げる。
「うまく行くかは分からないけどなあ。」
「とりあえず、不動産屋に電話して感触を確かめてみましょう。」
善は急げ、と言うよりも、長友の気が変わらないうちに、と思ったのか、女の子は自分のスマホを長友に差し出す。
「これを使ってください。長友さんの電話番号が不動産屋に知られたら面倒になるかもしれないので。」
長友は頷きながらスマホを受け取ると、話の設定を思案する。
「刑事ドラマの制作スタッフのフリをして電話して・・。予定していたロケ場所が急に使えなくなって替わりを探していて、ここを見つけて電話した、と。」
「何のドラマか、って聞かれたら、土曜日の2時間ドラマ、ということにしましょう。」
「そうだな。単発物のドラマの方がよさそうだ。で、明日から2日ほど貸して欲しい、急な話ですまないですが、と。レンタル料は2日で20万円でいいんだね?」
「いえ・・。やっぱり40万円にしましょう。改めて役者のスケジュールを押さえることを考えたら、そのくらい安いもんだ、って言って。相手が確実に、すぐに食いついてくるような額じゃないと。」
「なるほど・・。で、とりあえず中を片付けて掃除したいから、鍵は今日、すぐに貸してほしい。現金を持って今から伺う、と。」
「うーん、ちょっと強引すぎますかね?」
「いや、実際の製作スタッフもそんなもんだよ。劇団時代にドラマのエキストラやってたから、よく知っている。」
「そうなんですか? じゃあ・・ひとつ、あとは長友さんの演技力でお願いします。」
うまいこと女の子に乗せられてるな、と思いつつ、長友は鉄門に掲げられた鹿島田不動産の電話番号をスマホに打ち込んだ。一呼吸おいて、発信ボタンを押そうとしたところで長友は手を止める。
「あ、車の中でかけるか。」
「え? 別にここでかけても・・。」
目の前の道路では、車はそれなりに走っているが歩行者はまったくいない。誰かに電話の会話を聞かれる可能性は低いが、長友はスマホを持ったまま運転席に乗り込む。女の子が怪訝な顔をしながら自分でドアを開けて後部座席を乗り込むのを確認すると、長友はスマホの発信ボタンを押した。
電話が繋がってから10分以上経過している。長友は運転席で熱演を続け、女の子は後部座席で目が点になったまま、微動だにしない。
「・・・いやーー、社長さん! 本当に、ありがとうございます! ドラマのエンディングの『撮影協力』ってとこに、しっかりと御社の社名を入れておきますのでー。」
電話の向こうの、人の良さそうな初老と思われる不動産屋の社長を相手に、長友はますます饒舌になる。
「今から40万円、間違いなく、持っていきますので。よろしくお願いいたしますー。あ、社長。今回の件、ご協力の謝礼と言う形にしますので、領収書は不要で大丈夫ですよ。」
電話の向こうで社長が大きな笑い声を出し、長友は思わずスマホを耳から離す。
「いやもう、こちらが無理を言ってるんですから。それくらいはもう・・。」
いい加減、長話、というか茶番に飽きてきたのか、後部座席で女の子が首のストレッチを始めている。
「はい! では、よろしくー、お願いいたします! 長友と申します!」
何回もお辞儀をして長友は電話を切ると、額の汗をハンカチで拭いながら後ろに声をかける。
「うまくいったよ。」
女の子は少し呆れたような顔をしている。嫌がっていた割には、結構ノリノリだったじゃないかと言いたげだが、素直に女の子は褒めてくれる。
「すごいですね。まるで別人じゃないですか。」
「役者時代はジキルとハイド、って呼ばれてたからな。」
すっかり調子に乗って、テンションが上がっている。いけない、いけない、と思いながら助手席に転がっていたペットボトルのお茶を取り上げ、飲み干すと一息つく。人を騙しているのに何で楽しんでいるだ、と思いつつ、やっぱり俺は演技することが好きなのかな、と思った。
「じゃあ、お金を持って、不動産屋に行きましょう。」
長友は不意に気付いて、後ろを振り返って女の子に言う。
「タクシー会社の制服じゃ行けないよね?」
「途中でジャケットか何かを買って着替えて行きましょう。普通の紳士服のチェーン店で売っているものでいいですかね?」
「充分だと思う。小道具としては。」
「では、まず紳士服店に行きましょう。それにしても・・まあ・・。」
「何だい?」
「やっぱり長友さんは、役者さんに向いてますよ。」
女の子の言葉に、長友は照れ笑いなのか自嘲の笑みなのか、自分でも良く分からない笑いを浮かべながら長エンジンキーを回すと女の子に尋ねる。
「どこかで、飲み物買ってもいいかな?」
「ええ。奢りますよ。私はネットで近くの紳士服店を探します。」
長友は少し窓を開けると、ウインカーを出しながらタクシーを発進させた。
10分くらいタクシーを走らせて、紳士服チェーンの駐車場にタクシーを滑り込ませると長友は女の子に声をかける。
「到着です、と。」
「どんな服を買えばいいんでしょうね。テレビ屋さんだと。」
女の子の質問に長友は思い出すように顔を上げて、少し考える。
「普通にカラーシャツと、ジャケットかなあ。」
答えながら長友がタクシーをバックさせて駐車しようとすると、女の子のスマホが鳴り出した。
「あれ? これって・・。」
女の子はスマホの画面を見て戸惑っている。
「どうしたの?」
「鹿島田不動産からです。」
女の子が少し慌ててスマホを長友に差し出してくる。長友はスマホを受け取ったものの、一瞬、躊躇する。
「出るの?」
「出てください。」
女の子のきっぱりとした声に長友はスマホの通話ボタンを押す。
「はい、長友です。ああ、社長さん、どうされましたか? ええ。今、そちらに向かっています。」
「長友さん、すみませんねえ。こちらに来ていただいて、鍵をお貸しする約束だったんですけど・・。」
鹿島田不動産の社長が申し訳なさそうな声を出してくる。歯切れの悪そうな社長の言葉に長友は平静を装いつつ聞き返す。
「どうかされましたか?」
何かバレたのだろうか? 少し焦ったような長友の表情に、女の子が後部座席から身を乗り出し、長友が持っているスマホに耳を寄せる。
「それがですねえ。ウチの社員が、あの事務所はもう何年も人が入ってないし、老朽化で床が抜けたりすると危険だから、人に貸す前に自分がチェックしてくると言って、今さっき、鍵を持って事務所に向かってしまいましてね。」
「ああ、そうですか。」
特に怪しまれたことではないと分かって、長友は安堵した。
「そうしたら、丁度いいから、その社員さんと事務所の前で待ち合わせて、鍵をお借りすることでもいいですかね? お金は、その社員さんに渡しますので。」
あー、それで構いませんよー、と社長は大声を出す。
「じゃあ、その社員に連絡しておきますわ。そいつの名前は、鹿島田雄一、って言うんですけどね。」
どこかで聞いた名前だと思いつつ、長友はのんびりと返事を返す。
「鹿島田、雄一さん・・、鹿島田社長の息子さんですかね?」
「いやー、甥っ子ですわ。元々、小学校の先生やってたんですけどね。今はうちの社員で。」
「ほー。小学校の・・・先生?」
鹿島田雄一って、愛梨ちゃんを殺した犯人じゃないか。慌てて女の子の顔を見ると、女の子は険しい表情で、スマホを保留にしろ、とジェスチャーを送って来る。
「社長、ちょっとお待ちください、すみません。」
あーはいはい、との社長の声を聴きながら通話を保留にする。
「例の犯人の、鹿島田雄一が事務所に行こうとしてる。」
「聞いてました。たぶん、先回りして、死体を移動して、別の場所に隠すつもりでしょう。」
「先を越されたってことか?」
「そうでしょうね・・。でも、鹿島田雄一は、今日は休みだってホームページに出てたのに。」
「どうする?」
何も案を思いつかず、女の子に頼っているのも情けないが、まったく妙案は浮かばない。
「とりあえず、鹿島田雄一と直接会うのはやめましょう。長友さんに何かあっても危ないし。」
「分かった。」
長友はスマホの通話ボタンを押すと、社長に話しかける。
「そうしましたら、社長。その、鹿島田雄一さんのチェックが終わってから、改めてそちらに鍵を借りに行きますよ。雄一さんが戻ってきたところで、お電話くだされば。」
それでいいですかあー、と社長が呑気な声を出す。まさか、自分の甥っ子が死体を移動しに行っているなど、思ってもいないだろう。
「雄一さんは、電車で出られてます?」
「いや、車ですわ。私のメルセデスで。」
ベンツと言わないところがいやらしい。
「社長のお車で?」
「ええ。あいつ、今日は休みで私の車を借りに来たんですよ。ドライブするとか言ってね。で、この話をしたら、俺が先に安全確認をしてくる、って。普段もあんなにやる気を出してくれりゃあいいんですけど。」
運が悪い、と長友は思った。
「雄一さんは、いつ頃出られました?」
「今さっきですわ。もう2、3分前とかです。」
「そうですか。じゃあ、雄一さんが戻って来られたら、お電話ください。」
「すみませんね、話が違ってしまって。」
いえいえどうも、と丁重に挨拶をして長友は通話を切ると、女の子にスマホを返しながら話しかける。
「どうする? 鹿島田雄一が死体を持ち出した後に尾行して、新しい隠し場所を突き止めるか?」
「それもいいんですけど、どうせだったら、鹿島田雄一が死体を持ち出したところを警察に捕まえてもらうのがベストですね。」
なるほど、と長友は感心した。
「よし。じゃあ、警察に匿名で通報する?」
「ただ、警察にどう言うか、ですね。死体を運んでいる、って通報してもイタズラと思われるでしょうし。」
「ああ・・、そうか。普通に110番しても・・説明できないな。」
長友は運転席に、女の子は後部座席に身を沈めながら互いに考え込む。先に口を開いたのは女の子の方だった。
「スーツケースに麻薬とか、拳銃を入れて運んでいる人がいる、って通報するのはどうでしょう? 死体を運んでいるってのよりは現実的だし、警察も職務質問して、スーツケースを調べてくれるかも。」
長友は素朴な疑問を口にする。
「でも、スーツケースで運んでるってことは、相当な量の麻薬や拳銃ってことだよね。現実的でない点では死体と同じじゃない?」
「まあ、そうか・・。」
女の子は軽い溜息をつきながら落胆して呟く。
「スーツケースで運ぶことが現実的な、非合法のものがあればいいんですけど。」
「現実的な非合法、か。」
女の子の言い回しを少し笑った長友だが、ふと、その言葉に合致するものが浮かんだ。
「ねえ。金塊なんてどう? 最近よく密輸されているってニュースで聞いたけど。」
「ああ。密輸した金塊をスーツケースに入れて運んでいる、と。」
女の子が身を乗り出してくる。
「そう。鹿島田雄一は社長のベンツに乗って来るからちょうどいいんじゃないか? 潰れた建設会社に隠しておいた、密輸した金塊を、スーツケースに入れてベンツで運ぼうとしているヤツがいる、って。」
女の子は長友の顔をまっすぐに見ながら、大きく頷く。
「すっごい現実的ですね。」
「かつ、非合法だろ?」
「さすがです。」
女の子に素直に褒められて、長友は柄にもなく少し照れ笑いを受かべる。
「じゃあ、このセンで警察に通報してみるか。うまく行くかは分からないけど。」
「お願いします。ところで、水天宮の鹿島田不動産から新木場の事務所まで、車でどれくらいかかります?」
「今の時間帯だと・・40分はかかると思う。だから、鹿島田雄一の到着まであと3分くらいか。」
30分、との時間を聞いて女の子は顔を曇らせながら、早口で言う。
「そうしたら、110番よりも、管轄の警察署に直接電話したほうがいいですね。タライ回しにされたら時間の無駄だし。」
「新木場だと、管轄は深川警察署かな。」
調べます、と言って女の子はスマホを慌ただしく操作する。
「どういう演技で通報するのがいいかな。」
長友の独り言に、女の子は顔を上げる。
「そのあたりは長友さんにお任せします。信用してますから。」
信用、という思いがけない単語に少しプレッシャーを感じながら、長友は無言で頷く。
「管轄は深川警察署で合っています。代表番号はこれで・・、私のスマホからかけてください。」
長友は女の子のスマホを受け取ると、呼吸を落ち着かせて電話番号をタップした。
深川警察署の2階、生活安全課の警部補である岩永は鳴り出した内線電話に顔をしかめた。あいにくと、生活安全課の席には自分しかいない。普段は他の若い連中が電話を取ってくれるのだが。仕方なしに岩永は自分で受話器を取る。
「生活安全課です。」
「こちら受付ですがー、あのー。金塊の密輸に関する情報提供の電話が外線からかかってまして。」
「東京税関を案内してやれ。」
岩永は無愛想に言う。金塊の密輸は関税法の違反であるため東京税関に情報提供の窓口がある。もちろん、警察も捜査や逮捕に協力はするが、管轄は税関だ。
「それが、密輸した金塊を30分後に運び出す人がいるから職務質問して欲しい、との内容で。地域課に回そうか、そちらに回そうか迷ったんですけど・・。」
うーん、と岩永は唸った。不審者に職務質問して欲しい、ということであれば地域課の担当であるが、職質の結果で不審な金塊が出てきたら結局は生活安全課が調べることになる。
「分かった、繋いでくれ。」
「お繋ぎします。」
カチャリ、と電話が切り替わるアナログな機械音の直後に相手の声が聞こえてきた。
「あー、ちょっと、刑事さんかい?」
電話の向こうは軽そうなノリの若者だ。
「警部補の岩永です。」
「お? 警部補さん? 声の感じだと、50歳手前って感じかな? おっさん、ラッキーだよ。手柄を立てるチャンスだ。」
50歳超えてるよ、と心の中で悪態を付きながら、岩永は丁寧語で応対を続ける。一般市民には「ですます調」で丁寧に対応せよ、と上層部から口酸っぱく言われているからだ。
「金塊の密輸に関する情報ということですが。」
「そうそう。新木場の、潰れた建設会社に密輸した金塊が隠してあってさ。悪い奴がそれを、あと30分くらいで取りに来るから、職質してそいつを捕まえて欲しいんだよ。」
「あなたは、なぜそれを御存じで?」
「その金塊を運び出すヤツはさあ、駅前のキャバクラの常連で、まあー、嫌な奴なんだよ。カネをバラまいて、女の子の気を引いてさ。」
「キャバクラってのは、そういう場所ですからね。」
自分の嫌いな奴に嫌がらせをするために不審者や犯罪者として通報して、職質させようとする手合いはよくいる。こいつもそのタイプだろうか?
「そうなんだけどよ。野郎は、まだ30手前なのに羽振りのいいヤツでさあ。でね、そいつが昨日の夜、キャバの裏口で電話してて、俺、その内容を聞いちゃったのよ。」
「どんな内容ですか?」
「密輸して隠しておいた金塊を運び出して、今日、売りに行くって話だよ。20キロ分の金塊って言ってたぞ。正午くらいに隠し場所から運び出すって言ってた。ちょうど今頃、野郎のご自慢のベンツで向かっている最中だろうな。」
岩永は自分の腕時計を見る。今の時間は午前11時30分を少し過ぎたところだ。
「なんでこんなギリギリに通報してくるんですか?」
ガセの通報か本物の通報かは分からないが、さすがに突然すぎるだろう。
「悪かったよ。朝起きたら電話しようと思ってたんだけどさあ、二日酔いで、さっき起きたんだよ。」
「で、金塊の隠し場所というのは、潰れた建設会社の中? そんなとこに隠しておいたら誰かに見つかりませんか?」
「それがさあ、そいつは不動産の仕事してるんだけどね。職場の不動産屋で管理している、立入禁止の自社物件に金塊を隠していたんだと。まったく、よく考えるよなあ、悪人って奴は。」
岩永は少し考え込む。話の筋は一応通っているし、虚言や妄想で考えつく内容でもなさそうだ。
「分かりました。その建設会社の場所や、取りに行く人の名前など分かりますか?」
岩永は建設会社の住所、鹿島田雄一という名前をメモすると、相手に尋ねる。
「差し支えなければ、あなたのお名前を教えていただけますか?」
「差し支えあるんでね、内緒だよ。それより、あと20分くらいで、そいつが到着するから、しっかり捕まえてくれよ。」
「充分ですよ。その場所なら、サイレン鳴らさなくても10分か15分で行ける。」
「頑張ってくれよ、警部補さん。」
「はいはい。」
「警部補」との役職で呼ばれたことにイラっとして、最後だけは無愛想に言うと岩永は電話を切った。ちょうど、部下である巡査部長の小山がトイレからのんびりと戻ってきたので岩永は声をかける。
「小山。車両の鍵を。」
「何かありましたか?」
緊張した面持ちで足早に小山が近づいてくる。
「単なるタレコミだ。詳しくは、車で話す。」
はいっ、と威勢の良い声を出して小山が嬉しそうに総務課に走っていった。まるでイヌだな、と思いながら岩永は椅子に掛けていた上着を手に立ち上がった。
「まったく・・、クソ! クソ! クソッ!」
鹿島田雄一は信号待ちでベンツのレザーシートに座りながら、運転席のひじ掛けを何度も叩いた。普段はすこぶる快適な叔父のベンツだが、今日は運転をまったく楽しめない。
それもそのはずで、殺したこともとっくに忘れていた、元教え子である榎本愛梨の死体をこれから急遽、どこかに移動することになったのだ。ドライブを楽しむ余裕なんて、あるわけもない。
「ドラマの撮影で借りたいとか、ほんと、ふざけんなよ。マジで。」
確か、スーツケースには鍵をかけていなかったはずだ。殺した後に量販店で慌てて買ったスーツケースに死体を入れたが、死体も、死体を入れたスーツケースもあまり触りたくなく、鍵をかけた記憶はない。ドラマの撮影に来たスタッフが不審に思ってスーツケースを開けたら、もうその時点で警察沙汰だ。
「とりあえずスーツケースは、どこかのコインロッカーに隠しておくか・・。」
死体入りのスーツケースを自宅に持って帰るなんて、まっぴら御免だ。確か大きな駅にはスーツケース用のコインロッカーがあったはずだ。ドラマの撮影中だけコインロッカーに移しておいて、撮影が終わったらまた戻しておけばいい。
「とにかく、さっさとどこかに隠さないと。」
気は早るものの交通量も信号も多いため、ベンツでもなかなかスピードを出せない。もうずっと続いている緩やかな信号待ちの渋滞に、鹿島田雄一はずっとイライラしていた。
ようやっと前方の信号が青になり、ゆっくりと前の軽自動車が発進した。鹿島田は勢いよくベンツを発進させると、軽自動車を追い抜くために右にウインカーを出して、追越車線のカローラの前に強引に割り込んだ。
「ひどい運転だな!」
捜査車両のカローラを運転していた深川警察署の巡査部長である小山は強めにブレーキを踏んで減速すると、急に割り込んできたベンツを思わず罵った。が、すぐに思い直して、後方を確認すると左側の車線に車を移動する。
助手席に座っていた上司の岩永警部補が、一見すると意味のない車線変更に不思議そうな声を出した。
「どうした?」
「いえ。対象の鹿島田、ってヤツはベンツで向かっているんですよね?」
「ああ・・。今、前に割り込んで来た、あのベンツがそうだと?」
「それは分かりませんが、念のためです。覆面パトカーがいたら、金塊を取りに行くことを中止するかもしれないので。」
「さすがに考えすぎだろう。そもそも、これが覆面パトカーだなんて分かりゃあしない。」
軽く笑い声を出した岩永に、むっとした顔で小山は反論する。
「安全運転している銀色のカローラ、乗っているのは2人組のスーツの男。見る人が見れば覆面だってすぐ分かりますよ。」
ふーん、と岩永は鼻を鳴らす。
「それに、この時間帯にこの道路を通っているベンツなんて、情報が確かだとすると、対象の鹿島田が乗っている可能性の方が高いと思いますけど。」
「なるほどなあ。」
岩永は感心したような声を出す。だからあんたは警部補止まりなんだよ、と小山は心の中で罵った。
「じゃあ、あれが鹿島田のベンツだったら、褒美に昼飯おごってやろう。」
はあ? と、小山は思わず言いそうになった。この岩永という警部補の下について、もうすぐ1年だが、この上司の警部補が何を考えているのか、いまだによく分からない。そもそも、そんなことを賭けるのなんて不謹慎ではないか。結構です、と小山は答えようとしたが、ふと考えを変えた。
「おごってくれるって、何でもいいんですか?」
「何でもって・・。ランチにしてくれよ。」
「大丈夫です。ランチセットですから。」
そうか、じゃあいいよ、と言った岩永を横目に、小山は腹の中でニヤリとした。深川署の近くにある寿司屋の特選海鮮丼ランチをタダで食えるチャンスだ。お値段は税抜きで3千円也。
「楽しそうだな。」
岩永の声に小山はドキリとしたが、前を向いたまま、適当な無言の愛想笑いで誤魔化した。
「前の車、覆面じゃないか?」
妙なところで自分の前に車線変更してきた銀色のカローラを見て、不審げに長友は呟いた。
うん? と言った感じで女の子も後部座席から前を覗き込む。
「男2人で銀色のカローラか。怪しいですね。」
うん、と頷きながら長友はアクセルを緩めて少し車間を取る。銀色のカローラには一般人はあまり乗らず、大体は営業車か警察の覆面車両というのが相場だ。しかし前のカローラには営業車にありがちな会社名などは無く、トヨタ車にありがちな販売店のステッカーも貼られていない。こうなるともう、警察に納入された覆面車両の可能性が高いと言うことだ。
「もしかして、さっきの長友さんの通報で向かっている深川警察署の人かも。」
「そうであれば嬉しいね。多分、電話の相手は信じてくれたと思うけど。」
長友が気になっていたのは、結局イタズラと思われて警察が来ないことだった。もし、前のカローラが自分の通報で動いてくれた覆面であれば非常に頼もしい。適度な車間距離を保ちつつ、長友は前方のカローラに向かって、頼むぞ、と願った。
「やっぱり、あのベンツ。例の鹿島田のベンツじゃないですか?」
覆面車両を運転する小山巡査部長が、右折車線に入ったベンツを睨みながら、助手席の岩永警部補に話しかける。幸いにも、ベンツと覆面車両の間にはワンボックス車が1台入っている。さすがに2台後ろの覆面には気付かないだろう。
「そんな気がしてきたな・・。タレコミのあった建設会社は、そこを右だろう?」
「右折して、300メートルくらいですね。」
直進方向の信号が赤に変わり、右折の矢印が出た瞬間に、交差点の先頭に立っていたベンツが勢いよく発進して綺麗なターンを見せながら交差点を曲がっていく。
前のワンボックス車と不自然でない程度の車間距離を開けながら右折すると、前方でベンツが車道左側のパーキングメーターに車体を寄せた。
「例の建設会社の前ですね。」
「一旦通り過ぎて、少し前のパーキングメーターに停めよう。」
助手席の岩永警部補も、さすがに少し緊張した様子で指示を出す。倉庫街の一角の寂し場所で、パーキングメーターは大体7割くらいが空いている感じだ。小山はできるだけベンツの方を見ないように通り過ぎると、ベンツから少し離れたパーキングメーターに車を寄せる。ベンツとの間には中型トラックが駐車してあり、おそらく対象の鹿島田雄一という奴には気付かれていないだろう。
「まだ降りるな。」
岩永の指示に小山は軽く頷く。助手席の岩永はドアミラーで後方を確認している。
「今、対象は例の建設会社の鍵を開けている。開いたな。チェーンを外して、鉄門を開けて・・入った。」
「どうします?」
「門から少し離れたところで待機。金塊が入ったスーツケースを持ってきたら職質だ。」
岩永はシートベルトを外すと、ガードレールにぶつけないように、ゆっくりとドアを開けて出て行く。
小山も慌ててエンジンを停めてキーを抜くと、車を降りる。ドアをロックしようとした時に、岩永が困ったような表情で自分を見ていることに気付いた。
「どうしました?」
「300円、持ってるか?」
何のことだろう、と小山は一瞬考えたが、300円という金額からパーキングメーターの料金のことだと気付いた。
「小銭、無いんですか?」
ポケットから小銭入れを取り出すと、小山は中身を確認する。
「いや。あるけどさ。これって、領収書出ないんだよ。」
小銭入れから百円玉を取り出そうとしていた小山は岩永を見つめる。それは、俺が自腹で立て替えろってことか? 一瞬、むっとした小山だが、特選海鮮丼の消費税くらいは払ってやろう、と思い直した。
「私が払います。ただ、ランチのおごりは忘れないでくださいよ。」
「ああ・・。そうだったな。」
と言うと、岩永は肩を落とした。小山は、そんな岩永を横目で見ながら100円玉をパーキングメーターに投入した。
長友のタクシーは、鹿島田雄一のベンツから30メートルほど後方のパーキングメーターに停車していた。
「100円玉、持ってます?」
後部座席の女の子が小銭入れの中身を見ながら、顔をしかめて長友に尋ねた。
「そりゃ、持ってるよ。釣り銭としてさ。」
長友はプラスチックの釣銭用ケースを開けると、100円玉を3枚取り出す。
「払っておくよ。」
「すいません。最後に全部、精算して払うので。」
「それよりも、どうする? ここで様子を見る? 外に出る?」
「ここからだと、見えにくいですねえ。」
鹿島田雄一が建物の中に入って行くところは何とか見えたが、前方に大型トラックが駐車しているせいで、職質されている様子などはここからは観察できないだろう。
「・・・反対側のパーキングメーターが空いてるな。」
周囲を見渡していた長友が、めざとく対向車線側のパーキングメーターに空きスペースを見つける。
「あの位置だと、ちょうど建物の正面ですね。」
「まあ、道路を走る車が邪魔になるかもしれないけど、ここよりはマシかな。」
「じゃあ、向こう側に移動しましょう。Uターンして行けますかね。」
「ここはUターン禁止だからね。ま、どこかで曲がって、向こうに停めよう。」
長友は100円玉を握りしめたまま、タクシーをゆるやかに発進させた。
「いい車ですね。」
建設会社の鉄門から少し離れたところで、小山は鹿島田雄一のベンツを見ながら呟いた。
「高いのか?」
車にあまり興味が無さそうな岩永は素朴な質問をしてくる。
「新車なら1800万くらいですね。」
「すごいな、それは。」
岩永が唸り声を上げて、ベンツをまじまじと見つめる。
「・・どこが高いのか、まったく分からん。」
エンジンの説明をしたほうがいいかな、と小山が思ったときに、建物の方からスーツケースを引く音が聞こえてきた。岩永は瞬時に緊張した顔に戻ると、小山に向かって「静かに」とのジェスチャーをした。小山も無言で頷く。
間もなく、鹿島田雄一と思われる小太りの男が建物からスーツケースを引きながら出てきて鉄門を閉め、門柱にチェーンを巻き始めた。少し離れたところにいる岩永と小山には気付いている様子もない。
岩永がゆっくりと歩き始め、小山は一歩遅れて、岩永の後を歩く。
「すみません。」
岩永は、まるで道を尋ねるかのように、小太りの男に声をかけた。重そうなチェーンを巻き付けていた男は、驚いたように振り返ると、明らかに警戒した様子で「何ですか?」と鋭い声を発した。
「あのー、警察の者です。」
岩永がポケットから身分証を出すと男に見せる。小山も無言で、男に身分証を提示した。警察官だと分かった途端、小太りの男が明らかに狼狽した様子を見せた。
「あっ。驚かしてすみません。実はですね、この近くで空き巣の被害がありましてね。それで今、聞き込みをしているんですが。」
岩永の発言に、小太りの男は一転して安堵の表情を見せる。間髪入れずに、岩永は鉄門に付いている不動産屋の「関係者以外立入禁止」との看板を指さしながら尋ねる。
「この建物は立入禁止じゃないんですか?」
「ああ。ウチの管理物件です。私、不動産屋でして。そこに書いてある、鹿島田不動産の者です。」
「そうでしたか。ところで、このスーツケースは、あの建物から出して来たんですか?」
小太りの男の目が一瞬、泳いだ。
「え、ええ・・。」
「中身、見せてもらってもいいですか?」
驚きと抗議が入り混じった口調で、小太りの男は「何でですか?」と少し大きな声を出したが、岩永は何食わぬ顔で、丁寧な物腰で男に頼み込む。
「空き巣の盗品が入っていないかの、念のための確認です。ご協力をお願いします。」
男は目を丸くして、首を振りながら早口でまくし立てる。
「いやっ。ちょっと、仕事の、重要な書類が入っているんで。部外者に見せるわけにはいかないんですよ。」
「じゃあ、書類の文字が見えないように離れた場所に立っていますから、開けてください。」
「いえ、あの。急いでいるので。もう、すぐ行かないと。」
男はまだ巻き付けている途中のチェーンにそそくさと南京錠をはめると、重そうなスーツケースを引いて歩き出す。
「ちょっと開けるだけです。10秒で済みますから。」
小山はとっさに男の前に回り込んで引き留める。
「急いでいるって言ってるだろう! あんたら、ここらへん歩いている人の荷物を全部チェックするのかよ?!」
怒鳴り声と一緒に唾が小山の顔に飛んできて、思わず小山は顔をしかめて一歩下がった。岩永も男の前に回り込み、再び穏やかな声で頼み込む。
「不審なものが入っていないか、それだけ確認したいんですよ。」
「何も入っていない!」
男は悲鳴のような甲高い声を出す。異様に怯えた男の表情に、小山は少し違和感を感じた。密輸した金塊で、ここまで必死に抵抗するものか?
「職質は任意だろう?! 開ける義務なんか無いだろう?!」
岩永に向かって男が声を荒げている隙に、小山はスーツケースを観察する。少しホコリのかぶった、ノーブランドの安っぽい灰色のスーツケースだ。ただし、サイズは相当に大きい。
小太りの男は岩永と揉めており、小山に気付いている気配はない。小山は腰を落として、スーツケースをもっと近くで見ることにする。
よく見ると、商品のタグと、スーツケースのカギが取っ手にぶら下がったままになっている。まるで、買ったまま放置していたような感じだ。そして、閉じられたスーツケースの隙間に、黒い糸が何本か挟まっている。金塊を包んでいるビロードのような布の切れ端だろうか。小山は何気なく、黒い糸に目を近づけた。
「岩永さん!」
自分でも驚くような大声が出て、自分の大声に小山自身も驚いた。
「何だ!」
岩永も大声で小山に言い返す。
「これ・・、髪の毛じゃないですか?」
岩永は小山の言葉の意味が分からないまま棒立ちしていたが、無言でスーツケースに近づき、中腰の体勢で黒い糸に目を近づける。老眼のため、何度かスーツケースに顔を近づけたり、遠ざけたりしたが、目の焦点が合い、ホコリの付いた傷んだ髪の毛らしきものがスーツケースの境目から数本ほど飛び出しているのを確認すると、岩永は顔色を変えて小太りの男を怒鳴りつけた。
「おい! これ、中身は何なんだ?」
中身は金塊だろう? と思わず岩永は言いそうになったが、かろうじてこらえる。小太りの男は小刻みに首を横に振り出して、岩永の問いには答えず、怯えたように後ずさりを始めた。岩永が飛びかかるように男の腕を掴むと、再び問いただす。
「中に、誰か入っているのか?」
違う、違う、というように男は引きつった顔で何度も首を振る。
「小山。開けろ。」
予想外の岩永の指示に、小山は目の前のスーツケースを見つめる。
「いいんですか? あの・・・所有者の同意は?」
「中に誰かが入っている可能性があるのなら、人命救助が優先だ。開けろ。」
誰かが入っているって? 中身は密輸された金塊のはずだ。
岩永の言葉に困惑しつつも、小山はスーツケースをどうやって開けようかと少し思案し、スーツケースをそっと横倒しにして路上に寝かせる。それなりに重いスーツケースではあったが、重さの重心が柔らかい感じであり、金塊が入っているようには思えない。目の前のスーツケースが急に怖く思えて、小山は岩永の方を見る。
岩永は小太りの男のズボンのベルトを逃げないように掴んだまま、開けろ、と再び言った。小太りの男は、怯えたような表情でスーツケースを凝視している。
小山はスーツケースに向き直り、軽く息を吸い込むと、スーツケースの両方の留め金を手前に引く。ガチャン、とスーツケース特有の音がして留め金が外れた。そのまま小山はゆっくりと、宝箱を開けるようにスーツケースを開いた。まず目に入ったのは子供用らしい小さな青いスカートと、黄ばんだピンク色のTシャツ。その可愛らしい子供服から伸びている手足は干からびており、所々から白い骨が見えた。直視することができずに、小山は顔を背けながらスーツケースを全開にした。小太りの男の叫び声が聞きながら、小山は何も見ないようにして歩道のアスファルトを見続けた。
長友と女の子は、鹿島田雄一が職務質問され、刑事がスーツケースを開ける状況を一部始終、ちょうど向かい側のパーキングメーターに停めたタクシーの車内から見ていた。
「終わりましたね。」
長友に向かって女の子が抑揚の無い声で言ったが、長友は返事をせずに反対側の歩道を見続けていた。スーツケースの中までは見えないが、おそらく、本当に愛梨ちゃんの死体が入っていたのだろう。スーツケースを開けた若い刑事は、スーツケースから少し離れたところで真っ青な顔をして歩道に手を付いたまま動かない。職質されていた鹿島田雄一は大声を出して逃げようと暴れていたが、初老の刑事に怒鳴られながら取り押さえられ、ちょうど今、腕を掴まれて覆面車両の後部座席に押し込まれるところだ。長友は、ふと気付いて明美に話しかける。
「あの白髪の刑事さん。俺が、電話で話した刑事さんだ。」
明美はその言葉には答えず、長友に声をかける。
「長居は無用です。行きましょう。」
「・・・ああ。」
長友は、ゆっくりとエンジンキーを回すと、サイドブレーキを下げる。車を出そうとした時、歩道に戻って来た初老の刑事が、開かれたままのスーツケースの前にゆっくりと腰を下ろし、目を閉じてスーツケースに向かって両手を合わせた。
長友は思わず、初老の刑事を見つめる。立派な刑事さんだ。嘘の通報をして、悪いことをしたかもしれない。
合掌を終えた刑事が両手でスーツケースをゆっくりと閉じると、目線に気付いたのか、道路の向かい側で駐車中のタクシーを見やり、長友と目が合う。長友はすぐに目を逸らすと、慌ててタクシーを発進させた。
あからさまに不審だったかなと思い、長友がドアミラーを見ると、初老の刑事は特に気にしなかったようでどこかに電話をかけていた。長友はほっとすると、女の子に声をかけようと今度はルームミラーを見る。
「どうかで休憩しましょう。」
ちょうど、自分が言おうとしていたことを女の子が先回りして言ってくれて、長友は少し苦笑いする。ペースを握られているというか、何と言うか。ただ、少し気分転換したいことは事実だ。長友は、ふと思いついて提案する。
「いい天気だし、公園でお茶でもどうですか?」
女の子は嬉しそうに目を細めて微笑む。
「いいですね。ちょうど日向ぼっこしたいし。」
「それに、あなたが何者なのかも聞きたいですからね。」
長友の言葉に、覚えてたのか、というように女の子は肩をすくめる。そんな動きを横目で見ながら、長友は近くの公園に向けてタクシーを走らせた。
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