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第3章
公園沿いの駐車場は一般車両に加えて、営業車やトラック、同業のタクシーで混んでいた。ちょうどお昼の時間帯でもあり、職業ドライバーも車を停めて、のんびりと昼休みしているのだろう。駐車スペースを探しながらゆっくりと長友がタクシーを走らせていると、ちょうど軽トラックに乗り込もうとしていた運転手がにこやかに「今出るよ」というジェスチャーをしてくれた。長友も笑みを返しながら軽く手を挙げてお礼をし、軽トラックが走り去った後の駐車スペースにタクシーを停める。
2人で車を降りると近くの自販機で長友は緑茶のペットボトルを買い、女の子はブラックコーヒーのボトルを買った。
公園内も平日の割には人が多く、ベンチは空いていなかったので、2人は周りに人がいない小高い丘のようになった芝生に上り、そのまま腰を下ろすと、お互い無言のまま飲み物を開封して飲み始める。
ふう、と息を吐いて、長友は口を潤したペットボトルを口から離すと、倒れないようにペットボトルのお茶を慎重に芝生に置く。
女の子は味わうようにブラックコーヒーを飲んでいる。苦みと酸味を楽しんでいるような飲み方に、長友はなぜか感心した。
「何です?」
飲み方を見られていた女の子が缶のボトルから口を離して長友に問いかける。
「いや、いい飲みっぷりだと思って。」
長友の答えに女の子は無言で笑うと、缶のボトルを芝生に置く。
「本当に、死体が入っていたんだね。」
独り言のような長友の言葉に、明美は怪訝な顔をする。
「疑っていましたか?」
いいや、と長友は首を振る。
「疑ってはいないんだけど、なんか、すごいことをしたなあ、と思って。」
うまい言葉が見つからずに子供の感想みたいなことを言ってしまい、長友は少し恥ずかしくなって話題を変えた。
「で、君は一体、何者なの?」
明美はちょっと顔を上げて考える。
「本当に知りたいですか?」
ああ、と返事をした長友の目を見つめながら、明美は言った。
「実は、私も幽霊なんです。」
え? と長友は聞き返したが、明美は真顔のままだ。
「長友さんだけに見える幽霊で、他の人からは見えないんです。」
そんな馬鹿な、と硬直した長友の顔を見つめていた明美は不意に吹き出した。
「・・冗談です。大丈夫、他の人からも私は見えていますから。」
安堵しつつも長友は明美の笑い声に顔をしかめる。
「悪い冗談はやめてくれよ。」
「ごめんなさい。あ、でも私が幽霊なのは本当なんです。」
そう言うと、明美は両手で自分の体を指さす。
「この子は、石野明美ちゃん。で、私はこの子の体に乗り移った幽霊なんです。」
先ほどのこともあるから長友は慎重だ。すぐには信じず、確かめるようにゆっくりと尋ねる。
「それは、本当なのかい?」
「ええ。この子と一緒に事故に合って、私は死んで幽霊になったんですけど。事故で生き残ったこの子に、なぜか、死んだ私の魂が乗り移ってしまって。」
「あなたと、その子の関係は? 姉妹とか?」
いいえ、と明美は首を振る。
「他人ですよ。交差点で横断歩道を渡っていたら車が突っ込んできて、この子と私を跳ね飛ばして。で、意識が戻ったら、私の肉体は死んでいて、私はこの子、石野明美ちゃん乗り移っていて。」
疑うわけではないが、長友は疑問を口にする。
「そんなこと、あり得るの?」
「実際に起きているので、あり得るんでしょうね。何か、キツネ憑きみたいなものらしいですよ。死んだキツネの魂が近くにいた人間に乗り移る、みたいな。」
ああ、と長友は少し納得するが、またも疑問を口にする。
「乗り移られた、その女の子の魂はどうなったの?」
「この子の・・石野明美ちゃんの魂は、この体の中にいます。私の魂が、明美ちゃんの魂を押し込んでいるような状態になっていて。表には出てきません。」
ふうん、と頷いて考え込んだ長友だが、不意に気付いたように顔を上げる。
「そうか。この、明美ちゃんに乗り移った、あなた自身は幽霊だから、他の幽霊が見えて話もできるということか。」
そのとおり、というように明美は頷く。
「ええ。幽霊が、人間の体を操っている、ということが正しい表現なのかもしれませんね。」
薄気味悪くなってきた感触を、長友はペットボトルのお茶と一緒に飲み込む。何の味も感じないままお茶を胃の中に入れると、女の子に向かって質問する。
「ところで、あなたの名前は何て呼べばいいですか?」
「明美でいいですよ。この子は石野明美だけど、私も山下明美って名前だったし。」
「同じ名前だから、魂が乗り移ることができたとか?」
長友の真面目な質問に、明美は苦笑いしながら答える。
「偶然だと思いますよ。あ、ちなみに幽霊の私は、20代の会社員です。いや、でした、かな。」
長友は再びペットボトルのお茶を口に運び、口の中を湿らすと明美に話しかける。
「納得だな。中学生にしては大人びていると思ったんだよ。」
「ああ・・、いつもはちゃんと子供を演じているのですけどね。長友さんほどの演技力は無いですけど。」
今度は長友が苦笑いをする。
「ところで、俺の彼女・・の幽霊とは、どういう経緯で知り合ったの?」
明美はコーヒーを一口飲んでから答える。
「私は、この子に乗り移ったあと、この体を早く本当の石野明美ちゃんに返したくて、色々と方法を探していて。ネットで調べたり、図書館で文献を調べたり、親切そうな幽霊さんに尋ねてみたりして。」
軽く溜息を付いてから明美は言葉を続ける。
「でも、どうやったら、この子に体を返せるのかが全然分からなくて。そうしたら、調べている途中で知り合った、長友さんの彼女さんと、さっきの愛梨ちゃんの幽霊さんが協力してくれて、色々と方法を調べてくれたんです。」
そう言えば、自分の彼女は世話焼きなタイプだったな、とふと長友は懐かしく思い出す。
「結局、私の魂が成仏したら、本当の石野明美ちゃんに体を返せるってことが分かったんです。しかも2人は、私が成仏する方法まで見つけて来てくれて。で、お礼に私は、自分が成仏する前に2人のお願い事を聞いてあげることにしたんです。」
やっと繋がった話に長友は大きく頷く。
「で、俺の彼女のお願い事というのが・・・、昔に俺が彼女の家を出て行った理由を調べてくれ、ということだった、と?」
はい、と明美は穏やかな笑みを長友に向ける。長友は納得したように何回か頷くと、何かを少し考え込み、明美に質問をする。
「ところで、人間は死んだら、みんな幽霊になるものなの?」
明美は首を振る。
「いいえ。この世に強い未練がある人だけ、幽霊になるみたいですね。未練が無くなったら、成仏する、みたいな。」
「そうすると、俺の彼女は、俺が家を出た理由が分かったから、未練が無くなって成仏したということか。」
「ええ。愛理ちゃんも、自分の死体が見つかったから、成仏しているはずです。」
長友は、目の前の遊歩道を歩いて行く家族連れを眺めながら明美に聞く。
「そうすると、不慮の事故とかで亡くなった人は、大体、この世に未練があって幽霊になっている、と?」
「ええ。殺人や交通事故の現場に幽霊が出る、っていうのは、そういうことなんでしょうね。」
聞きたくない話だったかもしれないな、と思いつつ、長友はお茶を飲む。明美もコーヒーを飲もうとしたが、不意に思い出したように長友に話しかける。
「あ。あと、私が持っているお金は、石野明美ちゃんに乗り移った後に、私の・・山下明美の自宅にこっそり忍び込んで、自分のタンス預金を持ってきています。まあ、自分のお金ですから問題はないでしょうし。」
長友は顔をしかめる。
「危ないね。誰かに見つかったら、石野明美ちゃんが、山下明美さんの家に泥棒に入ったことになるじゃない。」
明美は特に気にしない様子で、「まあ、そうですけど。」とだけ答える。随分と肝っ玉の座った女性のようだ。
長友は芝生の上で軽く座りなおすと、神妙な顔で明美に尋ねる。
「ところで、協力してくれた2人のお願いを解決したってことは、君は、これから成仏するの?」
「はい。」
「どうやって?」
「ある人に頼んで、お祓いみたいなことをしてもらうんですけどね。この後、長友さんのタクシーでそこに連れて行ってもらおうかと。」
「じゃあ、もう、お別れってこと?」
そうですね、とあっさり言う明美に長友は困ったような顔をする。
「何か・・、もう少し、ちゃんとお礼をしたいんだけど・・・。もうちょっと何か、その、こうやって生きているうちに食べたいものとか無いの?」
明美は下を向いて軽く笑う。
「なんですか。その、死刑囚に対する扱いみたいな。」
「いや、そういうわけじゃ・・。」
「まあ、せっかくだし。いい時間だから、お昼でも行きましょうか。おごりますよ。」
そう言うと、明美はペットボトルを持って立ち上がる。
いや、俺がおごるよ、と長友も立ち上がりながら慌てて声をかけたが、明美には聞こえなかたったようで、明美はやや急な芝生の丘を小走りで駆け下りていく。革靴の長友は滑る芝生に気を付けながら、明美のあとを追いかけた。
一方、新木場の潰れた建設会社の前には、警察車両が何台も停まり、物々しい雰囲気に包まれていた。
「――では、まとめると、金塊の密輸という通報があって、通報どおりの男性がスーツケースを持って出てきたから職務質問をした、と。」
「そうです。」
岩永警部補は本庁の若い刑事からの質問に疲れたように答えた。スーツケースの中から女の子の死体が出てきたと深川署に報告すると、20分くらいで本庁の捜査員が続々と駆け付け、岩永は本庁の刑事から死体を発見した経緯を聴取されていた。
「で、スーツケースを開けたら中身は金塊でなく、死体だったと。」
「ええ。てっきり、通報どおりに金塊を運んできた、と思ったんですが。」
溜息を付きながら言う岩永に、若い刑事は冷静にメモを取りながら話を続ける。
「通報者の音声は後ほどに科研に回しますが、通報者の声に心当たりはありますか? 過去に通報を受けたとか。」
岩永は少し考えて首を振る。
「まったく記憶に無いですね。初めての通報者だと思います。」
そうですか、と言って本庁の刑事は手帳を閉じる。あまり得るものは無かった、という感じだ。
「では、後ほどに現場検証の立ち合いをお願いしますので、車両でお待ちください。」
そう言うと、本庁の刑事は岩永が乗ってきたカローラを指さす。その前方には、本庁の若い刑事が乗ってきた捜査車両のクラウンが停まっている。
「分かりました。現場検証が始まったら呼んでください。」
口調は丁寧ながらも、やや不愛想に岩永は本庁の刑事に言うと、カローラの運転席に乗り込んだ。後部座席には死体を見て貧血気味の小山が座っている。
「具合はどうだ?」
「すみません。少し良くなりました。」
そうは言っても、まだ顔色は悪い。
「この後、現場検証に立ち会ってもらうから、まだ少し休んでおけ。」
小山はほっとしたように、分かりました、と言って目を閉じた。死体を見たのは初めてではないようだが、ミイラ化した子供の死体は刺激が強かったようだ。
俺も少し休むか、と思い、岩永は運転席のリクライニングを後ろに倒した。
それにしても、あの通報者は何者だったのだろう? 割と筋が通った金塊の密輸話。通報どおりの不審者はいたものの、出てきたものは金塊ではなく死体。まさかとは思うが、死体を発見させるために嘘の金塊の密輸話をしてきたとしたら、見事に騙されたものだ。
「まあ、次にあの声を聞いたら・・。」
絶対にしょっぴいてやる。憎々し気に歯を噛みしめながら岩永は軽く目を閉じ・・ようとした時に、運転席の窓ガラスがカンカンカン、と叩かれた。
「岩永さん、現場検証お願いします。」
先ほどの若い刑事だ。休む間もないじゃないか、と思ったが、本庁の刑事を睨むわけにもいかず、岩永は乱暴にシートを起こすと、無言で運転席のドアを開けて外に出た。
「ごちそうさまでした。」
明美の満足気な声に、長友は言葉を返す。
「いや、こちらこそ。良い店を教えてもらった。」
東日本橋の裏通りという、タクシーでもあまり行ったことのないエリアにある古い蕎麦屋で2人は遅めの昼食を食べてきた。いわゆる老舗の蕎麦屋で、名店では無いのだろうが、なかなかに味は良く、愛想も良い店だった。
「生きていた頃に、職場の上司に教えてもらったんですよ。」
そうなんだ、と長友は相槌を打ちながら、コインパーキングに駐車したタクシーの後部ドアを手で開ける。
どうも、と軽く会釈をしながら明美がおしとやかに乗り込む。ジーパン姿だが、完全にお嬢様の仕草だ。もっとも、さっきまでズルズルと蕎麦をすすってはいたが。
「さて、じゃあ・・。」
運転席に座った長友に明美は笑顔で微笑む。
「ええ。思い残すことは無いので、このまま成仏して、この子に体を返します。なので、お祓いをしてくる人が住んでいる、有明駅の近くまでお願いします。」
そうか、と言って長友はシートベルトを締める。エンジンをかけようとして、ふとルームミラーを見ると、明美が窓の外を見ていた。釣られて長友も目をやるが、コインパーキングの向かい側にある、雑居ビルの入り口が見えるだけだ。周囲には誰もいないが、明美は何も無い空間を見続けている。
猫みたいだな、と長友は思った。猫は時々、何も無い空間を見つめるという。一説によると、そういう時の猫には幽霊が見えていると言われているが。
長友はルームミラーに映る明美を見ながら声をかける。
「いるの?」
え? と言って明美が驚いたように目を大きくしてミラー越しに長友と目を合わせる。
「幽霊さん。見えるんでしょ?」
長友は穏やかに話しかける。
ええ、と言った明美はなぜか気まずそうだ。長友は思いついたことをそのまま口にした。
「助けてあげたら?」
え? と再び明美が聞き返す。長友は、何気なく言う。
「幽霊の声が聞けて、幽霊を助けられる人なんて滅多にいないよ。話を聞いてあげて、幽霊の未練を断ち切って、その人と周りの人も救ってあげればいいんじゃないかな? 俺や、愛理ちゃんみたいに。」
のんびりとした長友の言葉に、明美は首を振る。
「いいえ。本当は、助けてはいけないんですよ、たぶん。」
今度は逆に長友が「え?」と聞き返したが明美は黙っている。長友は気になって明美に質問する。
「助けてはいけない、ってどういうこと?」
明美は後部座席で腕組みをすると、考えながら話す。
「自分でやっておいて言うのも何ですけど・・本当は、幽霊のお願いを聞いて、成仏させてあげるってことは、自然の摂理というか、世の中の理に反していることではないかと。」
「ああ・・。あの世と、この世を繋いでしまった、みたいな?」
そうそう、と明美は相槌を打つ。
「本当は幽霊の声なんて聞こえないものだから、幽霊のお願いをこの世に伝えたりして、こっちの世界をかき乱してはいけないんでしょうね。」
ふむ、と長友は一旦は納得するが、すぐに思い直す。
「でも、そのおかげで、愛梨ちゃんを殺した犯人が見つかったりして、良いこともあったじゃないか。」
明美は腕組みをしたまま難しい顔で首を傾げる。
「それは、良いことなんでしょうかね。」
「良いことじゃないか。人を殺した犯人が捕まったんだよ?」
明美は、違うんですよ、と言うように首を横に振る。
「例えば、鹿島田不動産の社長さんとか、どうなります? 社員で親族の甥っ子が殺人犯として逮捕されて。しかも、死体の隠し場所が会社の管理物件でしょう? 会社も風評被害を受けるだろうし・・。もしかしたら鹿島田不動産は倒産して、他の社員さんも失業するかもしれない。そう考えると、今回の件で私は、色々な人の人生を狂わせてしまったのかもしれません。」
まあ、いまさらですけど、と言って明美は少し肩を落とす。
長友はエンジンをかけようとした手を引っ込めて、明美に言葉を返す。
「でも、仕方のないことでしょう? そういうのは。殺人をしたほうが、そもそも悪いことなんだし。」
明美は溜息を付きながら言った。
「仕方のないことなんですかね。何が正しいのか、どうあるべきかは分かりませんけれども。」
そのまま、明美はふと思いついたように言葉を付け足す。
「まあ、どうあるべきか、で言うと、死人の私が、このまま大人しくあの世に行くのが、一番あるべき姿ですね。」
長友は何も言わずに黙り込む。後ろから明美が運転席の肩をポンポンと叩いて「行きましょう。」と声をかけると、長友は軽く頷いてタクシーのエンジンをかけた。
昼飯を食っていない岩永は空腹を感じながら、現場検証で本庁の若い刑事に一連の流れを説明していた。
「・・・で、被疑者を車の後ろに乗せて、まず、電話でウチの課長に報告しました。」
「車の中の被疑者の様子は、どうでしたか?」
「暴れてはいませんでしたが、顔が真っ白で、軽いパニック状態でしたね。違う、違うって、ずっと言っていました。」
そうですか、と言って本庁の刑事は小さめのノートを閉じて、ボールペンを胸ポケットに戻した。ずいぶんとあっさりした現場検証だな、と岩永は思い、そのまま思ったことを質問してみる。
「これで終わりですか?」
「ええ。一通りは聞けたので。」
「ずいぶんとあっさりしてますね。」
本庁の刑事は軽く笑う。
「さっき連絡があって。鹿嶋田雄一が、殺人と死体遺棄の自供を始めたようです。」
「そうなのか。」
どうりで簡単に終わったわけだ。
「被害者の身元も分かったそうです。被疑者と被害者は顔見知りだったようで、わいせつ目的で車に乗せて・・。」
岩永は聞きたくないという感じで、顔をしかめて片手を挙げる。本庁の刑事は気まずそうに口を閉じる。強い日差しに少し暑くなってきた岩永は上着を脱ぎながら、本庁の刑事に質問する。
「それより、なぜ、被疑者の・・、鹿島田不動産のヤツはわざわざ隠していた死体を運び出してきたんだ?」
「テレビの撮影で、この建物を使うことになって、慌てて死体を別の場所に隠そうとしたそうです。」
へえ、と岩永は軽く驚いた。
「で、死体を持ち出したところを、ちょうど金塊密輸事件の通報を受けた俺たちが職質した、と。」
ええ、と複雑そうな表情を浮かべながら本庁の刑事が頷く。
「そこのところを、どうやって報告書にまとめようかと困っているんです。偶然にしては都合が良すぎるし。そもそも、金塊の密輸だと通報してきた人物が、一体何者なのか分からないし。」
「番号通知でかけてきたから、電話の名義で分かるんじゃないか?」
岩永の質問に本庁の刑事は首を横に振る。
「発信元は自販機で売られているような、日本に来た海外旅行者向けのSIMカードの電話番号でした。」
ふうん、と岩永は鼻を鳴らす。
「難しいことは分からんが、逆探知できない仕組み、ってことか。」
はい、と本庁の刑事は忌々しそうに首を縦に振る。
「でも、同じSIMカードから発信した電話番号は分かるので、別の発信先から手掛かりが見つかるかもしれません。」
ほう、と岩永は感嘆の声を挙げる。最近の捜査一課はハイテクに詳しくないとやっていけないんだな、と時代の流れを感じる。しかし、ふと思いついたことを口にする。
「でも、そこまで用意周到なら、別のところに電話なんてしていないんじゃないか? そもそも、電話自体、もう捨ててるかもしれんし。」
そうなんですよね、と本庁の刑事は言って溜息を付く。岩永は、若い刑事が少し気の毒になった。
「俺の方でも、もう1回、通話の録音とか聞いてみるよ。何か気付いたことがあったら連絡する。」
岩永の協力的な態度が予想外だったのか、本庁の刑事は少し驚いたような顔をすると、すぐに、よろしくお願いします、と礼儀正しくお辞儀をした。若い刑事に軽く手を挙げると、岩永はやや早足に覆面のカローラに戻っていった。署に戻って、もう一度、タレコミの電話を聞けば、周囲の音やちょっとした言葉などから何か分かるかもしれない。
長友のタクシーは有明方面に向かっていたが、途中で後部座席の明美が思い出したように声を上げた。
「そうだ! 電話捨てないと。」
え? と長友は何のことか分からずに聞き返す。
「深川警察署や、鹿島田不動産に電話した携帯。警察が調べてくるかもしれないから、早めに処分しないと。」
「捨てちゃうの?」
「ええ。最初からそのつもりで。愛梨ちゃんの死体の場所を通報するために、中古の安いスマホを買って、SIMカードも別に買ってて、それを捨てるんです。」
ははあ、と長友は感心する。よく頭の回る子、というより、頭の回る女性だ。
「停められそうなところで、路肩に寄ってもらえますか? ちょっと捨ててくるんで。」
分かった、と言いかけた長友だが、気付いたことがあって明美に確認する。
「でもさ、スマホって、捨てる時は販売店とかの回収ボックスに入れないとダメでしょ?」
明美はポカン、と口を開ける。
「あの、長友さん。警察に虚偽通報した、悪いことに使ったスマホなんですよ。アシがついたらマズいでしょう?」
「え。じゃあ、どこに捨てるの?」
「その辺の下水に突っ込んできます。」
「ダメだよ、それは。」
驚いた長友は即座に言い返す。
予想外の長友の否定に怪訝な顔をしている明美に向かって、諭すように長友は言う。
「スマホの部品には有害な物質も含まれているんだから。その辺の下水なんかに捨てたらダメだよ。川の汚染に繋がる。」
ははあ、と明美は神妙な顔をする。
「分かりました。じゃあ、どこか携帯のショップで停めてください。」
「ああ。確か、その先にあったと思う。」
ほんとだ、と明美が言うより早く、長友は左ウインカーを出して、交差点の少し手前の携帯ショップ前で停車した。
「信号の手前で邪魔だから、なるべく早く戻ってきてね。」
分かった、という感じで手を挙げた明美はタクシーから降りると、小走りでショップに入って行く。タクシーは交差点の20メーターほど手前で停車中だが、後続車は器用に長友のタクシーを避けていき、長友は少しほっとした。タクシーという車両の性質上、仕方ないことではあるが、交通の流れを乱す場所に停車するのは気が引ける。
長友は1万円を超えたメーターに気付くと、メーターを「支払」にして、一旦精算した。平日の昼間に長距離の稼働が多いと営業所に不審に思われそうで、長友は適度に貸走から空車に切り替え、できるだけ通常の営業形態に近づけようとしている。首を曲げて携帯ショップの中を見ると、明美が待合用の番号札を取る様子が見えた。スマホを処分するにも番号札が必要なのか。
「長そうかなあ・・。」
独り言を言った長友は車を移動しようかとも思ったが、待ち時間はそんなに長く無さそうだ。長友はメーターを空車の状態にして、日報に手を伸ばした。1万円の料金にふさわしい、適当な場所を日報に記入しようとペンを持った時に、交差点向かいのマンションから慌てた様子で女性が出てきたのが見えた。明らかに血相を変えた様子のその女性は、長友のタクシーを見ると、手を振って長友の方に向かって来る。長友はメーターを空車にしていたことに気付き、急いでメーターの表示を変えようとしたが、女性は必死に手を振りながら長友のタクシーに向かって走ってくる。
「信号、赤だぞ・・?」
長友の横には信号待ちの車列ができており、長友が乗っているタクシーの前の信号は赤のままだ。もちろん、女性が走って来る方向も赤信号のはずだが、そのまま女性は長友のタクシーに手を振りながら交差点を渡ろうとした。
「危ない!」
驚いた長友が声を出したか、出そうとした瞬間、交差点を通過しようとした大型トラックが女性を跳ね飛ばした。トラックはブレーキ音を出しながら車道に倒れた女性に乗り上げ、女性はタイヤに巻き込まれながら体の向きを変えていく。昔に自分の彼女が轢かれた情景がフラッシュバックしながら、長友は運転席のドアを開けて外に飛び出す。甲高いブレーキ音を出しながらゆっくりとトラックが止まる。
長友を含めて、数人の通行人や運転手が女性のもとに駆け付けったが、全員がその場で棒立ちになって言葉を失う。胸の部分から骨が飛び出ており、素人目にも、もう処置が間に合わないのは明らかだった。長友の隣にいたスーツ姿の男性が片手で口を押えると、顔を背けながらその場を離れる。
それでも女性はまだ少し息があるのか、駆け寄ってきた人々に目を向ける。女性はその中に長友の姿を見つけると、口元を動かして何かを言おうとした。が、そのまま目を見開いたまま口元の動きは止まり、気泡の混じった血が垂れてきた。
誰かが長友の側で救急車を呼んでいた。女性を轢いたトラックの運転手は真っ青な顔で運転席から降りてきたが、跳ねられた女性を見るや否や、腰が抜けたように路上に座り込む。
あまりにもむごい遺体の状況に、同業のタクシー運転手がタオルケットを持ってきて、何人かが遺体にタオルケットをかける作業を手伝っている。
あの女性、マンションから慌てて出てきて、取り乱した様子で俺のタクシーに走って来た。最後も、俺に何かを言おうとした。
長友の方に顔を向けたままタオルケットをかけられた女性から目を逸らして、長友が自分のタクシーに戻ろうとした時、騒ぎを聞いたのか携帯ショップから歩道に出てきている明美が目に入った。数人の通行人と一緒に、交通事故の現場を見つめている。
歩道では通行人がざわめき、女性を轢いた大型トラックは交差点の半ばで車線を塞いだままだ。後方の車道では事故が起きたことを知らない数台の車両が、青信号で車が進まない状況にクラクションを鳴らしている。
長友は少しふらつきながら明美に近づく。事情を知らない明美が、そつなく長友に尋ねる。
「事故ですか?」
「ああ・・。俺がうっかり、メーターを空車にしていて。で、俺のタクシーに乗ろうとして、赤信号を無視して横断してきた女性が、トラックに跳ねられた。」
長友は、冷静に事情を説明できた自分に少し驚く。
気の毒に、という感じで顔をしかめながら明美は首を振る。明美や、多くの都会人にとっては、よくある交通事故なのだろうと頭の隅で思いつつ、長友は明美に話しかける。
「あの女性は、かなり急いで、慌てていた。赤信号に気付かないくらいに焦っていたんだ。必死に俺のタクシーに向かってきて・・。それに、死ぬ直前にも俺に何かを言おうとしていた。」
明美は、怪訝、というよりも不審な表情を浮かべて長友の顔を見ている。長友は明美の前にかがみこんで、明美の両腕を掴むと、小声で話しかけた。
「今、あの女性は、この世に未練を残したまま亡くなっているはずだ。もし、この辺りに、あの人の幽霊がいるならば、何をしたかったのか聞いてくれないか?」
明美は大きく目を見開く。
「本気ですか?」
「頼む。」
明美は事故現場に目をやるが、すぐに顔を背け、長友に向かって拒否するように首を横に振る。
長友は明美の顔をじっと見つめたまま、「頼む」と再び言葉を繰り返す。明美はしばらく長友の顔を見ていたが、軽い溜息を付くと「分かった。」と一言だけ言って、ゆっくりと、タオルケットがかけられた女性の亡骸に向かって歩いていく。歩道にいた初老の男性が驚いたように「見ちゃだめだ。」と言って後ろから明美を引き止めようとするが、長友が間に入って逆にその男性を押しとどめる。
明美は女性を轢いたトラックの荷台部分で立ち止まると、小声で何かに話しかけ、頷いている。周囲の人々は、みな一様に、気味の悪そうな顔で明美を見ている。
話が終わったのか、明美が長友のところに小走りで戻って来ると、小声で話しかける。
「あの女性、お子さんが保育園でアレルギーの発作を起こして、お子さんに薬を届けに行こうと長友さんのタクシーに乗ろうとしていたそうです。」
「その子は、大丈夫なの?」
長友の問いに明美は首を振る。
「とても危険な状態だそうです。お子さんは今、救急病院に運ばれているけどアレルギーがいくつかあって病院の薬は使えなくて。あの人が持っている、ドイツから取り寄せた薬じゃないとダメなんだそうです。」
長友は語気を荒げて明美の肩をつかみ、明美に問いただす。
「お子さんはどこの病院に? 薬はどこに?」
「江東区のY病院。薬は、あの女性のバッグの中に。」
明美が言い終わらないうちに長友は、トラックの下に転がっていた女性のルイ・ヴィトンのバッグを手にすると自分のタクシーに向かって走る。道路の中央で交通整理を始めていた男性が「おい! そのバッグは・・!」と怒鳴り声を上げる。
長友は気にせずにタクシーに乗り込むとエンジンをかける。後ろのドアが開いて明美も乗り込んできて、長友は明美に何かを言おうとするが、その瞬間にフロントガラスをバンバン、と叩かれた。先ほどの男性が驚いた表情で「あんた、それ、轢かれた人のバッグ・・」と怒鳴っているが長友は声に負けないようにクラクションを鳴らすとタクシーを発進させ、赤信号を無視して交差点を左折すると、一気にアクセルを踏み込んだ。
「ちょっと!」
後ろで明美が大声を出すが、長友も大声で言い返す。
「何で乗って来た!」
「心配だからでしょ! 何をする気なの?」
「薬を届けるだけだ!」
「他人から見たら、ただの泥棒じゃない! 警察に捕まったら・・。」
「じゃあ、あの女性の、お子さんを見捨てろと?!」
明美は難しい表情で黙り込む。
「面倒ごとになるかもしれないから、降りた方がいい。」
タクシーが脇道に入って、少し速度を落としたところで長友は明美に諭すように言うが、明美はそのまま後部座席でシートベルトを着用する。
「付き合いますよ。何かあったら助けますから。」
長友は一瞬、思案したが言い争うのも時間の無駄と思い、無言のままクラクションを鳴らし、信号待ちをしている車両を追い越して、再び交差点の赤信号に進入した。
現場検証から解放された岩永は、覆面車両のカローラを運転して深川警察署に戻ろうとしていた。助手席の小山はそれなりに回復したようで、顔色は良くなっている。前方の信号が黄色になり、岩永はピタリと停止線の手前でカローラを止める。赤信号で停止した車内は無言のままだ。岩永が小山に話しかけようとした時に、沈黙を破って警察無線が声を出した。
「至急。至急。中央、江東方面に連絡。中央区日本橋人形町でトラックに轢かれた女性のバッグを奪った車両が、江東方面に逃走中。繰り返す・・。」
岩永は顔をしかめて無線機に目をやりながら首を振る。
「ひでえ事件ばっかりだな。」
警察無線は落ち着いた声で連絡を続ける。
「・・逃走車両は緑色のタクシー。川の手交通の社名あり。足立ナンバーで4桁番号は不明。ルイ・ヴィトンの女性用バッグを奪って逃走中です。」
小山が「タクシーが窃盗を?」と不思議そうな声を出す。岩永は「盗難車だろ。」と言葉を返す。
信号が青になり岩永が車両を発進させようとしたときに、クラクションが鳴り響き、交差点の左側から緑色のタクシーが飛び出して、そのまま岩永の前を横切っていく。完全な信号無視じゃないか、と岩永が覆面のパトライトを出すボタンを押そうとした時に、横切っていくタクシーの側面に「川の手交通」と書かれているのが目に入る。
「おい!」
岩永がパトライトを出すと同時に大声を出し、小山が素早くマイクを取る。
「緊急車両、交差点を右折します! 緊急車両、右折します!」
岩永がアクセルを踏み込むと力強いサイレンが鳴り響く。大人しく停車してくれている対向車両の運転手達に岩永は軽く手を挙げながら右折すると、前方で逃走中のタクシーに向かって加速した。思ったよりも素直にタクシーはハザードを点灯させると停車する。無線の窃盗事件とは無関係か? と岩永は思った。小山は車両の拡声器でタクシーに声をかける。
「交通の邪魔になるので、一旦、左側の駐車場に入ってください。」
タクシーはハザードランプから左折ウインカーに変えると、ホームセンターの駐車場に入っていく。岩永もサイレンをオフにしてタクシーに続く。
タクシーは機敏な動きで空いているスペースに駐車すると、すぐにタクシーから運転手が降りてきた。逃げるのか、と思って覆面車両を停め、岩永も小山も慌ててシートベルトを外すが、運転手は逃げるのはなく、覆面車両に近づいてきて、運転席の窓を叩いた。
ただ事ではない気配を感じて、岩永は運転手を押しのけるようにしてドアを開けて外に出る。岩永が声を出す前に、運転手が慌てた様子で岩永に頼み込む。
「ちょうど良かった! 子供の命が危険なんだ。アレルギーの薬を早く病院に届けないと・・。」
岩永は興奮しているタクシー運転手に向かって話しかける。
「落ち着いてください。アレルギーの薬ですか?」
助手席から降りてきた小山は、小走りでタクシーの様子を伺いに行く。タクシーの後部座席には、逆光でよく見えないが、乗客らしき女性が座っており、岩永は運転手に問いかける。
「あの乗客のお子さんですか?」
「いや、違う。別の・・、別の人に頼まれて。薬を届けてくれって。」
岩永は、この運転手とどこかで会ったような気がした。しかし、運転手が胸に着けている、長友というネームプレートに該当する人間は思い当たらない。タクシーの様子を見に行った小山が慌てた様子で近づいてくる。
「岩永さん。助手席に、ヴィトンのバッグがあります。」
タクシー運転手の顔色が変わったのを見て、間髪入れずに岩永はタクシー運転手に問いただす。
「ヴィトンのバッグというのは、あのお客さんのものですか?」
タクシーの乗客は、後部座席に座ったまま電話を耳に当てている。
「いや、違います。別のお客さんに頼まれて。とにかく、事情は後で話しますから、江東区のY病院まで薬を届けてください。子供の命に係わるんです!」
そうは言っても事情が分からないと、はいそうですか、と言うことはできない。この運転手が薬物中毒で妄想を見ている可能性もある。大体、言っていることが支離滅裂だ。客を乗せて信号無視をして、客とは別人の頼みで薬を届けようとしている?
乗客にも事情を聞く必要がありそうだ、と思って岩永はタクシーに近づこうとした時に後部座席のドアが開いて、乗客が降りてきた。まだ中学生くらいの女の子で、スマホを片手に持ちながら岩永に話しかけてくる。
「運転手さんの言っていることは本当です。この運転手さんは、アレルギーの発作で救急搬送されたお子さんに、抗アレルギー剤を届ける途中です。」
何かを言おうとした岩永に女の子はスマホを差し出す。
「発作を起こしているお子さんの、保育園の園長さんと繋がっています。話してください。」
岩永は言われるままスマホを受けとると相手に尋ねる。
「もしもし。深川警察署の岩永ですが。」
名乗った瞬間、タクシーの運転手が「あっ」と言いかけたような気がしたが、不審に思う間もなく、電話の相手である女性が大声を出した。
「お巡りさん! すみません! D保育園の、園長の加藤と申します。」
「あのー、まず事情を伺いたいんですが。」
「預かっているお子さんが、遠足の途中でアレルギーの発作を起こして。保育園でもお母さんから抗アレルギー剤を預かっていたんですが、どこにも見当たらなくて。」
電話の相手もかなり慌てているようだ。泣き始めた女性の園長を、なだめつつ岩永は質問する。
「病院で、何とかならないんですか?」
電話の向こうで園長は嗚咽に近い声を出す。
「アレルギーがいくつかあって、うかつに薬を使えないんです。だから、お母さんが特別に許可をもらった薬を園で預かっていたんですけど、保育園のどこにも見当たらなくて・・。」
わああ、っと声を出すと、電話先の園長は泣き出してしまった。岩永はスマホを握りしめて大声を出す。
「もしもし! 聞こえますか? 今、そのお子さんの容態はどうなんですか?」
鼻水をすすり、泣きながら、電話の向こうで園長が声を絞り出す。
「・・少し落ち着いたかと思ったんですが、さきほどにチアノーゼの症状が出て・・。呼吸困難で・・。」
岩永は思わず怒鳴りながら相手に尋ねる。
「場所は、江東区のY病院ですか?!」
「そうです。」
「薬は、今からパトカーで届けます。病院の、正面玄関に行きますから。」
園長が泣きながらお礼を言いかけていたが、岩永は電話を切ると、タクシーの運転手に言う。
「薬を持ってパトカーに乗りなさい。この車で送っていく。」
タクシーの運転手は頷くと、自分のタクシーに走っていく。一方、タクシーの乗客である女の子は岩永から自分のスマホを受け取ると、ハンカチでスマホを拭きながら、ふてくされたように岩永に言い放つ。
「薬だけ渡しますから、届けてもらえませんか。私と運転手さんは関係ないでしょう?」
呆れたような表情の岩永の代わりに小山が答える。
「タクシーの運転手さんにも、信号無視で切符を切る必要があるからね。同行してもらう。君は別に付いてこなくても大丈夫だよ。」
女の子はスマホを肩にかけたトートバッグにしまうと、「私も行きます。」と言った。タクシー運転手の家族か何かだろうか、考える間もなく、タクシーの運転手がヴィトンのバッグを持って走って来ると、飛び込むようにカローラの狭い後部座席に乗り込み、女の子がそのあとに続く。小山が助手席に着席したのを見届けると、岩永は再び、サイレンを鳴らして発進した。
小山が途中で気を利かせて無線連絡をしてくれたおかげで、途中から1台の白バイが先導して交通誘導を行ってくれたこともあり、岩永たちのパトカーはほとんど速度を緩めることなくY病院に到着することができた。病院の正面玄関には医師と看護師が待ちかねたように待機しており、岩永が渡したルイ・ヴィトンのバッグを漁ると薬を取り出して走っていった。岩永と小山は、誘導してくれた白バイ隊員の巡査に丁重に礼を言い、後部座席のタクシー運転手と乗客の女の子をパトカーから降ろして、事情を聞くために病院内に連れて行く。
ロビーでは一般の待合客が多い中、電話で話した園長と、保育士らしき若い女性が泣きながら岩永と小山に駆け寄ってきて、何回も頭を下げお礼を言ってきた。岩永は周りの視線に閉口しながらも、簡単に園長の名前と、アレルギー発作を起こした子供の名前をメモすると、小山に深川警察署に報告するよう指示を出し、疲れたような顔をしたタクシーの運転手と、仏頂面をしている乗客の女の子を病院の喫茶室に連れて行った。
周りに人がいないテーブルを選ぶと、各々、ウェイトレスに飲み物をオーダーする。岩永はアイスコーヒーを、タクシー運転手と少女はアイスティーを頼んだ。昼飯を食べていない岩永はスパゲティでも頼もうかと思ったが、食事しながら事情を聞くわけにもいかない。飲み物を運んできたウエイトレスが去ると、岩永は冷たいコーヒーを半分ほど一気に飲み、苦々しい顔をして対面に座っている運転手と少女に質問した。
「まず、お名前と年齢、職業から教えてもらえますか。身分証もお願いします。」
タクシー運転手は免許証を見せながら長友と名乗り、女の子は生徒手帳を持ち合わせていないため、財布の中からポイントカードなどを数枚示しながら、春から中学2年生になる石野明美であると名乗った。
長友は居心地悪そうにしながらも、姿勢を正して座っている。警察官に事情を聞かれるときの、一般的な市民の反応だ。一方で中学生の石野明美は大人しそうな顔をしながらも、ふてぶてしく頬杖を付きながらアイスティーを飲んでいる。まず何から聞こうかと思案しながら岩永は石野明美に優しく質問する。
「君は、この運転手さんと、どういう関係なのかな?」
明美は怪訝そうに顔を上げると「タクシーに乗った客ですけど」とだけ答える。
「では、さっきの薬が入ったバッグを、どこでどうやって手に入れたのですかな?」
岩永はタクシー運転手の長友に質問したが、乗客の明美がテキパキと答えてくる。
「タクシーに乗っていたら、人形町でトラックに女性が轢かれる事故が起きて。その女性に、薬をこの病院まで持っていくように頼まれました。」
長友が慌てて口をはさむ。
「信号無視の件は、すみませんでした。急いでいたので・・。」
岩永は長友に、分かった分かった、というように手を挙げると、2人の表情を観察しながら質問する。
「警察無線では、車に轢かれた人のバッグを奪って逃走した、と聞いたのだが?」
心外ですね、と言いたげに明美が軽く岩永を睨みつけながら答える。
「周りの人からは、そう見えたかもしれませんね。轢かれた人にすぐに駆け寄って、薬を持っていくことを頼まれて、バッグを掴んで走っていったから。」
長友は明美の言葉に同意するように、何回も頷いている。
通報者の勘違いだったのだろうか。実際にバッグの中の薬が必要とされていたことも事実だ。岩永は愛想のよい笑みを満面に浮かべると、2人に話しかける。
「分かりました。信号無視の件は人命救助のためということで、できるだけ調整してみます。」
意外な言葉だったのか、明美と長友は一瞬、顔を見合わせると、ありがとうございますと言って同時に頭を下げる。長友の顔が上がったところで岩永は笑みを浮かべたまま長友に問いかける。
「ところで、あなた。今日のお昼に、深川警察署に電話されましたよね? 金塊の密輸の件で。」
安堵していた長友の顔がこわばり、目を開いたまま固まる。岩永の視界の隅で、明美が鋭い目で岩永を見てくる。岩永は間髪置かずに、タクシー運転手の長友に問いただす。
「あなた、あのスーツケースに死体が入っていることをご存知でしたよね?」
答えはないものの、長友の顔から血の気が引いていくのが面白いように見てとれる。明美が何かを言おうとしたときに、部下の小山がルイ・ヴィトンのバッグを持って戻って来た。
「ご苦労。」
小山は岩永の声に頭を軽く下げると、隣のテーブルから椅子を1つ引いてきて、白い手袋を着けて持っていたヴィトンのバッグを丁重に椅子に置き、4人席の岩永の隣に座ると、手帳を見ながら岩永に報告を始める。
「深川署に報告しました。その後、人形町の交通事故の件で、所管の警察署に問い合わせて状況を聞きました。」
小山の素早い対応に岩永は満足そうに頷くと、話を続けさせる。
「確認したところ、バッグの持ち主は間違いなく、この病院でアレルギー発作を起こしている子供の母親でした。その母親は、今日の午後2時頃に人形町2丁目の交差点で大型トラックに轢かれて即死しています。歩行者の母親の方が赤信号を無視して―。」
「ちょっと待て。」
岩永は驚いて小山の報告を止めて、聞き返すように小山に尋ねる。
「即死?」
「ええ。トラックのタイヤで胸部が圧迫されて、潰れていたそうです。」
岩永は長友と明美を見る。そうだとしたら、その女性は、子供のためにY病院に薬を届けてくれ、などということも説明できないはずだ。岩永は再び小山に問いただす。
「即死というのは間違いないのか?」
小山は、なぜその点に岩永がこだわっているのか分からないまま、戸惑いつつ答える。
「はい。救急搬送もされていませんし。それに、あまりにもむごい状態だったので、居合わせた人が事故のすぐ後に、死体に毛布をかけたとのことです。」
長友が慌てたように口を挟む。
「いえ、轢かれてすぐに駆け寄った時には、まだ息はあったんです。だから、それで頼まれて、すぐにバッグを持って。」
今度は小山が顔をしかめた。
「そちらの運転手さんが被害者のバッグを奪って行ったのは、事故の発生からしばらくしてからだと聞いています。」
岩永は目の前の2人を観察しながら小山に問いかける。
「分かった。被害者のバッグが奪われた時の状況を教えてくれ。」
小山は頷くと再びメモを見ながら報告を始める。
「バッグの窃盗事件の通報者によると、事故後に周辺の交通整理を始めた数分後に、タクシーの運転手が血相を変えて、落ちていた被害者のバッグを持ってタクシーに乗り込むと、その後に女の子がタクシーに乗り込んで、タクシーが急発進したと。」
テーブルに近づいてきたウエイトレスが、話に割り込んで良いものか、少し離れた場所で困ったようにしている。岩永は小山に注文をするように言うと、長友と明美の顔を見る。
長友は困ったように頭を下げており、明美も同じく困ったような顔をしているが、明美は太々しく頭の後ろで両腕を組んで何かを考え込んでいる。
困っているのは俺も同じだ、と岩永は思いながら話しかける。
「先ほどの話と随分違うようですが、どういうことですかな?」
明美が鼻から息を吹くと、岩永をまっすぐに見つめる。
「どういうこと、と言うと? なぜ、即死した人から事情を聞いて薬を運べたか、ということですか?」
はい、と言って言葉を続けようとした岩永よりも先に明美が口を開く。
「それから、なぜ、スーツケースに死体が入っていることを知っていて、金塊の密輸の通報をしたか、ということも知りたいですか?」
状況が分からない小山が混乱しているが、岩永は眉一つ動かさずに、はい、とだけ言った。
「話しますよ、全部。順番に。」
明美は椅子に座りなおすと、信じてくれるか分かりませんけど、と言って真面目な顔で話しだした。
途中で飲み物のお代わりを頼みながら、2人の刑事は明美の話を聞いていた。山下明美が交通事故で石野明美になったこと。知り合いになった榎本愛梨ちゃんの幽霊に頼まれて、一芝居打ってスーツケースの死体を見つけさせたこと。同じく、事故に合った母親の幽霊に頼まれて、子供の薬を運んだこと。
小山は途中まで熱心にメモを取っていたが、途中でメモを取ることを諦めていた。とても報告書に書けるような内容ではないと思ったのだろう。岩永もそれには同意だった。明美が一通り話し終えた後に、岩永が疲れたように尋ねる。
「何か、今のお話を証明できるものはありますか?」
「証明って、じゃあ、もう1つくらい、殺されて隠された人の死体を見つけたら、信じて無罪放免してくれますか?」
明美も疲れたように言うと、テーブルの上のメニュー表を取ると岩永に無愛想に聞く。
「アイス食べていい?」
岩永は明美の言葉を無視して小山の顔を見ると、小山も困ったような顔で岩永を見返し、尋ねてきた。
「課長への報告、どうしますか?」
岩永は、首を振りながら思ったままを答える。
「そのまま報告すればいいんじゃないか? 幽霊が見えるとかおかしなことを言っています、と言って2人をバッグの窃盗容疑で、所管の人形町の警察署に引き渡せばいい。」
「金塊の密輸を通報してきた件は?」
「それも、そのまま報告しよう。あとの取り調べは本庁がやってくれるだろう。」
なるほど、と小山は頷き、無言で座っていた長友が驚いたように身を乗り出すと、刑事たちを非難するような声を出す。
「信じてくれないんですか?」
岩永は長友の顔を見ると、お手上げだ、というようなジェスチャーをする。
「俺たちが信じるかどうかじゃない。警察が信じるかどうかなんだよ。」
明美が岩永を睨みながら、詰問するように問いかける。
「話の筋は通っていますよね。」
「幽霊に死体を見つけるよう頼まれた、幽霊に頼まれて薬を届けた、なんて報告書をお巡りさんは書けないんだよ。」
「公務員ですねえ!」
明美が憤慨して椅子に深くふんぞり返ると足を組む。デニムだから良かったがスカートなら危ないポーズだ。岩永は言われ慣れているように言い返す。
「そう。公僕ですから。あなた、逆の立場ならどうしますか?」
明美は黙り込み、今度は長友が恐る恐る質問する。
「そうすると、私はどうなるんですか?」
岩永と小山は顔を見合わせる。小山の方が少し言いにくそうに答える。
「交通違反の切符は今、こちらで切りますから後日に罰金を収めてください。その後、窃盗の容疑で人形町の警察署に身柄を引き渡しますので、再度そこで事情聴取を受けてください。」
「同じことしか言えませんよ?」
長友の悲壮な顔を見ながら、小山は残念そうに溜息を付く。
「幽霊に頼まれた、と言い続けるならば、おそらくは心療内科で検査することになります。あとは、向こうの警察がどうするかですね。」
明美はイライラした様子で小山に食ってかかる。
「アレルギー発作の子供を助けたことは事実でしょう? 人命救助のために薬を運んだのに、窃盗になるなんて納得いきません。」
今度は岩永が首を振りながら答える。
「幽霊に頼まれて人命救助をした、ということが成立するかどうか。向こうの警察次第ですね。まあ、とりあえず、出ましょうか。」
岩永が伝票を持って立ち上がりかける。
「岩永さん。」
ふてぶてしく椅子にふんぞり返って足を組んでいる明美が名前を呼びかける。
「岩永さんが気になっている、未解決の殺人事件とかありませんか? 私なら、殺された被害者の幽霊に犯人を聞けるから、犯人逮捕に協力できると思いますけど。」
岩永は浮かせかけた腰を椅子に戻すと、明美の顔を見つめながら考え込む。10秒か20秒ほどの沈黙が続き、岩永が「可能なのか?」と尋ねる。明美は、岩永の顔をまっすぐに見ながら、ゆっくりと言う。
「ええ。殺された人は、犯人への憎しみなどでこの世に未練があり、成仏できずに幽霊になっているケースが多いです。大体は、犯人が捕まるか、犯人が亡くなるまで幽霊になり続けていますね。」
明美の答えに岩永は腕組みをして考え込む。明美は岩永の様子を伺いつつ、言葉を続ける。
「ただし、協力するためには、長友さんのバッグの窃盗を人命救助として処理して、金塊密輸の密告も忘れていただくことが条件になります。」
腕組みをして考え込んでいた岩永は、天井を見上げながら「うーん。」と唸ったまま、しばらく固まり、部下の小山は岩永の隣に座ったまま、黙っている。
長友は額に冷や汗を浮かべながら成り行きを見守り、明美は観察するように岩永を鋭い目で見ている。
沈黙を破ったのは、意外にも岩永の隣に座っていた小山だった。
「岩永さん。試すだけ、試してみたらどうですか?」
岩永は「いいのか?」という表情を小山に向ける。小山は軽く肩をすくめると、「例の事件ですよね?」とだけ言った。岩永はバツが悪そうに頷くと、小山に話しかける。
「バッグの窃盗の件は、何とかなりそうか?」
小山は少し難しい顔をしながらも答える。
「うまいこと、辻褄を合わせますよ。人形町の所轄には警察学校の同期もいるんで。」
「手間をかけるが・・、いいのか?」
岩永の確認を、小山刑事は快諾する。
「私も、興味はありますからね。例の事件の犯人に。」
岩永は「すまんな。」と小山に声をかけ、その後に身を乗り出して明美と長友に顔を近づけながら、やや威圧的な声を出す。
「バッグの窃盗の件は人命救助として報告し、信号無視と密告電話のことも忘れてやる。ただし、昔の殺人事件の犯人捜しに協力してもらう。それでいいな?」
明美は組んでいた足を外すと姿勢を正して、丁寧に「ありがとうございます。」と頭を下げる。長友も、それに合わせて、慌てて頭を下げる。
岩永は鋭い目で観察するように二人を見つめていたが、やがて椅子に大きくふんぞりかえると「結構。」とだけ言う。長友が念を押すように、おずおずと岩永に声をかける。
「あの、私は、このまま解放されることで、いいのでしょうか?」
「ああ。このまま帰ってもらって構わない。タクシーを停めたところまで送るよ。何かあったら連絡するかもしれんが、たぶん、何もないだろうな。」
力が抜けたように椅子にもたれる長友を横目に、岩永は明美に話しかける。
「明美君は、明日の都合の良い時に深川警察署まで来てもらえるかな? こちらが頼みたい事件について話をさせてもらいたいからね。朝9時以降なら出勤しているから。」
明美は立ち上がると丁寧に頭を下げる。
「承知いたしました。では明日、午前9時にお伺いいたします。」
岩永はキャリアウーマンのような明美の仕草に違和感を感じつつ、名刺入れから自分の名刺を取り出し、明美に渡す。
「深川警察署の受付で、生活安全課の岩永で呼び出してくれ。・・・じゃあ、行こうか。」
岩永は机に手を付いて、ゆっくりと立ち上がると伝票を持ってレジに向かう。小山が財布を出しながら岩永の後を追いかけていき、椅子に座ったままの長友と明美はほぼ同時に安堵の溜息を付く。長友が額の汗をハンカチで拭いながら、申し訳なさそうに明美に話しかける。
「余計なことに巻き込んで、すまなかった。」
明美はグラスに残ったアイスティを飲み干すと、長友に返事する。
「謝る必要は無いですよ。そもそも、面倒ごとを頼んだのは、私が最初ですし。」
長友は、会計中の刑事2人の様子を見る。女性店員が、領収書の作成に少し手間取っているようだ。明美が、「長友さん?」と声をかけてくる。
「明日って、長友さんは仕事の日ですか?」
「ああ。普通に、朝8時から夜9時までの勤務だな。」
それじゃあ、と明美は長友の方に身を乗り出す。
「明日も刑事さんの頼み事で色々と移動することになるかもしれないから、長友さんのタクシーを明日1日、貸切にさせてもらえませんか?」
長友は一瞬、呆気に取られるが、すぐに明美に笑いかける。
「構わないけど。もう、警察への虚偽通報とか、犯罪みたいなことは勘弁してくれよ。」
「まあ、大丈夫だと思いますよ。」
何の根拠もなく、さらっと言った明美の言葉に長友は軽く笑う。
やっと会計が終わった刑事達が、長友と明美のテーブルに近づいて来た。
「楽しそうだな。」
嫌味を込めて岩永が明美と長友に声をかけた後に、小山が丁重ながらも事務的に2人に声をかける。
「では、長友さんのタクシーまで、お送りします。行きましょうか。」
長友と明美は、ほぼ同時に頷くと立ち上がった。
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