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第4章
翌日の午前9時過ぎ。約束通りに深川警察署を訪れた明美を、生活安全課の岩永警部補は2階の小さな会議室に案内する。
「今、資料を持ってくる。あと、俺はコーヒー飲むけど、何か飲むかい?」
安物のパイプ椅子に腰を下ろした明美はすかさず即答する。
「私にも、コーヒーください。ブラックで。」
「給茶機のコーヒーと、俺が持ってきているインスタントと、どっちがいい?」
「給茶機のコーヒーが不味いから、インスタントを飲んでいるんですよね? 私も、同じのをいただければ。」
岩永は「いい推理力だな。」とニヤリとしながら言うと、会議室を出ていく。一人残されれた明美は会議室を観察する。
6畳くらいの広さにパイプ椅子、スチール製の年季の入った机。壁際には鉄格子が付けられた窓が1つ。ドアには「会議室」とのプレートが付いていたが、どう見ても取調室だ。
居心地悪いなあ、と思いながら明美は窓の外を見に行く。警察署の裏手の駐車場を何気なく見下ろすと、「来客者用」の看板がある駐車スペースが見えた。
何だ、駐車場があったのか、と明美は思った。家から深川警察署まで長友のタクシーで来たが、駐車場が無いと思い、長友には近くのファミレスの駐車場で待ってもらっている。コンコン、と会議室のドアがノックされ、ノートパソコンの上に2つのコーヒーカップを乗せた岩永が、慎重にドアを開けながら入ってきた。
よいしょ、と言いながらノートパソコンを机に置くと、真っ白なコーヒーカップを明美の方に、何かのロゴマークが入ったコーヒーカップを自分の手元に置く。
「本庁の人が来たときの、来客用のカップだ。キレイだから、安心して飲みなさい。」
どうも、と礼を言うと、明美はコーヒーカップを持ち上げる。朝はコーヒーを2,3杯は飲まないと目が覚めない。まだ熱湯であるコーヒーに息を吹きかけ、一口すする。
「美味しい。」
驚いたような声を出した明美に、ノートパソコンを起動中の岩永は軽く肩をすくめる。
「インスタントにも、入れ方ってものがあってね。最初に少し熱湯を入れてかき混ぜて、インスタントの粉を完全に溶かした後に残りのお湯を注ぐ。これだけで結構、違うもんさ。」
へえー、と明美は素直に感心した声を出す。
「さて、じゃあ、本題に入っていいかな。」
パソコンを起動し終えた岩永は明美に声をかける。
「・・・とは言え、何から話せばいいものか。」
明美は、2口目のコーヒーを飲み込むと、岩永に確認する。
「私が、殺された人の幽霊さんと話して、誰に殺されたかを聞き出せばいいんですよね。」
「そう。その捜査資料とかを、ダウンロードして持ってきたんだが。思ったより資料が一杯あってな。」
「その、殺された人の事件の捜査には、岩永さんは関わっていたんですか?」
「ああ、関わっていた。というより、被害者と俺は知り合いだったからな。」
「それだったら、岩永さんから、被害者がどんな人で、どんな状況で殺されていたのか、口頭で教えてもらえますか?」
岩永はパソコンから目を上げると、眉をしかめて明美を見る。
「捜査資料はいらないのか?」
明美は不思議そうな顔で首を振る。
「私は、ただの民間人だし。警察みたいな捜査をするわけではないですし。」
そうか、それもそうだな、と岩永はブツブツ言いながらノートパソコンを脇にどかすと、コーヒーを口にする。
どうも進めにくいな、と思った明美は岩永に提案する。
「私の方から、殺された人について質問をして、岩永さんが答えてもらう形式でもいいですか?」
岩永も進め方をどうしようか悩んでいたようで、明美の提案を素直に受け入れ、「そうしよう」と言った。
「では、殺された人の名前、年齢、職業などの基本情報を教えてください。」
俺が取り調べを受けているみたいだな、と思いながら岩永は答える。
「そいつの名前は、鈴木マサル。マサルは「大小」の大で、だいちゃん、って呼ばれていた。享年21歳。仕事は御徒町の地元ヤクザの、まあ、暴力団の末端の組員だったな。殺されたのは、20数年前。」
「知り合い、ってことでしたが、どういう知り合いで?」
「俺は当時、上野近くの警察署で、いわゆるマル暴。ヤクザの犯罪専門の捜査をしている刑事だったんだよ。その捜査の過程で知り合った、とでも言うのかな・・。」
複雑そうな顔をしながら、岩永はコーヒーを飲む。
「ヤクザと言っても、だいちゃんはパシリと雑用で使われているだけだったがな。だいちゃん自体も、太っちょで、人の好い顔をしていて、とうていヤクザには見えん。何回か2人で飲みに行ったよ。本当はヤクザと警察が飲んじゃいけないんだけどな。」
少し話が脱線しかけてきたので、明美は話を戻す。
「岩永さんが、初めて、だいちゃんと知り合ったときのことを教えてもらえます?」
「最初は、だいちゃんが所属していた組の・・、まあ、N組とでも言っておくか。そのN組の組員が、居酒屋で店主と喧嘩して、店主が警察署に被害届を出してきた。名前は分からないが、相手はN組の組員だったと。」
湯気の上がるコーヒーカップを見ながら、岩永は昔を懐かしむように話す。
「被害届を受理して、捜査しようとしたら、だいちゃんが警察に自首してきた。私がやりました、ってな。」
いつのまにか明美は小さいノートを机に広げ、岩永の話をメモしている。
「ずいぶん素直ですね。」
「そう思うだろ? 一件落着、と思いきや、だいちゃんの事情聴取をしていると、全然、店主の話と辻褄が合わない。それでも、『私がやりました』って言い続けている。試しに色々とカマをかけたら全部に引っかかる。もう、話にならないから、釈放、というか、外に放り出したよ。」
「・・何か事件があると、自分がやったと思い込んで自首を繰り返す人がいると聞いたことがありますけど。そういう手合いだったんですか?」
明美は手に持ったボールペンを器用に回しながら尋ねるが、岩永は首を振る。
「後で分かったんだが、だいちゃんは、ヤクザ映画が大好きでな。映画の中で、幹部の代わりに身代わりで自首する、ってのを見て、そういうのに憧れていたらしい。そだから、自分でマネしてやってみたんだろう。」
明美は回していたペンを止め、どういうことだろう、と言うように小首を傾げる。そんな明美を見ながら、岩永は続けて話す。
「そもそも、だいちゃんは、ヤクザ映画に憧れて、N組に自分から入ったクチでな。雑用でも便所掃除でも何でもやりますから、って言って組に入れてもらって、実際に雑用しかやらせてもらえなかったらしい。」
明美はペンを置くと、コーヒーに手を伸ばす。岩永もコーヒーカップを持ち上げながら話す。
「まあ、一言で言うと、だいちゃんは、ちょっと、オツムが弱い子でな。子供が戦隊ものに憧れるように、ヤクザに憧れて、組事務所に入ったらしい。」
「よく入れましたね。」
呆れたように言う明美の言葉に岩永は肩をすくめる。
「率先して便所掃除をやりたがるヤツなんて便利だからな。N組もあまり深く考えずに入れたんだろう。もっとも、N組の連中も、後でそれを後悔することにはなるんだが。」
「後悔って言うと?」
明美は再びペンを取って、メモを取り始める。
「最初の居酒屋の事件以外にも、それからN組の誰かがやった、みたいな事件が起きると、必ず、だいちゃんが自首してくるようになった。それが続いて、4回目くらいだったかな。とうとう、先輩の刑事がキレて、N組の組事務所に電話して『いい加減にしろ』と怒鳴ったんだよ。」
岩永は喉を湿らすようにコーヒーを飲む。
「そしたら、電話の相手のN組も驚いてな。だいちゃんは、N組の連中に黙って、勝手に組の名前を出して自首していたんだ。てっきり、兄貴分の連中には、一言断ってから自首していると思ってたんだが。結局、組の恥さらしだ、とN組の中でも結構な騒動になって、だいちゃんは大目玉をくらったらしい。」
「・・・。大目玉で済んで良かったですね。」
「まあ、2,3発は殴られただろうがな。」
「で、だいちゃんはクビになったんですか?」
いいや、と首を振ると、岩永は姿勢を崩して少し横向きになり足を組む。パイプ椅子に腰が痛くなったのだろう、と明美は予想した。
「人手不足だったのかな。だいちゃんは追い出されずに、大人しく、また雑用に励んでいたよ。」
ふーん、と言うと、明美は何かをノートにメモする。
「・・ただなあ、しばらくして、だいちゃんは、またやらかすんだよ。」
「何をですか?」
明美はノートから顔を上げると、眉をしかめながら尋ねた。
「今度はなあ、違う組のシマの飲食店に、いわゆる、ショバ代を徴収しに行ったんだよ。本人は、組のためを思っての、新規開拓だったろうけどな。」
呆れたように天井を見上げながら、明美はパイプ椅子にもたれる。
「新規開拓って、何かの営業じゃないんですからねえ・・。それも、だいちゃんはN組に黙って勝手に?」
岩永は小刻みに首を縦に振る。
「組に無断の独断で、だよ。信じられないだろ? 常識で考えてもさ。でも、だいちゃんは、そういう子だったんだよ。人はいいヤツだったんだけどな。素直すぎるというか、何というか。」
「21歳なんですよね? だいちゃんは。」
「ああ。大柄で体格は良かったんだが、頭は子供だからな。」
「完全に、事務所に入れたN組の責任ですよね。で、新規開拓して、どうなったんですか?」
岩永はまだ熱いコーヒーを飲み干すと、カップを机に置く。
「N組に自分のシマを荒らされたと思った別の組、仮にT組とするが、そのT組とN組の仲が険悪になった。ルール違反、というか、仁義に反したワケだから当然だな。N組の組長も大激怒して、だいちゃんは完全にクビになった。小指が無事だったのが不思議なくらいだよ。」
うえ、という感じで、明美はコーヒーカップを持った自分の指を見る。
「で、それから2週間くらいだったかな。T組のシマの飲み屋街の路地裏で、だいちゃんが殺されていた。ドスで、脇腹を一突き。近くにはT組の組員の行きつけのスナックがあって、T組と喧嘩して刺された、ってセンで捜査がされたが、結局、犯人は捕まっていない。」
明美は素早く、岩永の言ったことをノートに記録する。
「なるほど。で、だいちゃんの幽霊に会って、犯人を聞くのはいいとして。岩永さんは、T組の誰が刺したのか、ってことが気になっているんですか?」
岩永は組んでいた足を戻すと、前に向き直り、腕を組んで両肘を机に置いた。
「だいちゃんが殺された時の現場の状況なんだが、犯人は正面から、無抵抗のだいちゃんの脇腹に真横からドスを刺している。」
話を聞いている明美は、顔をしかめながら脇腹のあたりを押さえる。岩永はしばらく明美の反応を伺っていたが、まあ、分からないか、というように説明を追加する。
「被害者と正面で向き合って被害者が無抵抗、ということは、犯人は被害者と面識のある人物で、被害者は自分が殺されることを予想していなかった、とのケースが多い。また、真横から刺す、ということは返り血を気にしているわけで、犯人がある程度のプロであり、かつ計画的な犯行であるケースが多い。いずれにしても、T組の組員がケンカで刺した、という状況にはふさわしくないんだよ。」
明美はメモを取り終えると、感心したような顔で岩永を見る。
「なるほど・・。犯人はT組ではない、と岩永さんは考えている、と。」
そうだ、と岩永は頷き、コーヒーカップに手を伸ばしたが、空であることに気づき、手を戻す。
「ただ、捜査の主導をした本庁の捜査一課は、T組とのケンカ殺人の線で捜査をしたがな。一応、所轄署の意見として、顔見知りの犯行も考えられる、との申し入れはしたが、聞き入れられなかったよ。」
明美は持っているペンで、ノートを何回か叩きながら思案する。
「だいちゃんを殺した犯人に心当たりはあるんですか?」
マスコミの質問みたいだな、と岩永は思いつつ、答えを返す。
「ああ。N組で、だいちゃんが慕っていた「英二」ってヤツがいる。当時で、年齢は30代半ば。N組の幹部クラスで、ヤクザ映画に出てくるような無口で冷酷なタイプ。実際に何人か殺しているんじゃないかと噂されていた。」
まだコーヒーが残っている明美は、少しぬるくなったコーヒーを一口飲む。
「なんで、その幹部組員が、事務所をクビになった末端組員を殺すんです?」
岩永は口を結んだまま首を横に振る。
「動機は分からない。ただ、俺は、だいちゃんと何回か飲みに行ったんだが、「幹部の英二さんは親切で、自分に目をかけてくれる。気に入られたのかもしれない。」って、だいちゃんはいつも自慢していたよ。」
明美は再びペンをクルクルと回しながら、岩永の顔をまじまじと見る。
「つまり、だいちゃんが気を許すような顔見知りが、その幹部組員の英二さんだけだったから、犯人だと?」
岩永はあっさりと認める。
「そう。あの殺害現場の状況で、誰がだいちゃんを殺せたか、って考えると英二か、俺くらいだろう。」
「だいちゃんには、他に気を許せる人、というか友達はいなかったんですか? 親しい女性とか。」
岩永はきっぱりと首を振ると力強く言う。
「いないな。だいちゃんは、事情があって家族もいなくて、俺以外の知り合いと言えばN組の組員だけ。ただ、他のN組の組員は、だいちゃんに八つ当たりしたり、馬鹿ににするような扱いしかしていなかった。だから、組員に路地裏に連れていかれたら、絶対に警戒して、あんな殺し方の状況にはならないはずだ。」
吐き出すように一気に言うと、さらに吐き捨てるように続ける。
「そもそも、英二は人付き合いが薄いほうでな。そんな英二が、だいちゃんに優しくしていた、ってのも何か裏がある、と思っている。」
なるほど、と明美はボールペンで、こめかみの辺りをつつきながら考える。
「岩永さんと同じで、だいちゃんに癒されていたんじゃないですか?」
そうなわけあるか、と岩永はすぐに否定する。
「英二と会えば、そういうタイプじゃないってのは一目で分かるよ。」
「会いたくないタイプだから、会いません。」
明美もさらっと否定する。
「ところで、英二さんは、まだN組に?」
岩永はまた横を向くと、腰をずらして足を組む。
「N組は、だいちゃんの事件があった後、2年ほどで解散している。ちょうどその頃に暴力団対策法ができたおかげでな。英二はも解散と同時に足を洗って、今では飲食店や風俗店をチェーン展開する実業家になってるよ。」
ほう、と感心したような小声を出して明美はメモを取る。岩永は明美がメモを取る様子を見ながら、ぼやくように呟く。
「今の英二は都議会議員とも仲が良くてな。生活安全課の捜査で、ちょいちょい、野郎の会社や名前が挙がってくるんだが、そういう時はなぜか上層部からやんわりと捜査に横やりが入るのさ。」
メモを取り終えた明美が、岩永を上目使いで見る。
「圧力、ってやつですか?」
「いいや。やんわりと助言される感じだよ。署長や副署長が『この事件は捜査方針が間違っているんじゃないか?』と言ってくるわけさ。」
言った後で岩永は、首を振りながら両手を軽く挙げる。
「いやいや、一般の人に言うことじゃないな。失敬。」
明美は軽く笑い、思わず笑みを返した岩永だが、すぐに真顔になって話題を本題に戻す。
「まあ、そういうわけで。明美君が、だいちゃんから話を聞いてもらって、英二が犯人であることの何らかの手がかりや状況証拠が見つかれば、再捜査して英二を逮捕することもできる、と思っている。今さら証拠が出てくる可能性は低いとは思うが、何とか、英二の野郎に一泡吹かせたくてな。」
明美は、何かに納得したように一人で頷くと、冷めたコーヒーを飲み干す。
「分かりました。そのあたりも含めて、だいちゃんに話を聞いてみます。そうしたら、だいちゃんの写真と、あと殺された場所とか、生前の住所とかを教えてもらっていいですか?」
岩永は再び頷くと、机の上のノートパソコンを明美が見える方向に向け、説明を始めた。
「・・・なるほど。岩永さんとの話は、大体分かったよ。」
長友はタクシーを運転しながら、後部座席の明美に話しかける。タクシーは岩永刑事との話を終えた明美を乗せて上野公園に向かっており、車内で明美は、岩永刑事と会話した内容を長友に伝えていた。
長友は赤信号でタクシーを停車させると、助手席に置いたペットボトルのお茶を飲む。
「そうすると、まずは、だいちゃんの幽霊を探すことから始める、ってこと?」
長友の質問に明美は、後部座席に深くもたれたまま答える。
「いいえ。岩永さんから見せられた写真を見て、気づいたんですけど、だいちゃんと私は、以前に一度、会ってるんですよね。」
「いつ?」
驚いて聞き返した長友に、明美は肩をすくめて答える。
「私が、本当の明美ちゃんに体を返したくて、色々な幽霊さんに聞いて回っていた時。長友さんの彼女さんと会う前だったかな。上野公園でだいちゃんにも会って話をしたんですよ。ちょっと変わった人だったから、印象が強くてよく覚えてるんですよね。」
「変わっていたって?」
明美は白いトートバッグから缶ボトルのコーヒーを取り出すと、蓋を開けながら答える。
「私の話よりも、私が持っていたスマートフォンに興味津々で。みんなこれを持ち歩いて、何か操作をしているけど、一体、その機械で何ができるんだ、って質問されて。」
「だいちゃんの世代だと、スマホは無かったんだっけ?」
「20数年前だと、通話機能だけの、文字通り電話だったようですね。メールやカメラの機能も無く、液晶も無くて、電話機のボタンだけ、みたいな。」
ふーん、と長友は鼻を鳴らす。
「その時代の人なら、まあ、珍しがるだろうね。」
ええ、と頷いて、明美はコーヒーをグイっと飲む。
「だいちゃんにとってみたら、オモチャみたいな感覚なんでしょうね。カメラやインターネットの機能を見せたら、『すごい! もっと見せて! 教えて!』って子供のように言われて。」
「だいちゃんは・・・、21歳だっけ? 」
「岩永さんはそう言ってましたけど・・。その時は、大人の体格をした中学生くらいなのかと思いましたよ。結局、スマホの話で1時間以上も質問責めにあって。」
疲れたような明美の物言いに、長友は苦笑いする。
「まあ、仲良くなってて、良かったじゃない。だいちゃんは、いつも上野公園にいるの?」
「保証はないけど・・・。ただ、幽霊さんは公園にいることが多いし。とりあえずは最初に会った上野公園から探してみようかな、と。」
「上野公園も結構広いよね。とは言っても、俺はだいちゃんが見えないけど、何か手伝えることある?」
明美はトートバッグにコーヒー缶を収めながら首を振る。
「いえ、知らない人がいるとだいちゃんが警戒するかもしれないし。長友さんは、どこかで待っててください。ヒマにさせて申し訳ないけど。」
「大丈夫だよ。客待ちは慣れてるから。」
長友の優しい物言いに笑みを返して、明美は窓の外を見る。歩道沿いの銀行のデジタル時計が午前10時30分を表示していた。なんとか、岩永刑事の依頼は今日中に片づけたい。
長友のタクシーを降りて延々50分ほど、だいちゃんを探して上野公園を散策していた明美は、ようやく、だいちゃんを見つけることができた。前回は東京都美術館の近くでだいちゃんと会って、今回の捜索も美術館付近から始めたが、だいちゃんを見つけたのは不忍池の野外ステージで、結局、明美は上野公園を半周ほど回っていた。
よくやく見つけた、と思った明美は途中で買ったスポーツドリンクを飲み干して、空き缶を近くのごみ箱に放り込むと、ステージの最前列に座っているだいちゃんに近づいていく。ステージの客席は、歩道に面している後部側はベンチ替わりに休憩している人が多いが、歩道から離れた最前列のだいちゃんの周囲には誰も座っておらず、明美は安堵した。幽霊と会話する際は、人間と会話するときと同じく声を出すことになるが、他人から見たら独り言を呟いている女の子にしか見えない。周りに人がいないのは好都合だ。
「だいちゃん。」
明美の呼びかけに、だいちゃんは大げさとも思えるリアクションで、驚いて振り向く。
「久しぶり。元気?」
明美が笑いかけると、だいちゃんも満面に笑顔を浮かべる。
「やあ。どうしたの、今日は?」
「今日はねえ、だいちゃんに話があって。」
明美はだいちゃんの隣に腰を下ろす。
「話? なんだい?」
だいちゃんは、軽い感じで聞き返してくる。明美は真顔になると、だいちゃんの目を見ながら、神妙に話を切り出す。
「昔の話で申し訳ないのだけど、岩永さん、って刑事さん、覚えてる?」
イワナガさん? と、だいちゃんは繰り返すと、ポカンと口を開けて、宙を見ながら考えている。
「ああ。思い出した。生きているときに、色々とご馳走してくれた刑事さんだ。」
よかった、と明美は思った。そもそも、だいちゃんが岩永さんのことを忘れていたら、話を進められなかった。
「実はね。この間、その刑事さんに助けてもらって。で、何かお礼をしたい、って刑事さんに言ったら、だいちゃんに話を聞いてきてくれないか、って言われてね。」
へええ、と、だいちゃんは目を丸くする。
「最近、岩永さんとは会ってないし。最後に会ったのって、もう、何年も前だよ。」
20年以上も前なんだけどな、と明美は思ったが、特に口にはしない。幽霊になると、時間の感覚がなくなるのかもしれない。
「でもね、岩永さんは、だいちゃんが亡くなってから、ずっと気にしていてね。いい奴だったのに誰に殺されたんだ、俺が犯人を見つける、って頑張って捜査したけど、結局、犯人を捕まえられずに悔しがっていて。」
岩永刑事の話から若干の補正はしたものの、嘘は言ってないよな、と明美は言ったあとで少し考える。
「ああ・・、そういうこと。岩永さん、熱血刑事だったからなあ。いい人だったよ。よく、ご飯をおごってくれたし。」
だいちゃんにとっての「いい人」とは、ご飯をおごってくれる人のことらしい。
「でね。岩永さんに頼まれたのは、誰がだいちゃんを刺したのか、だいちゃんに聞いてきて欲しい、って頼まれててね。」
うーん、というように、だいちゃんの顔が曇っていく。表情が豊か、というか、感情がそのまま顔に出てしまうようだ。大きな丸顔だけに、余計に分かりやすい。それにしても、何を悩んでいるのだろうか。明美は黙ったまま、だいちゃんの言葉を待つ。
「いや・・。実はね。あれ、僕が転んで、間違えて自分で自分を刺しちゃったんだよね。」
照れたように言うだいちゃんに、明美は気が抜けた。
「・・・どういう転び方をしたら、刃物が脇腹の真横からまっすぐ刺さるの?」
うーん、と、だいちゃんは再び唸りだした。何とか嘘の説明を考えているようだが、聞くだけ時間の無駄だ。
「だいちゃん。刺した人をかばっているでしょう?」
だいちゃんは、駄々っ子のように激しく首を横に振る。
さて、どういう具合に話を進めようかと明美は一瞬考えたが、すかさずカマをかけてみることにする。
「なんで、英二さんに刺されちゃったのかな?」
だいちゃんが驚いたように顔を上げて、まじまじと明美の顔を見つめる。そのうちに、だいちゃんの表情が曇っていき、最終的に少し泣きそうな顔になった。
「そんなの・・。僕が知りたいよ。」
やっぱり、英二さんが犯人だったのか、と明美は岩永の推理に感心した。そして、だいちゃんに優しく尋ねてみる。
「心当たりは無いの?」
「無いよ!」
だいちゃんは、少し大きな声で即座に否定する。
「英二さんは、僕のことを、見どころがある、大物になれる、って、いつも言ってくれてたんだ。ご飯だって、よくおごってくれたし。あの日だって、一緒にご飯を食べに行ったんだ。」
「ご飯を食べているときに、ケンカになったとか?」
「・・・いや、ご飯を食べに行こうとしたら、英二さんが『こっちだ』って言って、細い道に連れていかれて。それでいきなり・・。」
だいちゃんはそこまで話すと、再び泣き顔に戻って肩を落とす。刺されたときのことを思い出したのだろう。
「そう・・。」
嫌なことを思い出させてしまったことに明美は少し罪悪感を感じ、気落ちしているだいちゃんを気遣って話を止める。何気なしに目の前の誰もいない野外ステージを眺めながら、離れた歩道を行き交う通行人の雑多な話声や足音に身を委ねる。
しばらくして落ち着いたのか、だいちゃんがポツリと呟いた。
「本当に、なんで、英二さんがあんなことをしたのか分からないよ・・・。会社の経営だって、順調だったのに。」
「会社?」
ぼーっとしていた明美は何も考えずに聞き返す。しかし、だいちゃんは、明美の聞き返しに機敏に反応して、狼狽したように明美から顔を逸らす。
組事務所のことを「会社」と言っているのかな、と思いつつ、明美はもう一度聞いてみる。
「会社って、英二さんがいたN組のこと?」
だいちゃんは首と目を泳がすようにキョロキョロと動かして、言おうか言うまいか考えていたようだが、やがて一人頷くと、明美に向かって指を立てながら話し始める。
「これは、絶対に誰にも言うな、って英二さんに言われてたんだけど。」
「うん。」
だいちゃんの芝居がかった物言いに、明美は軽く頷く。
「僕ね、英二さんに会社を任されていて、4つくらいの会社の社長だったんだよ。」
「・・・・どういうこと?」
本気で意外に思って、明美はだいちゃんに不思議そうな声で質問する。だいちゃんは、種明かしをする手品師のように明美に説明する。
「実際は、英二さんが会社を動かしているんだけど、『お前が社長になっていた方が、お客さんや銀行も安心する。』って言われて、社長になってたんだよ。ほら、英二さんって、見かけが怖いじゃない?」
明美は得意げなだいちゃんの顔をじっと見つめる。何かが繋がりそうな気がした。
だいちゃんは、明美に感心されたと思ったのか、嬉しそうに語り始める。
「すごかったんだよ。ベンツの中古屋さんとか、パソコンやコピー機を売る会社とか、めちゃくちゃ高い腕時計を売るお店とか。全部、僕が社長だったんだよ。」
「その会社は、英二さんが作った会社なの?」
「英二さんの友達がやっていた会社を、英二さんが買ったみたい。あんまり詳しくは聞いてないけど。」
どうでもいいじゃない、そんなこと、とだいちゃんは言いたげだ。あまり鋭い口調にならないように気を付けながら、明美はだいちゃんに質問する。
「社長って、何をやっていたの?」
「スーツを着て、銀行の人とお話するんだよ。まあ、難しい話は全部、英二さんがやってくれるんだけどね。僕は資産家の息子、ってことにして、適当にレストランとかお寿司屋さんの話をしてるだけ。」
雲行きの変わってきた話に明美は少し怖くなり、声を潜めて、だいちゃんに聞いてみる。
「ねえ・・。難しい話って、もしかして、銀行から、お金を借りる話?」
だいちゃんは少し目を見開いて、驚いたように無邪気に言う。
「そう。よく分かったね。会社を大きくするには、銀行からお金を借りなくちゃ、って英二さんが。」
融資詐欺、取り込み詐欺。新聞か雑誌で見たような、そんな言葉が明美の頭をよぎる。
「・・・どのくらい借りたのかしら?」
独り言のように明美は言ったが、だいちゃんは律儀に答えてくれる。
「よく分からないなあ。書類にゼロがたくさん並んでたけど。でもね、銀行との打ち合わせが終わると、英二さんは喜んで、ものすごい高いものを一杯、おごってくれたんだよ。」
「そうなんだ。」
明美は作った笑みを顔に浮かべて、だいちゃんに相槌を打つ。
おそらく、英二という奴は、倒産しそうな中古車屋などを使って書類を偽造して、うまいこと銀行から融資を受けていたのだろう。そして、ある程度の融資金が溜まったところで計画的に会社を倒産させ、口封じに書類上の社長であるだいちゃんを殺した。
ひどい話だ、と明美は思った。横では、だいちゃんが饒舌に、嬉々として明美に自慢するかのように英二におごってもらった寿司屋の話をしている。
こんな子供みたいな人をあっさり殺せるなんて、ヤクザってすごいんだな、と思いながら、明美は辛抱強く、だいちゃんの自慢話に耳を傾け続けた。
だいちゃんの少し長い自慢話を聞き終えて、明美は不忍池沿いの道路で長友のタクシーを待っていた。時間は午後12時半過ぎ。歩き疲れた明美は空腹で、だいちゃんの話を聞いてから、お腹はすっかりお寿司のモードになっている。
だいちゃんから犯人を聞き出す、ということで最初は重い仕事だと思っていたが、結局は、だいちゃんとも和気あいあいと話を終えることができた。岩永刑事が「あいつの顔を見ると、メシをおごりたくなるんだよ」と言っていたが、その気持ちが分かるような気がする。
幽霊になったら、ご飯を食べられないんだよな、と明美は不忍通りを行き交う車を眺めながら考える。でも、私は食べることができる。不思議なものだ。
緑色のタクシーがゆっくりと走ってきて、運転席の長友の顔を確認すると、明美はタクシーに向かって軽く手を挙げる。ほとんど同時に長友のタクシーのハザードランプが点滅し、緩やかに減速したタクシーが明美の前にピタリと停車して、後部座席のドアが開く。
運転うまいなあ、と思いながら明美は小さな体を後部座席に乗せると「八丁堀まで」と長友に声をかける。長友はすぐにタクシーを発進させて、明美に問う。
「だいちゃんの件は、うまくいったの?」
「なんとか無事に。あとは、岩永さんに報告して終了ですね。」
「岩永さんは、八丁堀で待ってるの?」
「いいえ。だいちゃんの話を聞いていたら、お寿司が食べたくなって。あ、長友さん、お寿司は食べられますか?」
長友は失笑するように笑いながら「大丈夫だよ」と返事をする。
「じゃあ、まずは食べましょう。八丁堀に、ランチをやっている美味しいお寿司屋さんがあって、足りなかったらアラカルトでも注文できますから。」
食いつき気味に言ってくる明美に、長友は「お腹空いたの?」と声をかける。朝からほとんど、客待ちというか、明美を待つだけでスポーツ新聞を読んだり、昼寝を楽しんでいた長友は、まだほとんどお腹は空いていない。
「1時間近く、だいちゃんを探して、上野公園を歩いていたもんで。幽霊さんなんて、どこにいるか分からないから建物の裏とか、茂みの裏まで探して、ほんと疲れちゃいましたよ。」
「結局、だいちゃんは、どこにいたの?」
「野外ステージの最前列に座っていました。茂みの裏まで探したのに、あんな分かりやすいところにいたなんて。」
明美は白いブラウスのボタンを外すと、パタパタとブラウスを扇ぐ。
「汗かいちゃいましたよ、まったく。」
長友は少し目のやり場に困りつつ、冷房を強くする。
「あ。ランチは2時までなので、急がなくても大丈夫ですよ。」
「いや、お腹空いているんでしょ?」
長友は少し笑いながら言うと、追越し車線に進路を変えると、軽く加速した。
岩永刑事は深川警察署の2階で昨日に起きた事案の報告書を作成していた。口頭で課長には報告しているものの、いざ文章でまとめようとすると、なかなか難しい。
スーツケースの死体発見と犯人確保なんて、治安が割と良い地域を管轄する深川警察署では数年に1度あるかどうかの大事件だ。おまけに、同じ日に子供のアレルギー薬を届ける人命救助をして、お巡りさんとしては大活躍だが、報告書としては通常の2週間分か、それ以上の量を短期間で書き上げることになり、岩永刑事は苦しんでいた。
報告書を書いては削除し、書いては削除する文章の校正を繰り返していると、岩永の内線電話が鳴った。
「岩永です。」
「あのー、こちら受付ですが。岩永さんと2時半に面会の約束がある、えーっと、明美と言えば分かる、と言っている女の子が、今、受付に来ているんですが。」
岩永は壁に掛かっている時計を見る。いつの間にかもう2時半だ。
「2階に上がってもらってくれ。」
分かりましたー、と頼りない受付の返事を聞くと、岩永は受話器を置く。
明美君から面会予約の電話があったのは1時間ちょい前だ。もう1時間経ったのか、と岩永は思うと、1時間でA4用紙1枚すら進んでいない報告書を眺めて暗い気持ちになった。
岩永は椅子から立ち上がると、腰を叩きながら仏頂面で廊下に出る。ちょうど階段を上がってきた明美と長友を見つけると、近くの「空室」とのプレートが出ている取調室に案内する。プレートを「使用中」に変えると、パイプ椅子に腰を下ろした明美と長友に声をかける。
「お茶かコーヒー、飲むかい?」
いいえ、とタクシー会社の制服を着た長友は首を振るが、明美はニッコリ笑うと、「コーヒーをブラックで2つ。給茶機じゃないほうでお願いします。」と言ってきた。
やれやれだ、と思った岩永は、タイミングよく通りかかった新人の女性巡査にコーヒーを3つ頼むと、自分もパイプ椅子に腰を下ろした。
「お疲れですね。」と、挨拶をするように明美が言ってくる。
「昨日の事件の報告書が思ったより大変でな。手伝ってほしいくらいだよ。」
半ば本気で岩永は言う。
「すみません」と申し訳なさそうに長友は頭を下げるが、明美はケロッとしたまま質問をしてくる。
「昨日の件って、結局、どうなったんですか?」
岩永は鼻から大きく息をついて答える。
「スーツケースの死体の、榎本愛理ちゃんの件については、金塊密輸の電話は無かったことになった。俺と小山が、近隣の下着窃盗事件の捜査で聞き込み中に見つけた、ってことになってな。」
本庁の捜査一課の若い刑事も、謎の残るタレコミ電話をどう報告しようか迷っていたこともあり、岩永は昨日の夜にその刑事に電話して「タレコミ電話は自分の勘違いで、別件の捜査中に職質したことを思い出した」と言ってみた。若い刑事は安堵したように、「そうですか。そうしましょう。」と言って、お互いすぐに口裏を合わせた。
「おかげさんで、ウチの上層部は得意満面だよ。所轄の地道な警察活動が大事件を解決した、ってな。俺も小山も、珍しく褒められた。」
普段は褒められてないのか、と明美は思ったが、口には出さずに岩永に問いかける。
「アレルギーの薬を子供に運んだ件は、どうなりましたか?」
「あれも、小山が色々と考えてくれてな。」
小山とは、もう一人の若い刑事さんだったっけか、と明美は思い出そうとするが、顔を思い出せない。
「薬を届けようとした母親が長友さんのタクシーに乗車したものの、忘れ物を思い出して一旦、家に戻り、待たせていたタクシーに戻ろうとしたところをトラックに撥ねられた、長友さんは最初に母親を乗せたときに、母親から薬を届けることと、届け先を聞いていたので、母親の代わりに薬を届けた、って筋書きだ。」
どうだ、と言わんばかりに岩永は胸を張る。
長友は感心したように大きく頷くと「お手数をおかけいたしました。」と言って深々と頭を下げる。一方で、明美の方は唸りながら天井を見上げる。
「そうか。昨日、そうやって言い訳すれば辻褄があったのか・・・。なんで気が付かなかったんだろう。」
悔しそうに言う明美に向かって、岩永は軽く溜息をつく。
「・・・で? だいちゃんの件はどうなったんだ?」
コンコン、とノックの音がして、ショートヘアの女性巡査が部屋に入ってくる。持っているお盆に乗せたコーヒーカップから湯気とともにコーヒーの香りが立ち昇り、換気の悪い室内に香りが充満していく。
女性巡査は、慣れた様子でコーヒーカップの持ち手が右側に来るように3人の前に並べると、お辞儀をして部屋を出て行った。
明美はコーヒーをすすると、アチチ、と言ってコーヒーカップを机に置く。
「・・で、どこまで話しましたっけ?」
「何にも話していないよ。だいちゃんと会ってきたんだろう?」
からかわれているのか、彼女なりのジョークなのかは分からないが、岩永は段々、この明美という女性の扱いに慣れてきた。長年、刑事をやってきた順応性なのかもしれないが。そうでしたね、と言って明美は話を始め、岩永は胸ポケットから手帳を取り出した。
「・・・そうすると、詐欺に使われた会社というのは、ベンツの中古車屋と、パソコンなどのOA機器、あと、高級腕時計を売っている会社、と。」
「ええ。具体的な社名は、だいちゃんも覚えていないみたいで。会った銀行の人についても、社名も担当者の名前もまったく覚えていないと。」
「・・・だいちゃんなら、そうだろうな。あいつが覚えるのは、寿司ネタの名前くらいだよ。」
岩永は手帳とペンを置くと、手ごろな温度になったコーヒーを一口飲む。
明美と岩永が黙ったところで、長友が口を挟んでくる。
「あの・・結局、英二さんという人は、捕まえられそうでしょうか。」
岩永は難しい顔をして首を振る。
「詐欺の件は、とっくに時効になってるから、再捜査もできないだろうな。コロシの方も、動機は分かったが、新しい物的証拠のようなものは・・。」
岩永は明美に目を向けるが、明美も残念そうに首を振る。
「それにしても、だいちゃんが詐欺事件に関わっていたなんて、初めて聞いたぞ。」
不満そうに言う岩永に明美が尋ねる。
「殺人の捜査の過程で、そんな話は出なかったんですか?」
無い、と岩永はきっぱり言い切ると、パイプ椅子に大きくもたれる。
「まあ、銀行も、詐欺にあったなんて間抜けなことを公表したくないだろうし。ましてや、詐欺会社の社長役が殺されていたなんて知ったら、おっかなくて何もできないだろう。面倒ごとを避けて、普通の倒産として処理して、被害届を出さなかったんだろうな。」
「だいちゃんは、口封じと、見せしめも兼ねて殺されたんですかね。」
明美の少し怒りをこめた言いぶりを、岩永は少し意外に思った。冷めた女性だと思っていたが、正義感は割と強いのかもしれない。その割に、警察のことは嫌っていそうだが。
「まあ、だいちゃんが元気そうで何よりだったよ。」
ありがとう、というように岩永は明美に笑みを見せる。そうですね、と明美も肩をすくめる。
「あ、そうそう。そう言えば・・。」
手帳を胸ポケットにしまいかけた岩永は、明美の言葉に手を止める。
「だいちゃんは、英二さんに言われて、自分の名義で銀行口座を5個か6個くらい作ってたみたいです。通帳やキャッシュカードは、全部、英二さんに渡していたみたいで。」
明美はカップに残っていたコーヒーを飲み干して、言葉を続ける。
「銀行相手の詐欺には、個人の口座なんて使わないから、もしかしたら詐欺ではなく脱税のために口座を作っていて、今もまだ使っているかも。」
背筋を伸ばしてコーヒーを飲んでいた長友が口を挟む。
「でも、だいちゃんは、とっくに亡くなっているじゃない?」
岩永は、長友の疑問を拾って答える。
「銀行は、預金者の生存確認なんてしないよ。重要な郵便物が届かなくなったら、住所不明で口座停止するかもしれんが。」
そうなのか、と納得している長友を横目に、岩永は明美に話しかける。
「税務署の管轄にはなるが、一応、調べてもらうよ。銀行口座は、だいちゃんが最後に住んでいた住所で作られているのかい?」
ええ、と明美は返事をして、岩永は手帳を開いて簡単にメモを取る。
「まあ、普通に考えたら、自分が殺した相手の銀行口座を、脱税用に20年以上も使っているなんて考えにくいがなあ。」
あら、という感じで明美が反論気味に言葉を返す。
「いわゆる、サイコパスみたいな人なら、殺した思い出として使い続けるかもしれませんよ。」
はははっ、と岩永は思わず声に出して笑う。
「いや、失礼。面白い発想するね、あなた。」
褒められたのかどうかも分からない明美は、はあ、とだけ返事するが、そろそろ頃合いかと思い、少し姿勢を正して、岩永に挨拶をする。
「それでは、岩永さん。色々とありがとうございました。」
「ああ・・。そうか、えっと。この後は、霊媒師のところに行って・・・。」
言いにくそうに岩永が飲み込んだ言葉を明美が引き継ぐ。
「成仏して、この体を、この女の子に返します。」
そうか、と岩永は口を結ぶと、無言で頷く。なぜか、長友が「引き止められないか」といった感じで自分を見てくるが、拒否のサインをアイコンタクトで返す。そんな様子を感づいたのか、明美が明るい声を出す。
「そんな、別に死ぬわけじゃないし。まあ、もう死んじゃっているし。」
冗談とも本気ともつかない言葉に、室内にはより一層、微妙な空気が漂う。
しくじったかな、と思った明美は、開き直るように言う。
「まあ、元に戻るだけですから・・・。お知り合いになれて、楽しかったです。」
うーん、と岩永は唸り声を挙げて腕を組むが、しばらくして「うん」と大きく頷くと、「じゃあ、行こうか」と言った。その言葉が合図のように、明美と長友も立ち上がる。
廊下に出て階段に向かっているところで、コーヒーを運んできた女性巡査とすれちがう。
「あ。コーヒー、ご馳走様でした。」
明美が子供らしい笑顔で巡査に挨拶すると、巡査もにこやかに笑って会釈する。
あの巡査は、この子が幽霊だなんて思ってもいないだろうな、そんなことを思いながら、岩永達は1階に降りる階段の前に到着する。
「ここまでで大丈夫です。ありがとうございます。」
明美が振り返って岩永に改めてお辞儀する。
「ああ。じゃあ・・・。」
お気をつけて、というのも妙だし、お元気で、というのもおかしいと思い、岩永は口ごもってしまう。多分、明美は察したのだろう。
「岩永さんもお元気で。」
では、と言うと明美は階段を下りていく。横に立っていた長友は「お世話になりました。」と岩永に頭を下げて、慌てて明美の後を追いかけていく。
岩永は二人の後姿を見送ると、ふっ、と鼻で笑った。
「お世話になりました、って、刑務所の出所じゃねえんだからよ。」
岩永は事務室に向き直ると、報告書という現実を思い出し、首を回しながらため息をついた。
長友と言う奴は酒を飲むのだろうか。これが落ち着いたら、奇妙な出来事の経験者同士として一緒に飲みに行くのも面白いかもしれない。少しでも明るいことを考えるようにしながら、岩永は事務室のドアを開けた。
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