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第5章
安物のカーテンの色々な隙間から差し込む朝の光で長友は目を覚ました。珍しく頭痛を感じながら枕元のスマホで時間を確認し、午前9時過ぎの時刻表示に顔をしかめる。今日は仕事が休みなので早起きする必要はないが、いつも自然に朝7時くらいには目を覚ましている。今日は随分とゆっくり寝坊したものだ。軽く布団から起き上がると、真横にある小さな食卓に350ミリの発泡酒の空き缶が5,6本、並んでいるのが見えた。
そうか、昨夜は珍しく、酒を飲んだのだった。頭痛の原因が分かると、少し後悔した。
長友は普段は酒を飲まず、たまにテレビで野球を見る時に何気なく発泡酒を1本空ける程度だ。ただ、昨夜は無性に飲みたくなって冷蔵庫に入れておいた発泡酒を全部空けてしまったらしい。
今日が仕事休みであった幸運に感謝しつつ、台所に水を飲みに行き、顔を洗って戻ってくると、布団の上であぐらをかく。6畳1Kの狭い部屋では、布団を畳まない限り、布団が座布団になる。
ふうー、っと頬を膨らませて、ゆっくりと口から息を吐く。酒の臭いはしないが、これは自分で自分の臭いは分からない、というやつだろうか。
もう一度寝ることも考えたが、眠気はあまりないため、再び立ち上がると今度はコーヒーを作りに台所に行き、ポットでお湯を沸かす。棚から安物のインスタントコーヒーを出したところで、長友は明美のことを思い出す。
明美も長友もコーヒー党のブラック派で、2人が会話するときには、大体、明美か長友のどちらかがコーヒーを飲んでいたような気がする。もっとも、飲んでいるコーヒーは自販機かコンビニのコーヒーばかりだったが。
昨日の夕方、霊媒師の家に向かう明美をタクシーから降ろす前に、せめて最後にスタバのコーヒーにでも誘えば良かったと思うが、あまり気を使われるのも明美が嫌がると思い、遠慮してしまった。明美をタクシーから降ろした時も、特に気の利いたことは言えずに挨拶程度の会話をしたのみで、何と無く色々と自己嫌悪に陥って、家に帰ってきてから酒を飲み始めてしまい、今に至る。
お湯が沸いたので、濃いめにコーヒーの粉を目分量で入れて、お湯を注ぐ。小さな食卓にコーヒーカップを持っていき、邪魔な発泡酒の空き缶を片付けようとしたときに、スマホの通知LEDが点滅してメールの着信を知らせていることに気づいた。
とりあえず空き缶を片付けると、スマホを手に取る。会社から出勤要請の連絡でも来たのだろうか、とメールを確認した長友は、思わず驚いて声を挙げた。
ゆっくりと、メールの文章を目で追っていく。
「長友さん、おはようございます。山下明美です。昨日は色々とありがとうございました。結局、私はまだ成仏できていません。霊媒師さんが色々と試してくれたのですが・・。体の中にいる石野明美ちゃんのが、私を出してくれないとかで、うまく行きませんでした。また今後に、タクシーをお願いすることがあるかもしれません。とりあえず、ご連絡まで。」
ビジネスメールのような簡潔な文面を3回ほど読み直し、明美にメールを返す。何回か明美とメールのやり取りをして、明美と会う約束を取り付けると、長友は急いでシャワーを浴びに行った。
地下鉄を2本乗り継いで、明美の家の最寄り駅に到着した長友は、明美が指定したドーナツ店を探す。駅前から少し離れたところにドーナツ屋を見つけると、スマホで時間を確認して足早に向かう。待ち合わせ時間にはまだ30分ほどあるが、朝食を食べていないため、結構な空腹だ。何か小腹に入れながら明美を待つことで時間的にもちょうど良い。
数年ぶりくらいに入ったドーナツ店で、何とか朝食になりそうな、甘くないパイとマフィンを1個ずつ選ぶと、コーヒーと一緒にトレイに乗せて2階に上がる。窓際のカウンター席に座ろうと向かっていると、聞き覚えのある声がした。
「長友さん?」
振り返ると、明美が2人用の小さなテーブルに座って、甘そうなチョコレートベースのドーナツを食べている。
「早いね。」
少し驚いた長友は明美の前に着席する。
「明美ちゃんの母親が基本的に和食派で、家にコーヒーも無くて。洋風な炭水化物が欲しくなって。」
明美のトレイにはクリームがたっぷりのドーナツがあと2つ置いてある。コーヒーの量から勘案すると、ちょうど食べ始めたところらしい。
「それにしても驚いたよ。」
長友はそう言うと、まずはコーヒーを飲む。明美は紙ナプキンで口の周りを拭うと、声をひそめて困ったような顔で言う。
「参っちゃいましたよ。本当に。」
周囲に他の客はいないが、長友も少し声を小さくして明美に聞いてみる。
「どういうことなの?」
明美は1つ目のドーナツを食べ終えると、話し出す。
「私が成仏するためには、私の中にいる石野明美ちゃんの魂に押し出してもらう必要があるんです。ただ、霊媒師さんが明美ちゃんに話しかけても、無反応で。」
長友はミートパイを一口食べる。食べながらする話でも無いが、腹も減っているので仕方ないだろう。
「明美ちゃんの魂は、本当に君の中にいるの?」
「いますね。時々、明美ちゃんの・・・意識みたいなものは感じることができるので。何というか、自分の意志とは別に、誰かの感情を感じることはあるんです。」
長友は聞きながら、ミートパイをさっさと食べ終えコーヒーに手を伸ばす。明美も2つ目のドーナツを手に取りながら話す。
「で。霊媒師さんが準備して、あとは明美ちゃんが私の魂を押し出すだけ、ってところで、明美ちゃんがそれを嫌がって、拒否している感情は、かなりはっきりと伝わって来たの。」
「明美ちゃんは、戻りたくない、ってことなの?」
「ええ。霊媒師さんも困惑していて。」
明美もすっかり困った様子だ。長友はコーヒーをすすりながら考える。
「何か、戻りたくない理由がある、ってことなのかな。」
うんうん、とドーナツを食べながら明美は同意する。
「思春期だから、色々あるのかもしれないですけど。学校の友達とはうまくやっているみたいで、いじめとかは無さそうなんですよね。」
ふうん、と言ったあとで長友はふと気づく。
「まだ、学校は春休みでしょ? 学校の友達と会ったりしたの?」
「会ってないですよ。スマホに色々とSNSで連絡が来てて。今回の件で気になったから過去のやり取りも見たんですけど、学校生活とか、友人関係に問題はなかったみたい。」
学校生活に問題が無いとすると、相対的に家庭生活に問題がある、ということになるのだろうか。しかし、さすがにそこまでのプライベートを訪ねても良いものか。長友はチラリと明美の顔を見ると、明美は長友の言いたいことを分かっているように目線を返してくる。
「明美ちゃんは、区営住宅で、お母さんと2人暮らしなんですけどね。お母さんはお総菜屋さんでパートしていて、明美ちゃんが料理とか家事を頑張っていて。」
偉いね、と長友は少し感心する。そうなんですよ、と明美も同意する。
「私も明美ちゃんとして、今、掃除とか料理をしていて。掃除はともかくとして、料理が本当に大変なんです。よく明美ちゃん、やっていたなあって思う。」
「明美ちゃんって、中学2年だっけ?」
「来週の新学期からですね。今は中学1年で。でも、野菜を切ったり、お味噌汁を作ったりしてたんです。」
長友は感心して聞いていたが、ふと疑問が湧く。
「明美ちゃんが料理を手伝っていることは、どうやって知ったの?」
明美はドーナツを持ったまま、ちょっと困ったような顔をする。
「明美ちゃんの部屋の引き出しに日記帳があって。それを読まさせてもらったんです。まあ、おかげで何とか明美ちゃんを演じられている、と思っていますけど。」
そうか。家の中では中学生の明美ちゃんのフリをしないといけないのか。
「まあ、事故で軽い記憶障害が起きている、って病院で診断されたので、完全に演じられなくても問題はないのでしょうけど。」
「記憶障害?」
ドーナツを食べ終えた明美は両手を軽く挙げる。
「事故の後に病院で目を覚ましたら、この体になっていて。自分の名前や母親の顔も忘れていたのだから、そういう診断になりますよね。まあ、忘れているというか、私は明美ちゃんではないのだから、知らないというのが正しいんですけど。」
大変だね、と真顔で言った長友に、明美は少し疲れた様子で頷き返す。
「まあ、日記を見る限り、明美ちゃんはお母さん想いの良い子で、家庭環境にも不満や問題はなさそうなんですよね。」
長友は少し考えこむ。
「学校、家庭に問題がないとすると、あとは、失恋とか。」
明美は、あー、なるほどー、と言うが、残念そうに首を振る。
「日記やSNSには、それらしいことは全く無かったですね。付き合っているとか、誰が好きとかの話も無かったです。」
長友は再び考えてみるが、他に明美ちゃんが悩みそうなことは思いつかない。
「分からないなあ。ただ、聞いている限り、明美ちゃんは優しそうな子だから、山下明美さんのほうに気を使って、戻りたくないとか。」
「さすがにそれは・・。霊媒師さんによると、相当の強い意志で「戻りたくない」って思っているらしくて。」
「そうすると、よほどのことがあったとしか思えないけど。」
しばらく2人は無言で考えていたが、やがてどちらかともなくコーヒーのお替りを欲して、2人で1階にコーヒーを買いに行く。新しいコーヒーを買ってきて2階の客席に戻ると、まだ正午前にもかかわらず、いつの間にか客席は6割程度が埋まっていた。
春休みであるためか、私服の女子中高生が多いように見える。何人かの女の子が、連れ立って歩く長友と明美を興味深そうに目で追っているのを長友は感じ、居心地悪そうにテーブルに腰を下ろした。
2人が新しいコーヒーを飲もうとした時に、明美が椅子に掛けているトートバッグからSNSの着信音がした。明美が白いスマホを取り出し、チラリとスマホを見るとバッグに戻す。
「大丈夫?」
長友の質問に明美は、複雑そうな顔で、うん、と返事をする。
「明美ちゃんからの友達で、今週末に買い物に行こう、って。」
「ああ。今のは、明美ちゃんのスマホ?」
「そう。何人かで、豊洲のショッピングモールに行くんだって。」
割と遠くまで買い物に行くんだな、と長友は思った。まあ、女性だと買い物のために遠出するのは普通なのだろうが。
ふと思ったことがあり、長友は「ねえ」と明美に声をかける。
「事故があった時って、明美ちゃんは一人だったの?」
SNSに返信しようとしていた明美が顔を上げて、しばし考える。
「うん。明美ちゃん一人だったと思う。なんで?」
「明美ちゃんは、品川に何をしに行ったんだろう、と思ってさ。」
明美は口元に手をやって少し考える。
「・・・確かに。明美ちゃんの家からも結構遠いし。お母さんのパート先とも違うし。遊ぶところも、無いですよねえ?」
「水族館はあるけど。それくらいかなあ。」
「でも、それなら友達と一緒だと思うし。」
「誰かと待ち合わせしていたとか?」
明美は、「探してみる」と言ってスマホの上に指を走らせる。
「・・・メールやSNSにも、そんな話は出ていないですね。」
「明美ちゃんの日記で、何かあったりしない? 品川に親戚が住んでいるとか。」
「・・見たことは無いですね。」
「そう・・。まあ、謎だけど、関係無いかもしれないし。」
長友は肩をすくめて諦めようとするが、明美はスマホを両手で持ったまま、考えている。
「いや、何で品川にいたのかは、やっぱり気になりますね。普通は、中学生の女の子が行くところではないし。」
「品川かあ・・。」
タクシー運転手の長友は、自分の知識で品川界隈を思い出すが、特に明美ちゃんが行くような場所は思い当たらない。
「何かイベントとか、あったのかな。」
探してみるか、と呟くと、長友は自分のスマホを取り出してネットでの検索を試みる。明美もスマホで調べようとして、「あ。」と何かに気づいたような声を出す。
「どうしたの?」
「明美ちゃんのスマホのインターネットの閲覧履歴を見れば、何か分かるかもしれない。」
ああ、と長友は感心したような声を出すが、明美は自分で言っておいて渋い顔をしている。
「うーん・・。なんか、他人のネットの履歴を見るのは気が引けるけど・・。」
「もう、メールやSNSも見ているんでしょ? 他に手がかりもないし、仕方ないよ。」
長友の免罪符のような言葉に明美は同意すると、スマホをちょんちょん、とタップする。人差し指が、画面を下にスクロールする動きをした後で、明美は緊張した声を出した。
「あった・・。明美ちゃん、事故の前日に品川区役所の場所や窓口の時間を調べている。」
「品川区役所?」
聞き返した後に、長友は妙な顔をする。
「明美ちゃんの家は、江東区でしょう?」
「でも、品川区役所を調べている。・・・あと、戸籍謄本の取り方も。」
「ああ。」と言って、長友は納得した。
「戸籍謄本は本籍地じゃないと取れないからか。」
明美はまだスマホを探りながら、長友に疑問を示す。
「でも、何で戸籍謄本を?」
「・・・お母さんに頼まれたんじゃないか?」
長友の答えに明美はスマホを置いて腕を組む。
「お母さんからは、そんな話は聞いていないし。戸籍謄本の使い道なんて、婚姻届とか、パスポートの申請くらいだろうけど、どちらも思い当たるところは無いし。」
ふむ、と長友は首を傾げてコーヒーに手を伸ばす。明美も難しい顔をしながらコーヒーカップを持ち上げる。コーヒーを飲みこんだ長友が、ぼんやりと呟く。
「何か調べようとしていたのかな?」
明美はコーヒーカップを持ち上げた手を止めたまま、少し考え、やがてコーヒーカップをそのままテーブルに置く。
「もしかして、お父さんのことを調べようとしていたのかも。」
「お父さん?」
そう、と言って、明美はテーブルの上で両手を組む。
「明美ちゃんのお父さん。亡くなったのか、離婚したのかは私は知らないし、明美ちゃんが、お母さんから父親のことをどんな風に聞いていたのかも分からないけど。年頃だし、気になって一人で調べようとしていたのかも。」
「お父さんが誰か、ってこと?」
「もしくは、生きているのか、どうか。例えば、お母さんから、父親は亡くなったと聞いていたけど、最近になって疑問が出てきた、とか。」
「考えられなくは・・無いかな。そうすると、明美ちゃんは品川区役所に行く途中で事故にあった、と。」
いいえ、と明美が否定する。
「事故にあったのは、区役所から駅に向かう方向なので、謄本を取った帰り道ですね。」
そう言うと明美は椅子の背もたれに寄りかかる。
「だから、謄本を見た明美ちゃんが、何かにショックを受けて、それが理由で、この世に戻ってきたくないのかも。」
長友も、うーん、と唸りながら、背もたれに寄りかかる。
「そこまでのショックを受けることって、あるのかな?」
「分からないですよ。多感な年頃の女の子ですから。」
そういうものなのかな、と長友は呟く。明美は椅子に深く座ったまま、肩をすくめる。
「まあ、消去法で考えると、明美ちゃんが戻って来たくない理由って、他に考えられないですし。」
長友は、素朴な疑問を思いつき、明美に質問する。
「謄本って、子供でも取れるの?」
「自分と、自分の家族の謄本なんだから、問題ないんじゃないですか?」
そう言うと、明美は横を向いて、ふうっ、と息を吐いて言う。。
「取ってきますか。謄本。」
「品川まで行って?」
うん、と明美は頷く。
「明美ちゃんのプライベートに踏み込みすぎかもしれないけど、明美ちゃんがこの世に戻りたくない理由が分からないと、私も成仏できないし。」
「まあ・・他に当てもないからなあ。」
仕方なさそうに言った長友に、「ええ」と明美は同意すると、手元のトレイ上の紙くずなどを片付け始める。
「じゃあ、家に戻って、保険証を取ってこないと・・。あ、ごめんなさい。長友さんは・・。」
「一緒に行くよ。」
即答した長友の答えに、明美は驚いた表情で顔を上げる。
「え? でも、せっかくのお休みなんだし。ここに来てもらっただけでも申し訳ないのに。」
「いや。ここまで来たら・・。」
気になるから、と長友は言いかけたが、野次馬根性だと思われそうで言葉を止めて、言い換える。
「天気も良いし、付き合うよ。」
明美はちょっと考えた後に、ニヤリと笑う。
「可愛い女子中学生と、お散歩したいですか?」
「いや、そういうわけじゃ・・。」
そうかもしれない、と一瞬思ってしまった長友は、悟られぬように落ち着いて否定する。
「まあ、大人がいた方が、何かと便利だったりしますので。助かります。」
きちんとお礼を言ってきた明美に、長友は曖昧な表情で笑みを返す。
明美の家に寄って保険証を取って来た2人が品川区役所に到着したのは午後1時の少し前だった。思ったよりも広い区役所で、フロア内には手続き待ちの人が大勢いるが、窓口の数も多く、それほど長時間、待たされることは無さそうだ。
長友は入り口近くに空いている待合椅子を見つけると、明美に「ここで待っているよ」と声をかける。窓口近くの椅子は割と込み合っており、ここで待つ方が得策だ。
明美は「分かった」というように軽く頷くと、背筋を伸ばして窓口へと歩いていく。
まるで仕事のできるキャリアウーマンのような歩き方だな、と長友は思いながら椅子に腰を下ろす。そして、軽く欠伸をすると、スマホを取り出してニュースサイトでプロ野球ニュースを見始めた。
割と早く、20分と少々で明美は戻って来た。
「お待たせしました。」
そう言って、戸籍謄本を手にしている明美は険しい表情をしている。長友はスマホをポケットに収めながら「どうだったの?」と聞いてみる。
「それがですね・・。」
明美は言いながら長友の隣に座ると、手にした戸籍謄本を長友に見せながら話す。
「まあ、明美ちゃんの父親はいなかったんですね。籍を入れてなくて、完全なシングルマザーだったようです。」
「そうだったんだ。」
まあ、特に珍しい話でも無いと思いながら、明美が手に持っている謄本を見ると、明らかに違和感のある記載に目が留まる。
一番上の欄には「石野智美」との名前があり、これは明美ちゃんの母親だろう。問題はその下の2つの欄だった。2つの欄にそれぞれ、「明美」との名前が記載されている。
「明美ちゃんが、2人?」
どういうことだろう、と目を凝らした長友は、1つめの「明美」の欄に「死亡」との記載を見つけて、明美に質問する。
「これは、どういうこと?」
言った後で、明美にも分からないかも、と思ったが、明美は険しい顔のまま、説明を始める。
「1つ目の明美ちゃんは、お母さんの本当の子供。ただし、4歳の時に亡くなっています。」
うん、と長友は頷く。確かに死亡日は生まれ年の4年後になっている。
「2つ目の明美ちゃんは、その後に、養子としてもらわれてきた4歳の女の子です。この子はまだ生きていて、これが、私の体の明美ちゃんです。」
うーん、と深く唸ると、長友は息を吐きながら「そういうことか。」と言って椅子に寄りかかる。
「明美ちゃんは、お母さんの本当の子供ではなくて、それがショックで、この世に戻って来たくない、と。」
一件落着したような長友の言いぶりに、明美は謄本を持ったまま、椅子にもたれると軽く目を閉じて首を振る。
「それだけのことで、戻って来たくない、生き返りたくない、なんて、普通は思わないと思います。」
長友はしばらく考えて、「そうだね」と同意するが、妙なことに気づいた。
「亡くなった子が明美って名前で、もらわれてきた養子の子も明美だったの?」
明美は目を開けると、謄本の一部を指で長友に指し示す。
「養子の子は、陽菜子って名前です。養子になったあと、明美ちゃんのお母さんが改姓して、自分の娘と同じ「明美」って名前にしています。」
長友は謄本を凝視した後に、ポツリと呟く。
「・・・なんか、怖い話だね。自分の娘が亡くなって、悲しかったのだろうけど。同い年の子を養子にして、娘と同じ名前を付けるなんて。」
明美は引き続き固い表情のまま、謄本のもう1か所を指し示す。亡くなった明美ちゃんの「死亡時分」という項目だ。「推定午前1時」と記載されている。
夜中に亡くなったことがおかしいのだろうか、と思いながら長友は明美に尋ねる。
「これが、どうかしたの?」
「病死などで医師が立ち会って亡くなった場合は、正確な死亡時刻が謄本に記載されるんですが、事件や事故の場合は、死亡時刻が「推定」となるんです。」
長友は、額に手をやりながら明美に話かける。
「そうすると、石野明美ちゃんは、4歳で事件か事故で亡くなって・・?」
その後の言葉を明美が引き継ぐ。
「母親は、同じ年の陽菜子ちゃんを養子に迎えて、明美って名前にした。」
長友は腕を組んで考え込む。
「で、明美ちゃんは、そのことを知ってショックを受けて・・・戻って来たくない、生き返りたくない、ということ?」
むむむ、というような低い唸り声を上げながら、明美は天井を見上げる。長友は明美を見ながら、疑問を投げかける。
「母親と血が繋がっていなくて、事故か何かで死んだ本当の娘さんの身代わりだった、と分かったとしても・・。そこまでになるかなあ・・。」
うん、と言うと明美は、今度は下を向いて考え込む。
「それに、戸籍謄本を読み解けたから、ここまで分かったけど。中学1年の明美ちゃんだと、自分が養子、ということくらいしか、分からないんじゃない?」
「厳しいですねえ。長友さん。」
「いや、考えを否定するわけじゃあ、ないんだけれども。」
「でも、長友さんの言う通り、そこまでの理由ではないかもしれませんね。」
気落ちして言う明美に、長友は少しフォローを入れる。
「でも、理由の一つではあると思うよ。もうちょっと・・・何か、他にもショックを受けるが理由があったのかもしれないけど。」
「もうちょっと、別の理由か・・。」
明美は首を傾げて考える。
「やっぱりでも、事故の前の日までは普通だったから。原因は、この謄本だと思うんだけど。」
「しかも、何で急に、謄本を調べたくなったんだろう?」
長友の素朴な疑問に、明美は少し疲れたような笑顔を見せる。
「長友さん、色々と鋭いですね。」
「いや。ごめん。答えは思いつかないんだけど。」
いえいえ、と明美は首を振る。
「ディスカッションしながら検討する、ってのは基本ですからね。むしろ、長友さんが話し相手になってくれて助かってます。」
明美なりの気遣いかもしれないが、多少の役には立っているのかもしれない。会話が途切れたこともあり、長友は少し離れた自販機を指で示す。
「何か、飲まない?」
「そうですね。煮詰まって来たし、小休止しましょうか。」
自販機に近づいてみると、紙パックの自販機だった。エコロジー、ということだろうか。長友は少し迷って、野菜ジュースを買い、明美はオレンジジュースを買った。
人のあまりいない場所で、ごみ箱が近かったこともあり、その場で2人はストローを指して飲み始める。一口飲んだところで明美は、ふうっと息をつき、区役所の中を見渡しながら呟いた。
「大人ばっかりですね。」
長友は怪訝な顔をしながら、うん、と相槌を打つ。番号札を持って待っている人は老人や子連れの主婦、ラフな格好のおじさん、といった具合だ。
「明美ちゃん、こんな中で戸籍謄本を取ったんだ。」
明美の呟きで長友も気づく。
「確かに・・。中学1年の女の子なら、ちょっと場違いで、気後れしそうだね。」
うん、と明美は同意する。
「それでも、謄本が欲しかったんだ。」
言われてみれば、そのとおりだ。そこまでして調べたい理由があったのだろう。明美はジュースを飲み干すとパックをゴミ箱に捨てて、無言のままベンチに戻る。
「何か、もうちょっとヒントは無いのかな。」
そう言うと明美はトートバッグに入れた封筒から戸籍謄本を取り出すと、もう一度、読み返し始める。まだヨーグルト飲料を飲んでいてる長友は、ゆっくりと飲み物を飲みながら、出入口の近くに行き、外の日差しを眺める。
長友が飲み終わった頃に、明美が不意に声を出した。
「・・・あれ?」
明美は眉をひそめて謄本を見ながら不思議そうな声を出す。
「おかしいな、これ。」
長友は飲み物のパックを捨てると、明美の隣に腰を下ろす。
「どうしたの?」
「これなんですけど・・本当の明美ちゃんが亡くなった1週間ちょっとで、陽菜子ちゃんが養子縁組して籍に入っているんですね。」
相変わらず、何がおかしいのか分からない長友は「うん。」とだけ言って、明美の解説を待つ。明美は顔をしかめたまま、長友の方を向いて言う。
「早くないですか?」
明美の言葉の意味が分からない長友は素直に聞き返す。
「・・・何が?」
明美は少し声を潜めて、長友に顔を近づけて謄本を見せてくる。
「だって、こんな短期間で陽菜子ちゃんを養子にしているってことは・・、明美ちゃんが亡くなって、すぐに自分の娘の代わりを探したってこと?」
え? と長友は言って、謄本を覗きこむ。確かに、陽菜子ちゃんが養子になった日付は、明美ちゃんの死亡日の10日後くらいだ。
「本当だ・・。そうすると、明美ちゃんのお葬式が終わったくらいで、すぐに養子にしたってこと?」
「と、言うより、お葬式の手配をしながら、養子を探して、手続きしていた。ってことになる、と思う。」
明美の見解に長友は口元に手を当て、少し気味悪さを感じながら言う。
「娘の明美ちゃんが死んで、すぐに次の子を見つけて、明美って名前を付けたってことか。」
「そう言うと、怖いですね。確かに、母子家庭で娘の成長が生きがいってのも、よくある話ではあるけど。」
長友は考えながら少し反論する。
「でも、違う子でしょう?」
明美は少し虚を突かれた感じで、ボソリと言う。
「違う子・・まあ、それが私だけど。」
あ、と思って長友は黙るが、黙ったついでに、嫌なことを思いついてしまう。タクシー運転手をしながらラジオを聞いたり、客待ちで週刊誌などを読んでいると、ついつい色々な事件の経緯や解説を見聞きすることが多い。そのせいの邪推かもしれないが、何かの事件で、子供が言うことを聞かないから殺して、自分の言うことを素直に聞く、別の子を探そうとしていた事件があった。
そのことを直接的には明美に言えないが、遠回しに明美に言ってみる。
「明美ちゃんが死んだ事故や事件って、何だったんだろうね?」
明美は床に目をやって、少し考えてから長友の顔を見る。
「・・気になりますね。調べてみましょうか。何か、明美ちゃんが気づいたことが分かるかもしれない。」
長友は、うん、と頷くと明美に提案する。
「図書館に行って、明美ちゃんの死亡日の新聞とかを調べれば、何か記事があるかもしれない。事件や事故なら、出ているはずでしょ?」
長友のアイデアに明美は同意する。
「よし。じゃあ、図書館に行きましょう。」
―数時間後の午後4時ちょうど。明美と長友は深川警察署の2階の取調室にいた。
結局、図書館に行って当時の新聞を何紙か見たが、石野明美ちゃんに関する記事は見当たらず、関東圏の地方版の前後1週間まで調べても見当たらず、疲れ切った2人が深川警察署の岩永刑事に電話で相談したところ、警察のデータベースには事件が記録されていたらしく、電話した10分後には岩永刑事から「資料を見せてやるから来い」と言われて、品川の図書館からタクシーで移動して深川警察署に到着し、今に至る。
ノックの音がして、紙の束を持った岩永刑事と、前にコーヒーを運んでくれたショートヘアの婦警さんが、今回もまたお盆にコーヒーを乗せて入ってくる。
「相変わらず、インスタントで申し訳ないがな。」
婦警さんがコーヒーを置いているタイミングで、明美が手に持った紙袋から洋菓子を取り出す。
「よろしければ、これ、どうぞ。」
婦警さんは、あら、と喜んだが、すぐに岩永刑事を横目で見ながら申し訳なさそうに言う。
「・・ごめんなさい。こういうものは受け取れない決まりなの。」
岩永刑事も後に続いて言う。
「収賄になるとかでな。色々と厳しいんだよ。」
そう言いながら、岩永は明美の手に持った洋菓子を見つめる。
「・・まあ、すぐに証拠隠滅すれば問題ないか。」
そう言うと、洋菓子を1つ取り、婦警に渡す。
「あと、小山にも持って行ってくれ。」
合計2つの洋菓子を婦警に渡すと、婦警は満面の笑みで「ありがとうね」と明美に手を振って退室する。お辞儀をしながら婦警さんを見送った明美は、少し不満げに「完全に子ども扱いですね。」と言う。
岩永は、そんなことよりも、という感じで明美に話しかける。
「驚いたよ、それにしても。大体、昨日『さようなら。成仏します。』って言っておいて、24時間もしないうちに『こんにちは。』って電話してくるってさあ。」
長友は岩永の言い分を聞きながら、まあ、そうだよな、と納得する。自分も、今朝は驚いたものだ。
「まあ、だからお菓子を持ってきたわけで。」
明美は、さらりと流そうとする。
「まったく。成仏するする詐欺、ってわけじゃないだろうな。」
不謹慎な冗談を言いながら岩永は洋菓子の包装ビニールを開封しようとするが、手を止める。
「そうだ。先に話をしないとな。電話で軽く聞いたが、色々と込み入った話みたいだな。」
そうなんです、と言って、明美はバッグから品川区役所の封筒を取り出すと、戸籍謄本を開いて岩永に見せる。職業柄、戸籍謄本を見慣れているのか、岩永は明美の説明を話半分に聞きながら謄本に目を通している。
「なるほどな。電話の説明だと、よく分からなかったが。本物の石野明美ちゃんは死んでいて、彼女の死因を調べていた、と。」
「そうなんです。」
「で? なんで、あんたがいるんだ? 未成年とデートかい?」
コーヒーを飲みながら岩永はぶしつけに長友に質問する。むっとして答えようとした長友だが、言われてみれば、なぜ自分が明美と一緒にいるのか、うまい説明が頭に浮かばず、開き直って答える。
「ええ。デートです。」
岩永は一瞬、目を大きくして驚いたが、すぐに鼻で笑うと、長友と明美の前に新聞記事のコピーを置く。
「まあ、これじゃあ、図書館で調べても出てこないわな。」
残念だったな、と言いたげな岩永の言葉を聞きながら、長友と明美は新聞記事を読み始める。
「自宅が全焼。母娘が行方不明。」との小さな記事だった。
「12月15日未明、江戸川区XXで、木造の一戸建て住宅が全焼。この家に住んでいた川本陽子さん(24)と長女の陽菜子ちゃん(4)が行方不明。警察と消防で火事の原因を調べている。」
すぐに読み終えた明美と長友は顔を見合わせる。2人が岩永に質問しようとする前に、岩永が話し出す。
「その火事。2人暮らしの母娘の家での火災で、焼け跡から成人女性と、女の子の遺体が見つかっていた。当初、遺体は住人の母娘だと思われていた。」
岩永は、真剣な顔で聞いている明美と長友から目を逸らして、話を続ける。
「火事の捜査は警察と消防の両方で行うんだが、情報連携がうまく行かないことも、たまにあってな。色々と調べてみたら、娘の陽菜子ちゃんは近所の人に助けられていて、火事で亡くなったのは、住民の川本陽子さんと、陽菜子ちゃんの友達の石野明美ちゃん4歳であることが次の日くらいに分かっている。」
そう言うと、岩永は印刷してきた昔の捜査資料らしき書類を何枚かめくる。
「当日は、川本さんの家に、陽菜子ちゃんと同じ保育園の石野明美ちゃんが、お泊まりに来ていたらしい。それで、川本さん母娘と、明美ちゃんの3人が寝ていた夜中に火災が発生。川本さんの娘の陽菜子ちゃんは、2階の子供部屋から近所の住民に助け出された。ただ、母親の川本さんと泊まりに来ていた明美ちゃんは、残念ながら、その火事で亡くなっている。」
明美が岩永に確認するように言う。
「明美ちゃんの戸籍上の死亡日時が、12月15日、推定午前1時となっているのは、それが理由ですね。」
岩永は「そのとおり」と言うと、戸籍謄本を明美と長友のほうに向ける。
「医者が死亡判定する以外は、推定、となるからな。」
明美は、謄本に目を落としながら、独り言のように言う。
「で、明美ちゃんのお母さんは、火事で生き残った、川本陽菜子ちゃんを養子に迎えた。」
「娘を亡くした母親と、母親を亡くした娘との養子縁組だな。子供が友達同士だったこともあって引き取ったんだろう。」
岩永が納得したように言った後で、長友が岩永に質問する。
「あの、養子にした子供を、自分の亡くなった子供と同じ名前にすることって、一般的なんですか?」
岩永は難しそうな顔をする。
「自分の子供のように育てる、ってのは普通だが。名前まで変えて同一視する、ってことは、あまり聞いたことがないな。」
岩永はコーヒーカップを持ち上げると、薬でも飲むようにクイッとコーヒーを飲む。
「ただ、名前を変えるのも家庭裁判所の許可が必要なんだが。よく、許可が下りたな。」
明美はしばらく謄本と新聞記事を見ていたが、「助かりました。ありがとうございます。」と岩永にお礼を言う。
岩永が頷くと「役に立てたかい?」と明美に尋ねる。岩永の優しい態度に少し戸惑いながら、明美は「ええ。」と答える。
「なんとなくですけど、明美ちゃんが、この世に戻ってきたくない理由も、分かったような気がします。」
岩永は、興味深そうに明美に聞いてくる。
「良かったら、理由を教えてもらえるかい?」
岩永刑事の仕事の邪魔だろうから、と帰り支度を始めようとした明美は意外そうに岩永に尋ねる。
「はい。でも、あの、いきなりお邪魔してしまったし。お時間とか大丈夫ですか?」
大丈夫だよ、と岩永は事も無げに言う。そうですか、と言って、明美は冷めたコーヒーで喉を潤すと、岩永と長友を見ながら話を始める。
「たぶんですけど。明美ちゃん。と言うよりも、川本陽菜子ちゃんは、明美ちゃんのお母さんに育てられているうちに、自分が石野明美で、お母さんは本当の母親だ、と思い込んでしまって。そのまま、今まで暮らしていたのだと思います。」
長友が意外そうな顔をして、明美と岩永に話しかける。
「そんなこと、あり得ますか? それって、川本陽菜子ちゃんが、本当の母親のことを忘れてしまった、ってことでしょう?」
岩永は難しい顔をして腕組みをする。
「あり得なくは、ない。子供は、自分が死にかけたくらいの怖いことは、脳の防衛本能的に忘却することがよくある。火事の記憶を封じて、一緒に、母親が死んだことも封じたのかもしれない。」
「でも・・。」
少し納得が行かない様子で長友は岩永に質問しようとするが、岩永は話を続ける。
「実際に、目の前で父親を亡くした子供から事情聴取をしたことがあるが、その子は、父親は自分が生まれる前に死んだ、という周りの大人の話を完全に信じ込んでいた。目の前で、父親が事故にあったことを見ていたのに、だ。脳の防衛本能で、自分の記憶を無意識に改ざんすることも、無くはない。」
そうなのか、と納得したような長友を見て、明美は話を進める。
「自分を石野明美と思い込んでいた陽菜子ちゃんでしたが、何かの拍子で疑問を感じたのか、昔のことを少し思い出したのか、自分の出生を調べようと戸籍謄本を取りに行った。そして、戸籍謄本で自分の本当の母親の名前などを見つけて、火事のことや母親のことを、全部、思い出したんじゃないでしょうか。」
明美はそこで言葉を止め、長友や岩永の様子を見る。特に異論や意見はなさそうで、明美は自分の推論の続きを話す。
「自分が川本陽菜子であること、本当の母親は亡くなっていること。そして、自分の友達の母親に、その母親の娘として育てられていたこと。名前まで変えられて、ね。」
岩永も長友も無言のまま、聞いている。明美は淡々と自分が考えている結論を話す。
「母親だと思っていた人は母親ではなく。その人には、亡くなった娘の代わりとして育てられていた。色々とショックを受けて、陽菜子ちゃんは、この世に戻りたくなくなった。」
明美はそこで話を止めて、2人に尋ねる。
「想像ですけど、どう思います?」
意見を求められた岩永と長友は考え込み、長友がおずおずと口火を切る。
「そうすると、陽菜子ちゃんは、この世に戻ろうとしても戻る場所が無い、って考えたのかもしれない。」
岩永も長友の意見に同意しながら、苦い顔で言う。
「話の筋は通っているし、それが本命じゃないかな。」
明美が、自問自答するようにポツリと言う。
「そうすると。どうやったら、陽菜子ちゃんに「この世に戻りたい」と思ってもらえるんでしょう?」
3人とも、少し目を伏せながら考え込み、やがて、人生経験が一番豊富な岩永が答えの案を出す。
「まあ、母親と話す、というのが一番じゃないかな。腹を割って話す、というか。」
岩永の答えに、明美は困ったような表情を浮かべる。
「まあ、霊媒師さんに頼めば、お母さんと、私の中の陽菜子ちゃんが会話することは可能らしいのですけど。」
「じゃあ、それでいいんじゃないかな。直接、話してもらおう。」
結論が出た、と思った岩永だが、明美は困惑した顔のままだ。
「でも、それって・・。お母さんと一緒に霊媒師さんのところに行くには、お母さんに事情を説明する必要がありますよね・・。要は、私が乗り移っていることを説明して、信用してもらう、と。」
明美は机の上に肘をつき、文字通りに頭を抱えるが、長友が身を乗り出して、明美に申し出る。
「俺が、証人になろうか? この人は、山下明美さんです、乗り移っているんです、って。」
明美は驚いて、慌てたように「無理、無理」と言う。
「いきなり知らない人が現れて、そんなことを言ったら。自分の娘が騙されている、とかになって、それこそ、警察を呼ばれるかもしれませんよ。」
長友はとっさに切り返す。
「そしたら、岩永さんに証人になってもらえば? 刑事さんの言うことなら、信用するでしょう?」
岩永と明美は、ポカンと口を開けて長友を見る。長友も言った後で、さすがに無理だったか、と思い、首をすくめる。
ただ、岩永は難しい顔をしたあと、苦渋の決断、という感じで声を絞り出す。
「警察官、という身分が必要だったら。所属や名前を明かさないで、警察章だけ見せて、匿名で話をするのは可能だが。」
意外な申し出に明美と長友はびっくりして岩永を見る。
「岩永さん。何で、そんなに親切にしてくれるんです?」
驚き終わった明美が、不審そうに岩永に質問すると、岩永は頭を掻きながら答える。
「昨日さ、上野公園の、だいちゃんの話をしたじゃないか。その時に、英二が脱税用に、だいちゃんの口座を使っているんじゃないか、って明美君が言ってくれたろう? 言われた後で気になって調べてみたんだが、明美君の言ったことは、おそらく正解だった。」
急に話が飛んで明美は小首を傾げるが、「ああ、あのことか」と思い出す。その表情を確認した後に、岩永は続きを話す。
「だいちゃんの住んでいたアパートなんだが、まだ、だいちゃんの表札が出ていて、誰かがいまだに家賃を払っているらしい。おそらく、英二が、だいちゃんの銀行口座を生かしておくために偽装しているんだろう。今、税務署に連絡して、詳しく調べてもらっているが、手ごたえアリって感じだな。」
「その件の、お礼、ってことですか?」
明美が意外そうに言うと、岩永は、当然だ、という表情をする。
「俺は仕事上で受けた恩は必ず返す。例え相手が幽霊だろうと、だ。」
長友が感心したような目を岩永に向けると、岩永は得意そうにニヤリと笑う。明美はそれでもまだ、信じられないような顔をしている。
「本当に、岩永さんが、明美ちゃんのお母さんの説得に協力してくれるんですか?」
「ああ。ただ、俺が説明しても結局、お母さんが納得しない可能性もある。結果は保証できないが、説明だけはするよ。」
「岩永さん。本当に、ありがとうございます。」
明美が深々と頭を下げる。
「礼を言うのはこちらだよ。英二の野郎は、前も話したが、そこら中の警察や税務署の現場担当から嫌われているからな。ゴキブリ駆除に成功したら、俺の名も上がるってもんだ。」
岩永はそう言うと、ふと考える。
「ただ、明日から、その英二の件で少し忙しくなるんだが、お母さんと話せる時間は、いつが良いんだ?」
「えーと。お母さんは平日の9時から午後6時までがパートで、土日はお休みです。あとは、岩永さんのご都合の良いところで。」
「夜は、何時くらいに帰ってくるんだ?」
「夜は・・6時半から、買い物があっても7時には帰ってきています。」
そうしたら、と岩永は言って考える。
「今日の夜でもいいか?」
明美は目を丸くして「ええ。もちろん。」と、ほぼ反射的に答える。岩永はちょっと申し訳なさそうな顔をする。
「すまんな。明日から、英二の捜査に本腰を入れたいんだ。できれば、今日に片付けておきたい。」
「まったく構いません。ありがとうございます。」
長友が少し慌てたように口を挟む。
「そうしたら、俺も行って、説明するよ。警察じゃないから、役に立つのかは分からないけど。」
ん? との感じで明美と岩永は長友を見る。
「・・まあ、証人が多い方がいいのは、間違いはないな。」
岩永がそう言うと、明美は長友にも頭を下げる。
「すみません。では、お願いします。」
「場所は、明美君の家でいいのかな? ファミレスとかでも構わんが、お母さんがパニックになって、騒動になることを考えると・・。」
「ウチで構いません。」
明美は二つ返事で快諾し、岩永と明美は、明美の自宅の場所を確認する。
「そうしたら、今、5時半だから、ちょっと片づけをしてから、捜査車両で一緒に明美君の家に行くことでいいかな? 長友君は、帰りはどこかの駅で下ろすよ。」
長友も明美も岩永の提案に異論はない。じゃあ、と言って、岩永が部屋から出ていき、明美と長友はしばらく取調室で待つことになった。
「うまく、お母さんに説明できるかな?」
明美は長友に笑いかける。
「実際にあったことを、そのまま話してもらえれば大丈夫ですよ。」
明美が割と余裕ありそうで、長友は安堵した。が、次に「お母さんは、話を信じてくれるかな?」との疑問が出てきた。明美に聞こうかと思ったが、明美が答えを持っているわけもなく、不毛な質問だと思って飲み込んだ。
自分の娘が幽霊に乗り移られている、と言う話を娘から聞かされて、警察官とタクシー運転手が「その通りだ」と言う。一体、どのくらいの母親がこの話を受け入れてくれるのだろうか。
ある程度は、俺の説明にもかかっているんだよな、と思い、長友は頭の整理を始めた。明美も、どうやって説明しようか考えている様子で、2人とも無言のままの時間を過ごしていると、やがて岩永が部屋をノックし「行こうか」と2人に声をかけた。
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