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第6章
午後6時過ぎ。明美と長友は岩永刑事が運転する覆面パトカーで、明美の自宅に到着した。明美が教えてくれた近くのコインパーキングに車両を停めると、明美の自宅である3階建てのアパートに向かう。
周囲には昔からの住宅と、似たようなアパートが並んでおり、どのアパートにも自転車がたくさん置いてある。最寄駅まで徒歩で15分程度の立地であり、住民の足はもっぱら自転車であるようだ。
3階建てのアパートの2階に階段で上がると、角から2つ目の部屋が明美の家だった。築10年から15年といったところか。長友の社員寮よりは、まだ新しく小綺麗な感じがする。
明美がカギを開けて、2人を招き入れる。狭い玄関で靴を脱ぐと、明美がスリッパを用意してくれて、「お邪魔します」と声をかけながら、岩永と長友は家に上がる。
「お母さんは、まだ帰っていないですね。」
ダイニングキッチンの電気を点けながら明美が言う。食卓の椅子に座るよう、明美に勧められて岩永と長友は食卓の下座側に座る。明美がヤカンに水を入れながら2人に話しかける。
「この家、コーヒーは置いていないんです。なので、日本茶でいいですか?」
お構いなく、と儀礼的に言いつつ、長友は部屋の中を少し観察する。間取りは2DKらしく、キッチンから別の部屋に続く引き戸が2つある。1つは母親の部屋で、もう1つは明美の部屋であろう。キッチンは整然と片付けられているが、調味料や調理器具が普通の家庭よりも明らかに多く並んでいる。
「お母さんは、何のお仕事をされているんです?」
岩永が、コンロでお湯を沸かしている明美に尋ねる。
「お惣菜や仕出し弁当を作っている会社さんで、パートで働いています。お惣菜を、スーパーとかに卸している感じですね。お母さんは料理がとても上手で、正直、それなりの飲食店で料理人になれる腕前だと思うんですけど。」
明美は勿体なさそうに言うと、戸棚から急須とお茶の葉を取り出す。
「ただ、お母さんは、人と付き合うのが苦手みたいで。近所の人とも、まったく話さないし、挨拶もほとんどしなくて、他人を避けているような感じだから・・。お惣菜の工場みたいなところで、1人で働いているのが楽なのかもしれませんね。」
「じゃあ、俺とかが、あまり話しかけないほうがいいか?」
岩永は小さな食卓の椅子で、座りにくそうに体を動かしながら明美に聞く。
「いえ。世間話とかが苦手なだけで、必要な話は・・大丈夫と思うんですけど。とりあえず、車の中で決めた段取りどおりに、話していきましょう。」
岩永は「分かった」と言い、少し緊張してきた長友も、了解した、というように首を縦に振る。
しばらく3人は黙ったままで、明美が湯飲みにお茶を注ぎ始めたときに、アパートの外の駐輪場に自転車が止まる音がした。
「お母さんの自転車です。帰って来ました。」
明美は岩永と長友にお茶を差し出すと、玄関に母親を迎えに行った。
突然の来客、しかも、来客の1人は警察官ということで、当然ながらに明美の母親は驚いたが、明美が何かしたわけではない、と岩永が説明すると、不審そうな顔をしながらも比較的、冷静な様子で食卓の椅子に着席した。
明美の母親は、少し瘦せ型で、化粧っ気のまったくない女性だった。疲れたような様子で椅子に座り、岩永や長友から目を逸らしている。精神的に少々病んでいるか、もしくは過去にそういった病気があったのかもしれない。岩永は刑事として、長友はタクシー運転手として様々な人を見てきた経験からそう感じた。
「お仕事帰りに、しかも突然に申し訳ありません。」
まずは丁重な挨拶をした岩永だが、穏やかな口調と笑顔のまま、母親に向かって質問をする。
「最近、お嬢さんの様子に、変わった点などはありませんでしたか?」
母親の智美は無表情で、無言のまま、ゆっくりと首を横に振る。
そうですか、と言った岩永は少し間を置くと、天気の話でもするような口ぶりで母親に言った。
「実は、こちらのお嬢さんは、あなたが知っているお嬢さんでは無いんです。」
いきなり核心を突き、岩永と長友は母親の反応を伺う。母親は何も言わず、引き続き無言のまま、湯気が上がるお茶を見ている。沈黙とお茶の香りがしばらく立ち込め、岩永と長友が「聞こえなかったのか?」と思い始めた頃、母親はようやっと口を開いた。
「どういうことでしょうか?」
母親の反応に戸惑いつつも岩永が明美に目配せをすると、明美は軽く咳払いをして、落ち着いた様子で、明美ちゃんに乗り移ったことの経緯を話し始めた。
会社の打ち合わせで何かを報告するように明美は淡々と事実を語り、その後で、長友と岩永が、明美の話が事実であることを各々の経験話をして補足していく。明美の母親は特に口を挟むこともなく、無表情、無反応のまま、時折、お茶を口に運んでいる。母親が何を考えているのかまったく分からず、自分たちの話がまったく信用されていないのではないかと長友は不安になった。
一通り、3人が話し終え、3人とも明美の母親の言葉を待つ。が、明美の母親はそんな雰囲気が読めないのか、相変わらず黙ったままだ。
岩永が少し困ったように母親に話しかける。
「お母さん。あの、何か、分からないところなどはありますか?」
明美の母親は小さく首を振ると、細い声で、ささやくように言う。
「・・・なんとなく、分かっていたんですよね・・。」
「と、言うと?」
母親が言葉を発したことに安堵しながら、岩永が言葉の続きを促す。明美の母親は、小さなため息をついて、ボソボソと話す。
「事故の後から、明美は、好きなテレビ番組を見なくなったり、洗濯の仕方が変わったりして。お医者さんからは、軽い記憶障害があるかもと聞いていたから、それだろうと思っていたんですけど。」
母親は明美を見ながら言う。
「ただ、お箸の持ち方がおかしかったのが、正しく直っていたり。記憶障害とは番うようなこともあって。」
母親は母親なりに、薄々と何かを感じていたようだ。明美は少し顔を伏せ、参ったな、という表情をして母親に話しかける。
「色々と、お気づきだったんですね。」
「そりゃあ、母親だもの。」
そう言うと、明美の母親はお茶を飲み、より一層、気落ちしたような声を出す。
「それでも、幽霊が乗り移ったなんて話は信じがたいですけど。皆さんがそう言うなら、実際、そうなんでしょうね。」
母親がそれなりに納得してくれたようで、岩永は次の話を切り出す。
「で、話の続きがあるのですが。乗り移った山下明美さんを外に出して、元の明美ちゃんを戻す方法があるのですけど、それにはお母さんの協力が必要なんです。」
無表情だった明美の母親が、怪訝な表情をする。
「どういうことでしょうか?」
岩永は明美に話を始めるように目を向け、明美は、今度は霊媒師のところに行ったこと、明美ちゃんが協力してくれなかったことを話していく。明美の母親は先ほどとは異なり、明美の話を軽く頷きながら聞いている。
明美の話が終わると、明美の母親は岩永に向かって質問をする。
「霊媒師って、大丈夫なんですか? 何か、明美に害があるようなことって、無いんですか?」
岩永は、俺に聞かれても困るんだが、といった顔をする。
「・・まあ、あの。手術とかをするわけではないですし。お祓いみたいなものなので、大丈夫だと思います。」
そうですか、と明美の母親は少し安心したようだ。
「それにしても、明美が戸籍謄本を取りに行っていたと知って、驚きました。」
明美の母親は、ポツポツとだが話し出す。
「明美君は、お母さんに内緒で謄本を?」
岩永の問いに、ええ、と明美の母親は答える。
「明美が養子であることは、いつか話そうとは思っていたんですけど。ただ、早くても明美が高校生になってからと考えていまして。」
岩永は母親の話に相槌を打つ。
「そうですね。中学生だと、まだ早い気はしますね。」
「ただ、明美は中学生になってから、目鼻立ちがはっきりしてきて。周りの人から「お母さんに似てないね」なんて言われるようになってきて。」
母親は悔やむように言いながら、お茶を飲む。
「もしかしたら、それで気になって、調べに行ったのかもしれません。良くも悪くも、カンが鋭くて、行動力のある子だったから。」
軽くため息をついて、明美の母親は再び岩永に質問する。
「明美は、自分が養子だから、戻って来たくないということなんですか?」
岩永は、またも困ったような顔をするが、すぐに真顔に戻って答える。
「それは我々の想像で、本当の理由は違うかもしれません。なので、お母さんから明美君に、戻りたくない理由を聞いてもらって、戻ってくるように説得してもらいたい、ということになります。」
母親はうつむいて考えていたが、そのままの姿勢で細い声を出す。
「・・分かりました。明美と話してみます。」
明美と岩永と長友、3人の間で、ほっとしたような空気が流れる。
「そうしたら、いつ行きましょうか。」
母親の気が変わらないうちに、と岩永は周りを固めだす。すぐに明美が小声で「霊媒の方に電話します」と言って、自分の部屋らしき隣の部屋に入っていく。
少し間を持たせようと、岩永が母親に話しかける。
「すみませんね。夕食の時間帯に長々と。」
「いえ・・。」
それっきり、母親は黙り込む。そういえば明美が「必要なことだけ話す人」と言っていたな、と岩永は思い出す。雑談には応じないタイプのようだ、と思い、岩永も黙ったまま明美を待つ。
明美が戻って来て、母親に声をかける。
「明日の午前中なら、いつでも大丈夫とのことなんですけど。」
「午前中だけなら、なんとか休めるから。」
母親の答えに頷くと、明美は電話を持って後ろを向き、やがて電話を切る。
「明日の9時半に伺うことでお願いします。場所は有明です。」
母親はゆっくりと頷くと、岩永に問いかける。
「明日は、岩永さんも、霊媒師さんのところに来てくださるのですよね?」
岩永は、え? というような表情をするが、すぐに何かを思いついたようで長友の方を見る。
「私は、明日は別件の捜査があるので・・。長友さんは、どうですか?」
急に話を振られた長友は戸惑いながら答える。
「私は・・、明日は仕事ですが。あの、タクシーの運転手をやっているので、こちらにお迎えに来て、私のタクシーで送迎することは可能です。」
そうですか、と母親は言うが、岩永が来ないと知って残念そうだ。有事に備えて、警察官である岩永に立ち会ってもらいたかったのだろう、と長友は察した。
ただ、岩永は何とかフォローをする。
「長友さんも、頼りになる人ですから。明日は、じゃあ、何時に迎えに来てもらおうか。」
「ここから有明なら・・、8時40分とかでどうでしょう?」
分かりました、と母親は言い、明美も了承する。
じゃあ、あまり長居しても、と岩永は話を終わらせにかかる。明美が「ありがとうございます」と岩永と長友に挨拶をするが、母親は無言のまま、座っている。
何となく、ぎこちない雰囲気のまま、岩永と長友は玄関に向かい、明美と母親が見送りに2人の後に続く。最後に「お邪魔しました」と挨拶を交わしたが、やはり母親は無言のまま、顔をやや下に向けただけだった。
アパートのドアが閉まると、岩永と長友は、無事に目的が果たせたことに安堵しながら、車両を停めたコインパーキングに向かう。アパートの敷地を出たところで、岩永がネクタイを緩める。
「母親は、変わった人だったな。」
確かに、と長友も思いながら「人が苦手なんでしょうね。」と相槌を打つ。
「それにしても、挨拶すらせず、目もあまり合わせてこないのは・・やりにくいな。」
「お疲れさまでした。」と長友は本心から岩永に声をかける。コインパーキングが見えてきて、岩永が小銭入れを取り出す。
「出しましょうか?」
長友の申し出に、岩永は笑いながら首を振る。
「いや、経費で落とすから大丈夫だ。誰かさんのおかげで、最近、お手柄が続いているから経理処理が助かるよ。」
少し皮肉めいた言い方に長友も笑う。外見と異なり、割と話しやすい人だな、と思った。
岩永が精算機に小銭を投入しながら、寂しそうに言う。
「これで、明日には明美君が元に戻って、終わりか。」
長友は車両の助手席側で立ち止まる。
「そうですね・・・。まあ、面白い人でしたね。山下明美さん。」
精算を終えた岩永がリモコンキーで車両のドアを解錠すると、安っぽい音がしてドアロックが解除される。
「まあ、生きているうちに会いたかったがな。」
同感だ、と思いつつ、長友は助手席のドアを開けて乗り込む。岩永も運転席に乗り込み、エンジンをかけようとしたところで手を止めて、長友に声をかける。
「そのうちに、送別会でもどうだ?」
え? と長友は岩永の顔を見る。
「いや、山下さんの送別会だよ。本人はいないけどな。まあ、奇妙な体験をしたもの同士、ってことよ。」
思いがけない岩永の提案に、長友は軽く笑い声を出す。
「いいですよ、行きましょう。」
よし、と岩永も軽く笑いながらエンジンをかける。
ゆっくりと発進する車のシートにもたれながら、長友は、確かに奇妙な体験だな、と思った。幽霊と知り合い、刑事と飲みに行くなんて、なかなかできないものだろう。
そんなことを思いながら、長友は目の前の都道の夜景を眺めた。
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