第7章

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第7章

翌朝、朝8時半に長友は、明美の自宅アパート前にタクシーを停車させた。到着したことを明美にメールで連絡して、車を降りる。 相変わらず快晴の良い天気で、近くのアパートから食器を洗う音や、子供の笑い声が聞こえる。心地よい生活音を聞きながら待っていると、ほどなく、明美と母親がアパートの階段を降りてきた。 明美はいつもどおりの細身のデニムパンツにブラウス、薄手のパーカーとの格好だ。この子の、お気に入りのファッションだったのだろう。母親の方は、ロングスカートに長袖シャツと、昨日の夕方に見たような、少し野暮ったい普段着だ。外出を好むような性格ではないので、いわゆる「外出用の服」というのは持っていないのかもしれない。 おはようございます、と挨拶をして、長友は後部座席のドアを開ける。母親は、長友の挨拶が聞こえなかったかのように、相変わらずの無表情と無言で、タクシーに乗り込む。後に続く明美は、長友に向かって微笑むと、軽く会釈をしてから乗り込む。 2人が着席したことを確認すると、長友はゆっくりとドアを閉め、運転席に着席して、行き先を確認する。 「場所は、有明パレスタワーで、よろしかったですよね?」 はい、との明美の返事を聞いて、長友はタクシーを発進させる。 「有明パレスタワー?」と、明美の母親が、明美に尋ねている。 「ええ。霊媒師の方が、そのタワーマンションに住んでいて。」 「何でそんなところに?」と、母親が小声で明美に聞く。長友もそれは知りたかった。 「高いところの方が、霊媒とかしやすいとかで。あと、割と有名な人で、儲かっているんだと思います。」 母娘、というより、山下明美と、石野明美の母親との雰囲気で会話が進んでいる。 「そういえば、お金は大丈夫なの? 料金とか。」 「お金は・・もう払っています。山下明美が、結構、貯金していたので。奮発したから、色々と融通が利いて。本当は、あんまり予約が取れないんですけど。」 霊媒師も予約制なのか、と長友は運転しながら思った。除霊とか、そんなに頻繁に行うものなのだろうか。 長友の疑問に気づいたように、明美が補足して話す。 「本業は祈祷師さんで、地鎮祭とかを行うことがメインらしいです。」 長友はそれで合点が行った。有名な神社などのお祓いは予約制で、結構先まで埋まっていると聞く。それに、大きなオフィスビルやマンションの地鎮祭では、数百万か、その1桁上のお礼金が必要になるとも聞いたことがある。 どうりでタワマンに住めるわけだ、と納得したが、タワマンで除霊とは、さすがに21世紀だな、とも思った。 妙なことを考えながら運転を続け、30分ほどで目的地に到着する。有明パレスタワーは、タワマンが多いこの地域でも、上位クラスだと聞いている。 ゆっくりと敷地内に入ると、エントランス付近にはすでに黒塗りのセンチュリーやクラウンなどのお迎え車両が数台、停車している。文字通り、これで重役が重役出勤するのであろう。 少し引け目を感じながら、長友は緑色のタクシーをエントランスに停めると、車を降り、タクシーの後部ドアを手動で開ける。明美が降りてきて、母親も降りようとしたところで、母親が長友に怪訝な顔で尋ねる。 「車は、ここに停めておいて大丈夫なんですか?」 「正面は、よくないですけど。この近くで、見えるように停まって待っていますので。」 母親は、妙な顔をして長友を見る。 「あなたも、一緒に来てくれるんですよね?」 長友は明らかに狼狽して、明美を見る。タクシーで送迎するだけではなく、霊媒師のところまで行くような話だったのか?  ただ、明美も目を丸くしているため、おそらくは明美も送迎だけのつもりだったのだろう。しかし、すぐに明美は母親に笑顔を見せると「すみません。車を停めるところ、聞いてみます。」と言ってスマホで電話をかけ始める。 「・・・そこの、来客用のスペースに駐車して大丈夫だそうです。あと、長友さんも来ていただくことで。」 おそらくは霊媒師に電話していた明美が、エントランスの隅を指しながら、長友に声をかける。よく見ると、植木の合間に5台ほどの駐車スペースがあり、銀色のアウディが1台停まっている。 「分かりました。」と長友は答えたが、本当は「俺も行っていいのか。」と明美に聞きたかった。ただ、母親の前でごちゃごちゃ言って、母親の気が変わったら大変だと明美も思ったのだろう。「何も言わないで」との無言の威圧感を明美から感じ取り、長友は素直に車だけを移動し、小走りでエントランスの明美たちに合流する。 「では、行きましょうか。」 なにごとも無かったように明美が声を出し、3人はホテルのようなロビーに向かった。 深川警察署の2階。生活安全課の自分のデスクで、岩永は机の上の整理をしていた。数日間、色々なことに首を突っ込んでいたおかげで、まだチェックしていない部下の報告書や回覧が結構、溜まっている。仕事の優先順位ごとに書類の仕分けをして、ほぼ終わりかけた時に、引き出しの中から書類の束が出てきた。 なんだったろうか、と少し目を通して思い出す。昨日に長友と明美に話した、石野明美、もとい川本陽菜子が幼少期に火事にあった際の捜査資料だ。 それにしても、随分と分厚い資料だな、と岩永は改めて思った。何気なく紙をめくっていくと、資料の後半はほとんど白紙だった。捜査資料をPDFファイルにするときに失敗したのかもしれない。そう思ったところで、最後の方に文字のある資料を見つけた。 「川本陽菜子と石野明美の身元取り違えについての経緯書」 何だこれは、と眉をひそめて岩永は資料を読み始める。資料は、火災現場の焼死体の身元確認を担当した刑事が作成したようだ。 火災現場から、子供の焼死体が見つかり、一方で、現場から救出されて、病院に搬送された子供もいた。病院に搬送された子供は「石野明美」と名乗り、石野明美の母親も、その子供を「自分の娘の石野明美」であることを認定した。 しかし、焼死体の歯形から、焼死体が「石野明美」であり、病院に搬送された子供が「川本陽菜子」であることが判明。 病院に搬送された「川本陽菜子」が自身を「石野明美」と詐称したこと、母親も自分の娘の「石野明美」であると偽証したことが分かったもの、詐称や偽証の理由は不明。 そういった内容の資料だった。ちょっと待てよ、と岩永は思う。 昨日に、取調室で明美君と話した時は、「火事で助かった川本陽菜子が、石野明美として育てられて、そのうちに川本陽菜子が自身を石野明美と思い込んだ」という仮説だったはずだ。 ところが、この資料では、「火事で助かった川本陽菜子は、最初から自身を石野明美と思っていた」ということになる。 しかも、資料には、病院のベッドでの刑事の聞き取りに対して、川本陽菜子が、石野明美の住所や電話番号、母親の勤務先などを流暢に答えていたことも書かれている。 まるで、火事で死んだ石野明美の魂が、川本陽菜子に乗り移ったようだ。 そして、石野明美の母親が川本陽菜子を「自分の娘」と認定しているということは、あの母親は、「石野明美の魂が川本陽菜子に乗り移っていること」を知っていたのではないか。 もし、そうだとすると、と岩永は考える。 川本陽菜子に石野明美が乗り移り、更に山下明美が乗り移った。この状態で、霊媒師が幽霊を取り除くと、元の川本陽菜子に戻ることになるのではないか。 それはそれで正しい状態に戻るのかもしれないが、明美の母親が育てていた「石野明美の魂が乗り移った川本陽菜子」ではなくなり、母親が期待している状態には戻らないことになる。 岩永は自分の腕時計を見る。9時45分。霊媒が始まっているかどうかの、微妙な時間だ。霊媒師の連絡先は分からないし、分かったところで、何を霊媒師や山下明美に伝えればよいかも分からない。 「なるように、なるしかない、か。」 岩永はそう呟く。行雲流水、そんな言葉を岩永は思い出した。 長友は有明パレスタワーの上層フロアの室内にいた。最上階ではないが、相当に上のフロアだ。霊媒が行われる、という部屋は20畳くらいの、窓のない和室で、長友はその部屋の隅に用意された座布団に座っている。 前方では、少し高くなった舞台のようなところに明美が正座し、その隣には、霊媒師の助手という二十歳前後の女性が、巫女の装束を着て正座している。 霊媒師の50代とおぼしき女性が、明美と助手の正面に立ち、霊媒師から少し離れたところに用意された座布団に明美の母親が正座している。 今は、霊媒師の女性が、骨とう品でも入っているような小箱から、お皿やハサミ、包丁などを自分の周りに置いた台の上に並べている。儀式に必要なのだろうが、必要性が長友にはまったく分からない。 小物を並べ終えた霊媒師が箱を片付けると、「それでは」と張りのある声を出して、パン、と両手を叩く。 「まずは、石野明美様のお話を、隣の助手を介して、行うことといたします。」 霊媒師は明美の母親を見て、次に長友の方に振り返ると大声を張る。 「お二人方は、決して、立ち上がらないように、お願いいたします。何が起きても、絶対に、立ち上がらないように。よろしいですか?」 はい、と長友は神妙に返事をする。少し遅れて、明美の母親が、はい、と小さな声で返事をする。 「お母様は、私が声をかけるまで、決して、お声を出さないでください。驚いたりしても、決して、お声を出さないように。」 はい、と明美の母親は返事を繰り返す。 「それでは、始めます。石野明美様、いえ、失礼。山下明美様、目を閉じて、楽にしてください。」 明美が目を閉じ、隣の助手も目を閉じる。 そう言うと、霊媒師はお香を焚き始め、何かを唱え始める。そのまま、数分が経過し、うまく行っているのだろうかと長友が不安に思い始めた頃に、巫女装束を着ている助手の女性が、口を動かし始めた。言葉は出てこないが、何かを言おうとしているようだ。やがて声が出るようになり、声が言葉に変わった。 「・・・・どこ?」 霊媒師が唱え事を止めて、助手に声をかける。 「石野明美様、でしょうか。」 はい、と助手が答える。霊媒師は、続けて質問をしていく。 「私は、先日に、あなたに乗り移った山下明美様の魂を、黄泉にお返ししようとした者です。その時に、石野明美様のご協力をいただけませんでした。よろしければ、その理由をお聞かせ願えますでしょうか。」 随分に丁寧な言葉を使うものだ、と長友は思った。準備の最中に、霊媒師が「魂は崇高なものであるから、敬語で接しないといけない」と言っていたが、相手が中学生の明美と考えると、結構な違和感を覚える。 「え・・。えっと・・。確かに、山下さんの魂を押してくれ、みたいなことを言われたんですけど。」 霊媒師は、はい、と言って続きを促す。 「私が、この体に残るのは、違うと思っているんです。私、昔のことを全部、思い出して。あの、私も、幽霊なんです。」 一瞬の間を置いて、霊媒師が素に戻ったような声を出す。 「・・・どういうことでしょう?」 「あの、この子。私の保育園の時の友達の、陽菜子ちゃんなんです。私はもう、火事で死んでいて。で、幽霊になって、陽菜子ちゃんに乗り移ったんです。今まで覚えていなかったけど。」 「山下明美様も、石野明美様も幽霊である、と?」 長友も混乱したが、霊媒師も混乱しているようだ。明美ちゃんは、少し考えながら、何とかうまく説明しようとする。 「はい。この子、川本陽菜子ちゃんって言って。陽菜子ちゃんの魂も、まだ、ここにいるんです。そこに、私と、山下さんが順番に乗り移ってしまって。」 霊媒師はやっと理解した、というような声を出す。 「なるほど。霊魂が乗り移りやすい方は、たまに複数の霊魂に乗り移られることがあると聞きます。私は初めてお見受けしますが。」 明美ちゃんは、よかった、通じた、というような感じで少し嬉しそうに話を続ける。 「そうなんです。それで、この体に、私の魂が残るのはおかしいと思って。それで山下さんを出すのをやめたんです。霊媒師さん。山下さんと、私の魂を、陽菜子ちゃんの体から出すことはできますか?」 「それは・・・。」 霊媒師は、明美ちゃんのお母さんを見る。母親は、声は出さないものの、激しく首を横に振って、霊媒師に「ダメだ」と伝えている。 話の筋が見えてきた長友は、しまったな、と思った。こういうことであれば、明美ちゃんの母親を連れてきたのは大失敗だった。まず、明美ちゃんの話だけ聞けばよかったのに。 「霊媒師さん。私、陽菜子ちゃんの魂を押し込めてまで、生きていたいとは思わないんです。だから、山下さんを出すなら、私も一緒に、ここから出してください。」 きっぱりと言い切る明美に、霊媒師は黙ったまま何かを考え、決心したように霊媒師が言葉を発する。 「石野明美様。」 「・・はい。」 「・・・魂のお言葉とあれば。」 霊媒師がそう言って、両手を合わせた瞬間に、明美ちゃんの母親が立ち上がって叫んだ。 「やめて! 私の娘に・・、私の娘なのよ!」 母親には霊媒師に駆け寄り、体当たりするように霊媒師を突き飛ばす。態勢を崩した霊媒師はそのまま床に倒れこみ、霊媒師の横に供えてあった皿や包丁が台座から落ちる。 「・・・お母さん?」 助手の口から怪訝な声が聞こえる。立ち上がるな、と言われていた長友は、どうしようか迷っていたが、母親が床に落ちていた包丁を取り上げたのを見て、慌てて立ち上がって叫ぶ。 「石野さん! それはダメです!」 長友の声が聞こえていないかのように、母親が霊媒師に馬乗りになり、母親が悲鳴のような声を上げる。 「明美を取らないで!」 いけない、と長友が駆け寄ろうとしたと同時に、母親は霊媒師の首筋に包丁を突き立てた。途中まで駆け寄った長友は、思わず足を止める。そのまま、母親は包丁を引き抜き、霊媒師の首から噴水のように血が飛び散る。 「お母さん・・? どうしたの?」 助手にはまだ明美ちゃんが乗り移っているのか、声が聞こえる。呆然として床に座り込んだ長友の前で、母親は二度、三度と霊媒師に包丁を突き立てる。 何もできない長友は、不意に人の気配を感じて、正面の壇上に目を向ける。壇上では、助手の女性が立ち上がって、目を見開いていた。 「お母さん? 何をしてるの?」 明美ちゃん? 見えているのか? 長友は金縛りにあったような感覚のまま、助手を見つめる。母親も気配を感じたのか、助手に目を向ける。 「・・明美?」 「・・お母さん。何で・・・? 」 助手の女性はそう言うと、泣きそうな顔のまま、力が抜けたように壇上にゆっくりと崩れ落ちた。 明美、明美、と娘の名前を呼びながら、母親が助手の女性に這うように近づく。 「明美? どこなの?」 母親が驚いたように声を出すが、誰も答える者はいない。 どうしよう、と長友は思った。まずは部屋から逃げるべきだろうが、足が動かない。腰が抜けている、とでも言うのだろうか。唾を飲み込み、何とか立ち上がろうとしていると、壇上で膝をついていた母親が、突然、声を出して笑い始めた。 今度は何なんだ、と長友は母親に目を向ける。返り血を浴びたまま、顔を上げて笑っていた母親は、やがて、自分の胸に包丁を突き刺した。1回では、うまく刺さらなかったのだろうか、母親は霊媒師と同じように、2回、3回と自分に包丁を突き立て、やがてゆっくりと横になった。 長友は呼吸を荒くしたまま、まだ動けない。よくやく、背広のポケットに自分のスマホがあることを思い出すと、座り込んだまま、スマホを取り出す。 救急車? 警察? 何番だっけ? 震える指でスマホを操作していると、昨日に連絡先を交換したばかりの、岩永刑事の電話番号が目に入り、そのままタップする。 呼び出し音が何回か鳴り、岩永刑事が電話に出る。 「ああ、長友さん。お疲れ様。明美君は、どうなった?」 岩永の言葉で気づき、長友は壇上を見る。いつのまにか、正座していたはずの、明美の魂が入っていた川本陽菜子は、床にうつ伏せになって倒れている。明美ちゃんや、山下明美はどこに行ったのだろうと、色々なことが長友の頭の中を駆け巡る。ただ、最優先でやることは、警察と、救急車だ。 「・・・岩永さん。警察と、救急車を、お願いします。もう、間に合わないかもしれないけど。」 長友は自分で言った言葉を聞きながら、間に合わなかったのだろうか? と、ふと思った。
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