第1章

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第1章

昔からの一戸建て住宅と、比較的新しいマンションやアパートが点在する東京都足立区。住宅街の一角にある、少し細めの都道に面したタクシー会社の駐車場で、タクシー運転手の長友は車両の乗務前点検を行っていた。 年季の入ったタクシーのブレーキランプやヘッドライト、ウインカーの点灯などを順番に点検して、点検結果をチェックリストに記入していく。古めかしく小さなタクシー営業所ではあるが、一応は大手タクシー会社の系列であり、車両点検や清掃状況などのチェックリストは業界でも細かい方だと聞く。もっとも、タクシー運転手の中では若手の、かろうじてまだ20代の長友は他のタクシー会社で働いた経験はなく、これらのチェックが細かいことなのかどうかは分からない。  長友は後部座席やトランクの清掃状況を確認し、最後にタクシーの走行距離をチェックリストに記入すると、記入漏れが無いことを指差し確認しながら、少し離れた事務所に向かう。十数台のタクシーが駐車されている駐車場を出ると、春にしては強い朝日に長友は目を細めた。  建付けの悪い事務所の引き戸を開け、受付に座っている初老の事務員にチェックリストを提出し、事務員からタイムカードを受け取る。受け取ったタイムカードを受付脇の古風な機械に差し込み、午前7時55分のスタンプが押されたことを確認すると、初老の事務員にタイムカードを返す。 「長友さんは・・・、14号車?」 タクシー運転手をリタイヤした70歳近くの事務員が眠そうな声で聞いてくる。 「17号車です。」 この事務員はいつも適当な車番を聞いてくる。数字当てゲームでもしているのかと思うくらいだ。そもそも、タクシーの車番は先ほどに渡したチェックリストにも書いてあるのだが。 17号車か、とぶつぶつ言いながら老事務員は壁のマグネットボードに記載された「17」の数字の下に「長友」のマグネットプレートを貼る。 「そうそう。国道246の下りが緊急工事で車線規制していて、大渋滞しているから気を付けな。」 「どこらへんですか?」 長友は眉をしかめながら尋ねる。朝の通勤時間帯に面倒なことだ。 「三軒茶屋の近くらしい。午前中はそっち方面に行かないほうがいいね。」 長友は大人しく頷くと事務員に問いかける。 「そうしたら・・、今日は浅草か大手町あたりで短距離稼ぐのが正解ですかね?」 「そうだね。あと、今日は平和島競艇で大きなレースあるから、その辺に行くのもいいかもしれんな。」 なるほど。天気も良いから競艇場に行く客は多そうだ。午前中は近場で稼いで、午後からは平和島でのんびり客待ちするのも悪くない。 情報どうも、という形で老事務員に片手を挙げると長友は事務所を出る。  事務所の外は相変わらず日差しが強く、昼からは少し暑くなるかもしれない。長友は運転手用の白い手袋を着けて緑色のタクーに乗り込むと、エンジンをかけ、反応の悪いアクセルを踏み込む。  とりあえず幹線道路に出て、流しの客を拾おうと思いながら、ゆっくりと営業所の出口に向かう。左折のウインカーを出しながら営業所から都道に出ると、まるで自分のタクシーが出てくるのを待っていたかのように、歩道にいた少女が手を挙げた。条件反射的に後方確認するとハザードランプを点灯させ、タクシーをゆっくりと歩道に寄せる。  結構前にタクシー料金が値下げされたが、その頃から中学生や高校生も客としてよく乗って来るようになった。3人や4人でワンメーターを相乗りすれば、バスよりも安いのだから当然だろう。そのうちにタクシーの利便性に慣れたのか、1人で乗って来る中高生も多い。  後部座席のドアを開けると、慣れた様子で中学生くらいの少女が車内に体を滑り込ませてくる。そう言えば学生は春休みの時期だな、と長友は思った。乗客の女の子は青いデニムに白のパーカー、白いトートバッグとのラフな恰好で、どこかへ買い物に行くような恰好だ。 「どちらまででしょう?」 後部ドアのレバーを操作してドアを閉めながら、長友は女の子に尋ねる。 「駒沢公園までお願いします。」 意外な答えに長友は少し考え込んだ。すぐに思いついたのは世田谷の駒沢公園だが、ここは足立区だ。中高生がタクシーを使う目的地としては遠すぎる。聞き返そうとしたところに、女の子が再び口を開いた。 「世田谷の、駒沢公園まで。」 長友は距離と道順を思い描く。 「・・・えーっと、ここから駒沢公園だと、料金1万円超えますよ。」 「あ、お金なら持っています。」 そういうと女の子はトートバッグから財布を取り出すと、万札を数枚見せた。 「でも、今は朝の通勤ラッシュで都心は渋滞しているので、電車で行った方が早いですよ。」 「時間はあるので大丈夫です。」 年齢の割に落ち着いた物言いに、長友は諦めて「分かりました。」と返事をすると、料金メーターを入れようと手を伸ばした。そこに、女の子がまた意外なことを言った。 「あと、高速は使わないでください。」 長友は驚いて後部座席を振り返り、無表情な女の子の顔を見つめる。しかし、すぐに納得した。この女の子は高速料金を払うよりも、一般道を使ったほうが安く行けると思っているのだ。 「一般道は渋滞が多いので、高速代払っても、首都高を使った方が安くて早いですよ。」 丁寧に、諭すように長友は女の子に話しかける。ところが、女の子はにこやかに笑って、首を振った。 「いいえ。一般道で行ってください。ここからだと環7から国道4号に出て、皇居前の内堀通りから国道246ですかね。」 少女の口からさらりと道順が出てきたことにも少し驚いたが、長友は最後の抵抗を見せる。 「でも、国道246が緊急工事で渋滞していて・・。」 「構いません。一般道で、のんびり行ってください。」 「はあ・・。」 あまり揉めても仕方がない。煙に巻かれた気持ちで料金メーターを貸走にすると、長友はタクシーを発進させた。タクシー運転手を8年近くやっているが、わざわざ渋滞の中を走ろうとする客は初めてかもしれない。いや、最近はないが、タクシー運転手を始めた頃は、長友の気を引きたいのか、会話をしたいのか、わざと混んでいる道を走らせる女性客がたまにいた。そのまま食事や部屋に誘われることもあったが。  ちらりと長友はルームミラーを見る。乗客の少女は黙って窓の外を見ている。  最近の子がいくら大人びていると言っても、さすがに中年男を買うような真似はしないだろう。  タクシーは住宅街を抜けて環状7号線に合流する道に入ったところで早くも信号待ちの渋滞に巻き込まれた。午前8時過ぎ。いつもの通勤渋滞だ。長友は再び、さりげなくルームミラーに目を走らせて、乗客の様子を伺う。女の子は相変わらず窓の外を見ながら考え事をしているようで、特に渋滞を気にしている様子はない。妙な客ではあるが、頭がおかしい様子でもない。考えようによっては、渋滞中の長距離を気前よく乗ってくれる上客とも言える。まあ、客のことをあれこれ詮索しても仕方ない。  長友はラジオのスイッチに手を伸ばした。走っているならともかく、停車中の車内で黙ったままの客と2人で過ごすのはどうにも居心地が悪い。 「あ、ラジオは好きじゃないので、点けないでもらえますか。」 予想外の指示が後部座席から飛んできて、長友は不満げにルームミラーを見る。ミラー越しに目が合った少女は大人びた微笑みを浮かべるとこう言った。 「その代わり、少しお話しませんか。」 意外な申し出に、長友は少し苦笑いをする。 「いや、お話と言われても・・。」 中学生くらいの女の子と共通の話題があるとは思えない。無難なのはTVの話だろうが、長友はドラマやバラエティ番組などは見ず、もっぱら野球やスポーツニュースばかりだ。 「共通の話題がなさそう、ですか? まあ、じゃあ、そうですねえ。」 長友の考えを察したかのように、少女は少し天井を見上げて考え込む。 「運転手さんが、私くらいの歳にはどんな学生でしたか。」 意外な質問に長友は少し狼狽する。 「えーと、失礼ですが、おいくつで?」 「13歳。来月から中学2年です。」 予想よりも低い年齢に驚いて長友は改めてルームミラー越しに少女を見る。確かに顔つきはまだ幼いが、立ち居振る舞いや話し方はすでに大人のようだ。  軽く咳払いして、少し考えて長友は記憶を思い返す。 「中学2年ですか・・。まあ、まったく普通の中学生でしたね。」 答えてから失敗した、と思った。これでは会話の弾みようがない。だが実際のところ、中学生の時の自分は勉強も運動も可もなく、不可もなく。部活はバレーボールだったが、同級生に誘われたから入部しただけで、特に勉強もスポーツも好きではなかった。 「イケメンだから、結構モテたんじゃないですか?」 ニヤリとした表情で女の子は尋ねてくる。子供らしく悪戯っぽい聞き方で、長友は思わず相好を崩す。 「まあ、そうですね。」 女性にモテることは否定しない。幸か不幸か容姿は良い方で、中学生の時もよく女子生徒に言い寄られていた。期待した通りの長友の答えに満足したのか、女の子はミラー越しに目を細めて微笑む。笑うと可愛いな、と長友は思った。 「部活は何をやっていたのですか?」 「中学はバレーボールで・・、でも、高校からは演劇部に入っていました。」 女の子の笑顔に釣られたのか、長友は少し饒舌になってきた。 へえー、と女の子は感心したような声を出す。 「演劇に興味があったのですか?」 いやいや、と長友は苦笑いしながら手を振って否定する。 「入学してすぐに、演劇部の女子の先輩からスカウトされたんですよ。どうしても、って毎日教室に来られて、それで根負けして。」 「スカウト、ってのもすごいですね。」 「何でも、見た目がいい奴が舞台に立てば文化祭の観客が増えるとか何とか。」 「現金な理由ですね。」 女の子は屈託なく笑いながら質問を投げかけてくる。 「演劇は楽しかったですか?」 長友は少し過去を振り返って考える。 「そうですね。色々な人物を演じるのは楽しかったですね。」 演劇の世界では、何にでもなれる。大富豪にも、社長にも、ヒーローにも。演じている間は自分がその特別な人間になれたようで楽しかった。 「じゃあ、高校の3年間、演劇部だったんですか?」 「そうですよ。」 最初は台本のセリフを読むのも恥ずかしかったが、徐々に楽しくなっていき、舞台で演じた時には快感すら感じた。自分の求めるものはこれだ、とその時は思っていた。 「何か思い出に残った役とかあります?」 すっかり女の子のペースに乗せられているな、と頭の奥で考えつつ、長友は少し考える。 「エレファントマン、って映画をご存知ですか?」 相当古い、40年近く前の映画だ。 「見たことはないけど、聞いたことはあります。象の顔をした男の人の話でしたか。」 そうですね、と長友は頷く。 「それと似た話で、ライオンマン、って話の劇をやったんですよ。私がその主人公のライオンマンの役で。」 「どういう話です?」 女の子は興味深げに聞いてくる。会話が上手な女の子だな、と思いながら、長友はどこからどうやって話そうか、と少し考える。 「小さな村に住んでいる、顔がライオンの村人が主人公なんです。他の村人はライオンマンの見た目を恐れて、みんな見ただけで逃げてしまう。でも、ライオンマンは実はとても臆病で、心の優しい怪物なんです。」 ふんふん、と女の子は小さく頷きながら聞いている。 「ある日、戦争が始まって兵士たちが村を襲ってくる。村人たちはみんな逃げ出して。ライオンマンも村から逃げようとしたけど、ライオンマンの姿を見た敵の兵士達が、逆に悲鳴をあげて逃げて行ってしまうんですね。」 パン、と後続のワゴン車が軽いクラクションを鳴らした。右折の青信号が出ているにもかかわらず停車していたことに気付き、長友は軽くアクセルを踏むと交差点を右折して環状7号線に合流し、再び渋滞の末尾で停車する。 「村人たちはライオンマンに感謝し、恐る恐るですが少しずつライオンマンに話しかけるようになり、ライオンマンも徐々に村人に心を開いていくんです。」 「いい話ですね。エレファントマンとはだいぶ違うようですけど。」 そうですね、と相槌を打って長友は話を続ける。確かに、この舞台劇はエレファントマンと異なり、単純なハッピーエンドを迎えることになる。 「最後は、ライオンマンが村を守るために強くなり、生涯、村を守って村人と平和に暮らしました、という話ですね。」 「それの主役のライオンマンを?」 「ええ。最後の、高校3年の文化祭劇でね。」 「やっぱり、主役だから思い出に残っているんですか?」 長友はハンドルを握ったまま、しばらく考える。前のトラックが少し進んだので、その分だけ車間を詰める。 「確かに、主役だったし、高校の最後の文化祭ってことで思い出深いのもありますけど。」 前方で停車中のトラックをぼんやりと眺めながら、長友は言葉を考える。 「何というか・・・・最初は自分の姿を恨んでいたライオンマンが、最後はこの姿に生まれてきて良かったって思う、そういう成長の過程を演じられたのが、役者冥利でしたね。」 再び発進した前方のトラックに合わせて、長友はアクセルを踏み込む。 「演劇、お好きなんですね。」 長友は一瞬、表情を固くしたが、ええ、とだけ答える。じゃあ何で今、役者じゃなくてタクシー運転手をやっているんですか? そんな質問に繋がることが容易に想像できた。 「高校を卒業した後も、演劇はやっていたんですか?」 「・・・少しだけ、ですね。」 先ほどとは一転して歯切れの悪い口調になる。 「プロの役者さんを目指していた感じです?」 「まあ・・ね。ただ、途中で挫折しました。」 曖昧な笑顔を浮かべながら首を振って、長友はこの話を終わらせようとする。 「高校の卒業後は、劇団か何かで?」 空気を読んでくれないのか、女の子はまだ同じ話題を続けようとする。 「ええ。高校を出てからは、バイトしながら劇団員に。」 長友は諦めて、話を続ける。 「劇団に入るのもオーディションありますよね。」 「そうですね。」 意外に詳しいな、と驚きつつ言葉を返す。 「結構、倍率高いって聞きますけど。」 「いや、私の場合はそれもスカウトで。というか、高校の演劇部が割と有名なとこだったから、卒業生も何人か、その劇団にいたんですよ。そのコネ、って感じかな。」 普段は思い出さない記憶を辿りながら話していく。しばらくゆっくりとした交通に流れていたタクシーは、国道4号との交差点が見えてきたところで、ほとんど動かなくなった。 「劇団では、舞台にも立ったんですか?」 「ええ。2年目から脇役で、3年目からメインどころで。」 「すごいじゃないですか。」 「1年目と2年目は大変でしたよ。昼から夜まで稽古をして、深夜から朝までバイトして。休みもなく、睡眠時間は平均4時間。それを2年間ですからね。」 「若くないとできないですね。」 確かに、と長友は同意すると苦笑いする。今、同じことをやれと言われても絶対にできないな、と思いつつ、半ば無意識に前のトラックが進んだ分だけ車間を詰める。 「劇団時代は、彼女さんとか、いたんですか?」 女の子が興味津々で聞いてくる。 「・・・。まあ、いましたね。」 「同じ劇団の人ですか?」 「ええ。」 返事をしてから長友は後悔した。あまり当時の彼女のことは思い出したくない。付き合っている女性はいなかった、と答えればよかった。 「すごいですね。劇団の女の人ってことは、美人だったんでしょう?」 案の定、女の子はこの手の話が好きなのか興味津々で聞いてくる。 「・・・まあ、そうですね。」 「一緒に暮らしてたんですか?」 「ええ。付き合っている途中から、一緒に暮らすようになって。」 テンポの良い女の子の質問についつい正直に答えてしまう。 「いいですね。うらやましい。」 長友はルームミラー越しに女の子に微笑むと、前を向いて作り笑いを引っ込める。 「ただですね、彼女は、交通事故で亡くなったんです。」 「・・・そうなんですか。」 「ええ。だから、彼女の話は、あまりしたくないんです。すみません。」 長友は素直に謝ると、ルームミラーに映る女の子の様子を伺う。楽しい恋愛話を期待していた女の子には気の毒だが、これ以上、彼女のことを思い出したくはない。 女の子は、同情するような素振りをすることもなく、驚きの表情を浮かべることもなく、ミラー越しに長友の目を無表情に見返してくる。長友は思わずミラーから目を逸らした。 しばらく車内に沈黙が訪れ、長友が別の話を振ろうとしたときに女の子が口を開いた。 「交通事故、ですか・・。」 ええ、とだけ長友は答える。いい加減にこの話を止めてもらおうと女の子に声をかけようとしたが、再び、女の子が先に口を開く。 「目の前で、彼女さんの事故を見たらショックですよね。」 ええ、と口癖のような返事をしようとしたが、長友はそのまま口を閉ざした。「目の前」って、どういうことだ?  ルームミラー越しに乗客の女の子を見る。女の子は無表情なまま、窓の外を見ている。考えすぎか、聞き間違いと思い、長友は今度こそ別の話題を振ろうとしたが、またも女の子が先に口を開いた。 「救急車を呼んだり、色々大変ですよね。」 長友は言葉を飲み込むと、黙り込む。が、すぐに首を振りながら答える。 「いや。救急車は・・・他の人が呼んだので。」 何を言い訳しているんだろう、と長友は思った。上目遣いにルームミラーを見ると、女の子はミラー越しに長友と目を合わせてくる。 「だから、彼女さんを見殺しにして、事故現場から立ち去ったんですか?」 文字どおり、全身から血の気が引いていった。なぜ、そんなことを知っている? 頭の奥から浮かんできた疑問を声にすることもできずに、長友は呆然とミラーに映る女の子を見ていた。 何かの音が聞こえてきて、それが後続車のクラクションだと気付いて長友は我に返った。前のトラックはすでに30メートルほど先で停車している。長友は慌ててタクシーを発進させて車間を詰めると、一息ついて冗談めかして女の子に話しかける。 「お客さん、警察か何かですか?」 努めて軽く言ってルームミラーを見る。ミラーに映る自分の顔が青ざめているのが分かった。女の子は答えずに、少し悲しそうな顔で長友の顔を見つめてくる。長友はミラーから視線を外すと、女の子に尋ねた。 「事故のことを、何か知っているんですか?」 「彼女さんの家から出て行った長友さんを追いかけて、彼女さんがトラックに轢かれたのに、長友さんはそのまま立ち去った。知っていることはそれだけです。」 長友は驚いて後部座席を振り返る。女の子は、長友の顔を背けるように軽く横を向き、窓の外を見つめる。女の子の横顔からは何も読み取れない。長友は前に向き直ると運転席の窓を少し開け、言葉を絞り出すようして女の子に尋ねる。 「なぜ、そんなことを知っているんですか?」 女の子は軽く溜息をつくと、長友に話しかける。 「すみません。私からも質問させてもらっていいですか?」 何だろう、と思いつつ息苦しくなった長友はネクタイを少し緩めると、女の子の言葉に無言で頷く。 「彼女さんの家を出て行ったのは、なぜですか?」 そんなプライベートな質問に答える必要があるのか、と思った長友は思わずルームミラーを軽く睨むが、ミラーに映った女の子の真剣な表情を見て、諦めたように答える。 「彼女に新しい恋人ができたから、それで身を引いたんです。」 前方の車列が進み、長友はタクシーを左折させて国道4号に合流する。赤信号で停車したところで、女の子が意外そうな声を出した。 「彼女さんに、恋人が?」 「ええ。新しい彼氏ができたんですよ。だから俺は、こっそり家を出たんです。彼女の留守中にね。」 自分だけが悪いのではない。多少の正当性が主張できたような気がして、長友は少し落ち着いた。ルームミラーを脇目で見ると、女の子は少し困ったような顔をしている。 「・・あの。長友さんと、彼女さんのことを、2人が付き合い始めたころから話してもらってもいいですか。」 「ええ? なぜですか?」 長友は思わず驚いて後部座席を振り返る。女の子は困ったような顔をしたまま、長友の顔を見返しながら言いにくそうに答える。 「そうしたら、全部分かるから。」 答えになっていない答えに長友は呆気に取られたが、しばらくして溜息を付きながら前を向き直ると、女の子に声をかける。 「でも、長くなりますよ。」 「大丈夫です。この渋滞だし。」 それもそうか、と長友は思うと、どこから話そうかと少し考える。 「劇団に入って半年くらいで、1年先輩の、その彼女と仲良くなりました。そのまま、3年目まで順調でした。交際も演劇も。」 女の子は両手を膝に置いたまま、黙って聞いている。 「ただ、ある日に震災が起きて、それから演劇を見に来る客がほとんどいなくなりました。世の中は不景気になって、劇団は一時解散。私がバイトで勤めていた飲食店も閉店して、他のバイトを探したんですけど、当時は日雇いの仕事すらない状態で、そのうちに家賃が払えなくなって彼女のアパートに転がり込んで。」 信号が青になったので、長友はアクセルを吹かしてタクシーを発進させる。 「彼女もバイト先をクビになったんですが、ほどなく、キャバクラで働きだしました。」 女の子は黙って聞いている。あまり思い出したくない記憶を手繰りながら、長友は努めて淡々と言葉を続ける。 「最初のうちは勤め先のキャバクラが閉店すると、彼女はまっすぐ帰って来ました。でも、段々と酔って帰って来ることが多くなって、そのうちには週1くらいで朝帰りするようになって。」 「それは、お客さんとアフターして朝帰り、ってことで、別に浮気ではないですよね?」 女の子が確認するように声をかけてくる。長友は思わず軽く笑った。随分と大人びた子供だ。 「いや、それを浮気と勘違いするほど間抜けじゃないです。キャバ嬢の仕事って奴なんで、それは仕方ないんです。」 女の子は軽く頷く。 「そうはいっても、段々とケンカが増えてきて。私も仕事が見つからずにイライラしていて、そのうちに、彼女の財布から金を抜いてパチンコに行くようになって。」 「最低ですね。」 「ええ。」 言い返す言葉もない。 「もう、単なるヒモの状態でしたよ。」 国道を順調に南下していたタクシーは、少し先に橋が見えたところで再び動かなくなった。長友はシフトレバーをパーキングに入れると、足を少し楽にして続きを話す。 「それでも、彼女は何も言いませんでした。怒ることもなく、諦めたのでしょうね。やがて、彼女は昼間に出かけることが多くなりました。夜に仕事して、少し寝て、またバッチリと化粧して、一番良い服を着て昼間に出かける。」 長友は少し溜息をついた。 「浮気っぽいでしょ?」 「それだけでは何とも。」 女の子はすぐに言葉を返してくる。 「で、ある日、パチンコ屋から帰る途中に、喫茶店で男と話している彼女を見たんですよ。嬉しそうに、照れ笑いしながら。笑っている彼女を見るのは久しぶりでした。」 女の子は黙っている。 「新しい彼氏だな、とすぐにピンと来ました。彼女は美人だったし、私以外にも付き合える男は一杯いましたからね。それに私は、彼女の稼ぎでギャンブルをやるヒモだったから、愛想を尽かされて当然ですよ。」 女の子は引き続き無言のままだ。前方の車列も、まったく進む気配がない。 「だから私は、そのまますぐに荷物をまとめて、彼女の部屋を出たんです。行く当てもなかったけど、出て行くべきだと思ったから。」 少し黙った後に、女の子は口を開く。 「で、入れ違いに帰って来た彼女さんが、あなたの後を追いかけて、事故にあった、と。」 長友は軽く頷く。女の子は口元に手を当てて考え込み、しばらく黙り込んでいる。長友も無言で前方の渋滞を眺める。 「長友さん。こういうことは考えられませんか?」 いつの間にか、女の子が自分を名前で呼んでいることに気付いた。 「彼女さんが昼間に出かけていた理由ですけど、TVドラマやお芝居のオーディションを受けに行っていた。だから、昼間に化粧をして出かけていた、と。」 突飛な話に長友は面食らった。 「仮定の話です。でも、どうですか?」 女の子は力強く尋ねてきて、長友は困惑しながら答える。 「まあ、可能性としてはあるかもしれませんね。」 可能性? いや、彼女の性格なら、充分にあり得ることかもしれない。少し混乱してきた長友は頭を横に振って、疑問を口にする。 「でも、どうして俺に黙って?」 「それは、やっぱりオーディションに落ちたりしたことは知られたくなかったからでしょう。恥ずかしいし。だから内緒にしていて、受かったら話そうと思っていた、と。」 そういえば、彼女から「一緒にオーディションを受けよう」と何回か言われたことがあった。その都度、「どうせ無理だ」と断っていたが、そのうちに彼女は1人でオーディションを受け出したのかもしない。 「そして、とうとう主役ではないものの、彼女さんはオーディションに合格してお昼のTVドラマのレギュラーに採用されました。そして制作会社の人が、彼女さんと出演契約しようと喫茶店で2人で話していた。それを、長友さんが見て浮気と勘違いした。」 何かを言おうとしたが言葉が出てこない。まるで見ていたかのように、いや、それ以上に具体的だ。だが言われてみれば、喫茶店で見た彼女の笑顔は、好きな男に向けるような笑顔ではなく、芝居を誉められたときに見せるような、そういった笑顔だったかもしれない。 「どうです? 彼女さんが浮気をしていたというよりも、こちらの方が、現実味がありませんか?」 長友は少し青ざめつつ、前の車のブレーキランプを見つめながら考える。 そういえば、彼女は度々、履歴書を書いていた。昼間の仕事を探している、と言っていたが、あれはオーディション用の履歴書だったのだろうか。 「彼女さんは、驚いたと思いますよ。オーディションに受かった、ドラマに出演できる、それを喜んで報告しようとしたら、家の中から長友さんの荷物がなくなり、別れの書置き。慌てて駅の方向に走っていったら長友さんを見つけて、そのまま車道に飛び出した。」 停車中のタクシーの右側をゆっくりと進んでいく大型トラックのタイヤが視界に入り、長友は思わず目を背けた。 「彼女さんは、駐車車両の脇から、いきなり車道に飛び出したそうですね。トラックも避ける間もなく、ブレーキが利く間もなく。」 そのとおりだ。彼女の呼び声が聞こえて振り返った時には、すでに彼女はトラックの車体の下に巻き込まれ、人形のように転がされていた。歩行者も車も通行の多い道路だったため、すぐに通行人の悲鳴が上がり、色々な車の急ブレーキの音がした。 車のドアが開く音、人々が駆け寄る足音。救急車、医者、様々な言葉が飛び交う中、彼女は苦しそうに起き上がろうとした。俺の方に顔を向けて、まるで何かを言おうとしているように―。 遠くからクラクションが聞こえ、運転席の肩を何度か叩かれて長友は我に返る。前の車は遥か前方に走り去り、右や左の車線の車が自分のタクシーを追い抜いていく。自分が道路を塞いでいたことに気付き、慌ててタクシーを発進させる。クラクションを鳴らしていた後ろのトラックにお詫びのハザードを出そうとしたが、ミラーに自分を睨みつけているトラック運転手の顔が映り、長友は思わず手を引っ込めた。 「大丈夫ですか?」 申し訳なさそうな顔をした女の子が身を乗り出して聞いてくる。 「あ・・。いえ。」 額から汗が出てきて、少し気分も悪い。女の子はすぐに察したらしく、「どこかで休みましょう。」と言った。 長友はクラクションを鳴らされながら一番左の車線まで、やや強引にタクシーを持っていくと、コンビニの駐車場にタクシーを駐車する。長友が声をかける前に、女の子の方から声がかかる。 「外に出て、少し休みましょうか。」 後部座席のドアを開けて女の子を外に出すと、長友も運転席から外に出る。排気ガスの熱気や匂いと車の騒音が妙に心地よい。 「何か飲みますか?」 女の子の問いかけに対して無言で横に首を振ると、長友は店前に置いてあるベンチに腰を下ろした。女の子は、しばらく側に立っていたが、やがてコンビニの店内に入ると、ペットボトルのお茶を2本買ってきた。1本を無言で長友に差し出し、一旦は断った長友も無言でお茶を受け取る。 女の子が長友の隣に腰かけ、2人ともほとんど同時にお茶のペットボトルを開け、飲み始めた。長友は ペットボトルの3分の1ほどを一気に飲み、一息ついてから女の子に話しかける。 「色々と、聞きたいことがあるんだけど。」 「どうぞ。」 女の子もペットボトルから口を離すと答える。 「君は、何でそんなに、彼女のことを知っているの?」 「知っているというより、彼女さんに頼まれたんです。長友さんが家を出て行った理由が分からないから、本人から聞き出してほしい、と。」 「それは、いつの話?」 「2日前です。」 冗談だろう、と長友は笑おうとしたが、女の子の真顔を見て、笑みを引っ込める。 「死んで幽霊になった彼女さんに頼まれたんです。私、そういうのが見えて、会話もできるので。」 嘘や冗談を言っているようには見えない。むしろ、俺と彼女のことを色々知っていたことも、彼女から聞いたということであれば、筋が通る。軽く息を吐いて、長友は女の子に質問する。 「幽霊の彼女とは、どこで会ったの?」 「ある人に紹介されて、東綾瀬の公園で会いました。彼女さんは何で長友さんが突然に家を出て行ったのか分からなくて、死んだ後も、それが未練でずっと幽霊になっていて。そんな彼女を助けてくれと、ある人に頼まれたんです。」 長友は無言のまま、お茶を口に運ぶ。 長友の社員寮も東綾瀬にある。 「最初、彼女さんは、長友さんに他の女ができて家を出て行ったんだと思ったそうです。でも、幽霊になって、長友さんのことを見ていても、そんな気配はまったくなく。」 「他に女なんて作ってないよ。」 長友は半ば無意識に言い返す。 「でも、彼女さんは幽霊だから、長友さんに出て行った理由を聞くこともできず。」 「それで、幽霊が見えて話せる君に頼んできた、と。」 「そうです。とりあえず、助かりましたよ。」 ペットボトルのお茶を飲もうとしていた長友は思わず「何が?」 と聞き返す。 「長友さんが、家を出て行った理由を話してくれて。彼女さんも納得したみたいですし。」 納得した? 聞き返そうとした時に長友はその言葉の意味が分かり、声を潜めて、女の子に尋ねた。 「彼女は、いや、彼女の幽霊は、この近くにいるの?」 「ずっと、タクシーに乗っていましたよ。私の隣に。もちろん、見えなかったでしょうけど。」 長友は口を半開きにして唖然とする。そのまま、虚ろな顔で女の子に尋ねる。 「今も、ここに?」 「いますよ。あ、でも、もう薄くなりつつなっていますけど。」 「え?」 「たぶん。長友さんが家を出た理由が分かったから、この世に未練が無くなって、成仏するのだと思います。」 いや、彼女がこの場にいるなら謝りたい。もう一度、話したい。 「どこだ? どこにいるんだよ?!」 長友は思わず少し大きな声を出して立ち上がる。コンビニから出てきた若者が驚いたように長友を見る。 すみません、大丈夫です、と女の子が穏やかに笑いながら若者に向かって声をかけると、不審そうな目をしながらも、若者はコンビニの袋を下げて去っていく。長友は若者が遠ざかるのを確認しつつ、少し焦りながら、女の子に頼み込む。 「どこにいるんだ? 教えてくれ。」 「今、運転席のドアの前に立っています。」 長友は駐車しているタクシーの運転席付近を見つめる。「川の手交通」との社名の入った緑色のドアと、無機質な銀色のドアノブ。首を振りながら長友は呟く。 「・・何も見えない。」 「そうでしょうね。私には見えるんですけど。」 長友は再び目を凝らしてタクシーを見つめるが、やはり何も見えない。 「今、目の前に来ました。」 ベンチに座っている女の子は、自分の正面の空間を見つめる。そのまま、通訳するように長友に話しかける。 「私のことは気にせず、恋愛も、演劇も、好きにやって生きて欲しい、とのことです。」 女の子はそう言うと、長友に向かって軽く微笑んだ。長友は唖然としながら、ベンチに座ったまま、何もない空間を眺める。 「彼女さんに、2人きりにさせてくれ、って言われました。」 女の子は苦笑いしながらベンチから立ち上がる。 「邪魔者は消えますので、彼女さんに伝えたいことがあったら話しておいてください。今、彼女さんは、長友さんの右隣に座っています。」 そう言うと、女の子は再びコンビニの中に入って行った。 5分か、8分か、そのくらいだろうか。しばらくして、女の子が戻ってくると長友はうつむいたまま、涙声で女の子に聞いた。 「彼女は、もういないのかい?」 「いえ。まだいます。」 女の子は気まずそうな顔を浮かべてこう続けた。 「そんなに謝らなくてもいいのに、ごめんね。だそうです。」 彼女が謝ることじゃない。思わず泣きそうになった長友は唇を噛んだ。 「あ。消えていきます。」 長友は顔を上げると、自分の隣の空間を涙目で見つめた。 女の子は何もないその空間に向かって軽く会釈する。 「消えてしまいました。嬉しそうに笑いながら。」 その言葉を聞いた長友は涙をこらえようとしたが、とうとう耐えられなくなってハンカチを出すと両目を押さえた。 「綺麗な人ですね。彼女さん。」 「・・・ああ。」 泣き顔を見せたくなく、長友は顔を上げると、精一杯の虚勢を張った。 「いい女だったよ。」 女の子は長友の前に立つと、長友に紙コップのコーヒーを差し出した。 「ブラックです。」 「ありがとう。」 長友は素直にお礼を言うと、プラスチックの蓋を外し、コーヒーをすする。口の中で感じる熱さが、これが夢ではなく、現実だということを教えてくれた。 「彼女に頼まれたんだっけ? 聞いてくれって。」 「ええ。」 女の子もコーヒーを飲みながら答える。この子もブラックで飲んでいる。 「じゃあ、タクシーの料金はいいよ。あと、コーヒー代も・・。」 長友はポケットから小銭入れを出そうとする。 「いえ。大丈夫です。それより、実はお願いがあるんですけど。」 「お願い?」 「ええ。もう少し休んで、コーヒー飲み終わったら、タクシーの中で話しましょう。」 長友は軽く頷くと、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
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