落とし「もの」

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落とし「もの」

 革靴の持ち主が現れないまま、ひと月が過ぎた頃、門倉妹――琴葉ちゃんは、また現れた。 「えっ……これ?」 「落ちてましたー」  彼女の手には、赤いリード。その先で、チョコブラウンのミニチュアダックスがしょぼくれた顔をしている。 「このワンちゃん、どこにいたの?」 「本屋の横の道」 「このヒモ、どこかに結んでなかった? ワンちゃん、歩いていたの?」 「はい」  散歩の途中で飼い主が入店する際、店外にペットを繋いでおくことがある。確り結わえておかなければ、ヒモが解けて、ペットがその場を離れてしまうこともあるだろう。ペットが単独で路上を歩いていたのなら、生き物でも拾得物扱いになる。ただ、交番(ここ)では管理できないから、保護管理センターに移管することになるけれど、まずは交番で拾得物の受理手続きを行うのだ。 「琴葉ちゃん、そこに座って待ってて。詳しいお話を聞かせてもらうわね」  ひとまず犬は、交番前の掲示板に繋いでおこう。リードを結わえようとして、首輪にプレートが付いていることに気付いた。人慣れしているのか、とても大人しい犬だ。プレートには、「ショコラ」という名前と、連絡先と覚しき電話番号が刻印されている。しめた。  電話をかけると、ものの10分と経たずに飼い主の女性が車で駆けつけた。パタパタと尾を振るダックスをギュウッと愛おしげに抱き締める。 「ショコラっ! ああ、無事で良かったぁ!」  飼い主の菅沼(すがぬま)さんは、予約していた雑誌を受け取りに書店に立ち寄ったそうだ。店の前の駐輪場のポールにリードを確り結んだつもりだったのに、と小首を傾げた。  落としものとして受理する前だったことと、連絡先から飼い主として特定出来たため、私は案件として処理せずに引き渡した。 「お嬢ちゃん、本当にありがとうね」  ダックスをケージに入れてから、菅沼さんは琴葉ちゃんに頭を下げた。 「ショコラは、うちの家族の一員なの。もし事故にあったらと思うと、ゾッとするわ」  琴葉ちゃんは、曖昧に微笑んでいる。感激している菅沼さんとの温度差が、微妙に白けた雰囲気を醸し出している。思わず、私は合いの手を入れた。 「大切な命ですものね」 「ええ、そう、そうなの!」  ホッとした笑顔になると、彼女は琴葉ちゃんの肩に手を置いた。 「ねぇ、お巡りさん、もう帰っても良いんですよね? お嬢ちゃん、お家まで送っていくわ」  一瞬答えに迷ったが、菅沼さんが琴葉ちゃんに危害を加えることはあるまい。やや強引な菅沼さんの申し出に、琴葉ちゃんは戸惑いながらもパイプ椅子を降りた。 「今度からお散歩の時は、気をつけてくださいね。琴葉ちゃん、ご苦労様。どうもありがとう」  今日はご褒美をもらえないのか――そんなガッカリ感が瞳の奥に過ったように見えたが、これは良い機会だと、私は笑顔で黙殺した。 「そうだわ、お礼にケーキ屋さんに寄りましょ。途中に美味しいお店があるのよ」  赤い軽自動車の後部座席にケージを置きながら、菅沼さんが琴葉ちゃんにかけた言葉が聞こえて、ハッとした。思いがけず、ご褒美が大きくなってしまった。けれども、今更私が口出し出来ることでもない。  助手席で輝くような笑顔に変わった琴葉ちゃんを見送って、私は罪悪感と焦燥感がごちゃ混ぜになった苦い後悔が胸に広がっていくのを感じた。
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