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10.魔王と先輩ホームレスのクレリア
それからは、思い出すのも身の毛がよだつ日々が続いた。
人間と比べて、底なしの性欲を持つオークに、朝から深夜まで蹂躙され続ける、終わりの見えない日。死が希望に感じられるほどに、リアナの心は弱り切っていた。
そして、リアナは次第にやせ細り、病気になって、オーク達にとって欲情の対象でなくなると、村の外れのごみ捨て場に捨てられた。
リアナを捨てたオークが立ち去っても、もうリアナには、逃げる気力は失われていた。帰る家もないのだ。
うつろに開いた目には、先輩だろうか、片目が飛び出した、髪の長い女性らしき遺体と目が合う。
激しい腐敗臭がするが、顔を背ける気力もリアナには既になかった。
生きることを放棄しようと閉じたけたリアナの瞼に、蔑んだように高笑いするセレナの姿が浮かんでくる。
そうだ、姉もここからあそこまで上り詰めたんだ。自分へ復讐するために。なら、私だって、きっと。
リアナは起き上がった。セレナに復讐したい、その一心で。
ふらつく足つきで立ち上がると、お腹がすいていることに気づく。
生きなければならない。なんとしても、セレナに復讐するその日まで。
そう決意したリアナは、となりの死体に手を伸ばしたのだった。
真夜中に、リアナは監視の目をかいくぐり、決死の覚悟で、バルドレル王国の国境を越えた。
国境破りは、見つかればその場で殺される。
素直に殺されるならまだしも、きっと…。
やっとの思いで、無事に国境を越えたリアナは、バルドレル王国の国境から一番近い、スノーフィールドの町までたどりついた。
しかし、セレナのような天啓の才能である”薬師”のないリアナが成り上がれるはずもなく、いつまでたっても、路上生活者のままだった。
路上で物乞いをしたり、レストランの残飯を漁ったり、そして、汚くて臭い乞食のリアナでもいいというもの好きものには、捨て値で体を売ったりして、なんとか生き永らえていた。
それでも、自分からすべてを奪ったセレナを許さない、絶対に復讐してやる、その一心で、みじめな生活に耐えていた。
そんな折、リアナに復讐の絶好のチャンスが訪れる。
12月25日、創造神の誕生を祝う祭りの日に合わせて、聖女セレナが、この北の最果てのスノーフィールドを巡業するというのだ。
きっと沿道は、町の人々で埋め尽くされるだろう。その中に紛れ込んで、セレナが乗った馬車が通りすぎるその瞬間、これで──。
リアナは橋の下のあばら家で、ごみ捨て場で拾ったロングソードを取り出した。
錆がびっしりこびりついていたそれを、リアナがセレナへの恨みを込めて研ぎ直したおかげで、生来の輝きと鋭さを取り戻した。
リアナは、拾ったろうそくが揺らめく薄暗い部屋のなかで、ひときわぎらつく刀身をじっと眺めていた。
刀身には、リアナの鋭い眼が光っている。
セレナを殺して、私も死ぬ。その覚悟だった。
その日まで、何としても生き抜かねばならない。
咳がとまらないので、手で口をふさぐと、べったりと血がついていた。
リアナは、自分の命がそう長くないことを悟っていた。
セレナの作る治療薬さえあれば、こんな病気は一発で治るのだが、ライバルである他社の薬屋がなくなったのを見計らって、セレナは大幅にその値段を吊り上げていた。
今では、貧しい庶民には、とても手が届かない代物になってしまったのである。
薬学の勉強を怠っていたリアナには、それなりの治療薬を自作することも、できなかった。
この辛い現実は、まごうことなき、これまで自分がしてきた行いの結果だった。
自覚したくもない、逃れようもない現実に押しつぶされそうな気持ちで、リアナはひとり、隙間風が通り抜ける薄暗い部屋で、ぼろきれを顔に押し当てて嗚咽を漏らしていた。
明日がやってきますように、と祈りながら、リアナはそっと目と閉じた。
夕方、リアナは、同じ橋のたもとに住む、ホームレスのクレリアの家を訪れていた。
家とはいっても、もちろん、リアナのあばら屋と大差ない。
壁は薄くて、あちこちから隙間風が吹き込んでくる。
「はい、クレリアさん」
リアナは、教会から配られた、パンとミルクを、高熱で横たわるクレリアに差し出した。
「ありがとう…、たすかるわ…。こんな体だから、行けなくて」
起き上がろうとするクレリアを、リアナはあわてて手で制した。
「いいんです。困ったときはお互いさまですから」
リアナの笑顔を見て、クレリアは安心したように目を閉じる。
クレリアは40代半ば。生きていれば、リアナのお母さんと同じぐらいの年齢だ。
背恰好や雰囲気も、リアナのお母さんによく似ていた。
そして、リアナがスノーフィールドの町に命からがら逃げてきたときに、クレリアに、助けてもらったのだった。
教会での配給や、市場やレストランでの残飯集めなど、ホームレスとして生きていく術を、クレリアから教えてもらったのだ。
まるで本当のお母さんのように、優しく、手取り足取り教えて、面倒を見てくれた。
とはいえ、クレリアだって、生まれたときからホームレスだったわけではない。
クレリアは、このスノーフィールドで薬屋を経営していたのだが、安価で高性能なセレナの薬に圧倒されて、経営が悪化し、多額の借金を抱えたまま廃業を余儀なくされたのであった。
そして、収入がなくなったクレリアは、お店も住むところも失い、この橋のたもとへたどり着いたのだった。
クレリアは、自分で調合した薬を飲んでいたけれど、劇的な効果は得られなかった。
このまま熱が下がらなければ、死んでしまう。それは、薬学の勉強をおろそかにしていたリアナにさえ、予想できた。
リアナは、苦しそうに肩で息をするクレリアの前で、悔しくなって、こぶしを握り締めた。
──セレナの治療薬さえあれば…。
天啓の才能、”薬師”によって生み出される、聖女セレナの回復薬は、常識では考えられない効果を秘めている。
一口飲めば、間違いなくあっという間に治るだろう。
問題は、今のリアナにそれを買うお金がないことである。
セレナしかつくることのできない薬は、いくら値段を吊り上げても、その効果のおかげで飛ぶように売れ続けている。バスラ王国の収入源の柱の一つになるほどだ。
だから、値段が途方もなく高い。一部の貴族や聖職者、あるいは大物政治家や大商人しか購入ができないものになっていた。
「リ…リアナさん、病気がうつっちゃうといけないから…、もう、帰りなさい…」
こんなときでも、自分の心配をしてくれるクレリアをみて、リアナは、薬局からセレナの薬、治療薬を盗んでこようと心に決めた。
「待っててね。すぐ、もどるから」
リアナはクレリアの家を出ると、覚悟を決めるかのように、ギュっと唇をかみしめて、走り出した。
(つづく)
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