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07.秋は夕暮れ
いつの間にか夕方にながれる音楽が夕焼け小焼けになっていた。もうすぐ、また何度目かの冬が来る。
行きつけの喫茶店で、取材用の手帳を眺める。新聞記者として働いてく中で使い切って新しい手帳に何冊もかえてきたが、この手帳だけはずっと持っている。
僕の、原点のような事件について書いてあるから。
出来れば、この事件については解決したい。そう思っているのだが、そろそろ定年の文字も見えている。
「申し訳ないがその事件からは手を引いてもらおうか」
突然目の前から声がして、あわてて顔を上げる。
僕以外客はいなかったはずなのに、いつの間にか目の前に男が座っていた。ドアのベルが、なった気配はなかったのに。
カウンターの方を伺うが、マスターの姿が見えない。
黒いマントを羽織ったその男は、すっと腕を前に伸ばし、
「あっ」
阻止するまもなく、僕の手から手帳を取り上げた。
「四人家族殺人失踪事件、連続誘拐事件、ハーメルンの笛折男事件」
手帳を軽く振りながら男が言う。
それは確かに、僕が調べていた事件だし、その手帳に書いてあるものだ。
「そこに黒衣の騎士まで絡めてひとつの事件として捉えているのはさすがだね。だが、」
男が机の上においてある新聞紙を指さす。行方不明だったチェスの最年少チャンピオンが見つかったという記事。そして彼はしばらくチェスから離れるらしいという記事だ。
「柊歩を巻き込んだのは真実を知るためとはいえ、やりすぎじゃないかね?」
こちらを見てるはずなのに、男の顔はよくわからない。そこだけモヤがかかったように感じる。
だが、男が怒っていることはわかる。
「なんの、ことだか……」
「柊歩に黒のチェスを渡したのは君だろ? 黒衣の騎士が魔神を倒した桜の木。魔神の灰を受けて変化していったその木が生み出した、悪の力」
答えない。図星だったからだ。
妻の両親は殺され、妻は誘拐され、兄は行方不明。その兄がハーメルンの笛折男ではないかと僕は疑っている。そして、物語は続く。
「そこまで知っているのなら逆に聞きます。あの時、黒衣の騎士に倒されたのは、ハーメルンの笛折男ですよね?」
僕の質問にも、男は答えない。
なんのことだ? とは言わない。それが、答えだ。
「わからないんです。なぜ、妻の兄がそんなことになったのか。知りたいんです。妻をお兄さんに会わせてあげられないのならせめて、なぜそんなことになったのかを」
「知る必要はないことだ」
「でも!」
「知れば君はもう愛する家族の元に帰れないかもしれない。それでも?」
それは、困る。
「黒衣の騎士は尊敬する師を失った、柊歩は贖罪として愛するチェスから離れようとしている。アレにかかわると、ろくなことにならない」
「魔神だか、邪神だかと?」
「触らぬ神に祟りなしと言うだろ?」
「じゃあ、あなたは?」
「ろくなことになってないのは間違いない」
ふっと男が笑った気がした。
「悪いことは言わない。この件にはもう触れるな。愛する家族と平和な老後を過ごしたいのなら」
男が立ち上がる。
「それが家族のためでもある。言われただろ?」
男が身を屈めて、こちらの耳元に近づきながら言った。
「サチのことをよろしく、と」
「なんでそれを!」
声をあげた瞬間には、目の前から男が消えていた。
「えっ……」
驚いて立ち上がりかけた僕は、呆然と店内を見回す。
他に客はいない。
「どうしました?」
カウンターで豆の選別をしていたマスターが驚いたようにこちらを見てきた。
「突然立ち上がって」
マスターはずっとそこにいたような空気を出していた。いなかった、はずなのに。
「あ、いや……。うっかり、寝てたみたいで」
苦し紛れにそんなこというと、
「ああ。おつかれですか? 家帰って休むのも手ですよ」
そんなことを言われる。
そうだなとか笑いながら、椅子に座り直す。
あのマントの男はいたはずなのに、欠片も気配を残さず消えてしまった。夢でないのは確かだ。僕の手帳は無くなっている。
最後の、あの言葉。あれは、昔、妻にプロポーズしようとしたときに通りすがりの男性に言われた言葉だ。多分、あの人こそが妻の兄なのだ。
やはり、お兄さんとマントの男は繋がっているのか。
ひとつ、ため息。
あんな不思議な存在と、確かにこれ以上関わらない方がいいのかもしれない。
手元の新聞に目を落とす。柊歩もこんなことに巻き込むつもりはなかったんだ。ただ、件の宗教の大元に繋がれば良いと思っただけで。
結局、言い訳かもな。
荷物をまとめると、立ち上がる。
「ご馳走様」
「いつもありがとうございます」
会計を済ませて店を出る。
入った時には明るかったのに、暗くなり始めていた。
「秋は日が暮れるのがはやいですね」
マスターが言う。
「ホントだな」
「でも、秋の夕方っていいですよね。なんかこう、神秘的で」
「神秘的?」
「しんみりしてません?」
そうかもな、なんて適当に笑うと家に向かう。
向かいから歩いてくる人の顔が、暗くて見えにくい。
誰そ彼時っていうもんな、と思う。
ああ、あのマントの男は黄昏時のような男だった。顔も不思議とよくわからず、ふっと消える。あの世とこの世の境にいるような。
「あら、あなた?」
振り返ると妻がいた。スーパーの袋を持っている。
「今日はもうおかえりですか」
「ああ」
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
そうして並んで歩き出す。
「よく、僕だってわかったね。夕方で、暗いのに」
そういうと妻は楽しそうに笑った。
「どれだけ一緒にいると思ってるんですか? 当たり前ですよ」
そうか、もう三十年近くは一緒にいるんだっけ。彼女がお兄さんと過ごしたよりも、長い時間僕はすごしている。
そう考えたら、本当にもういいのかもしれない。諦めて、しまっても。
「どうかしました? なんか、少し晴れ晴れとしてるけど寂しそう」
「よく見てるね。ありがとう」
手放そう。この先の未来を、平穏に過ごすために。
「長く抱えてた案件に一応区切りがついたからさ」
「じゃあ、お祝いがいるかしら?」
クスクスと妻が笑う。この笑顔で十分なのだ。
日が、完全に落ちた。
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