門番

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門番

 彼は今でもはっきりと覚えている。あの日、遠いところを目指し荒野を進んでいたが、足は疲れ頭もくらくらと、ぼろ毛布を地面に敷いて仮眠を取ることにしたのだった。辺り一帯は乾いた砂礫とまばらな草ばかりで、視界を遮るようなものはなかった。無論人影もなく、天頂を超えた太陽があとは落ちるばかり。寒くなれば目覚めるだろうと大して警戒もせずすぐに寝入った。  果たして急に冷え込んできた気温に身震いして起きた彼の、寝ぼけ眼を赤紫の光が満たした。起き上がった顔の正面に、地平線へ沈みゆく天体があった。そこまでの道筋を作るように両脇には巨大な箪笥が立ち並び、釘や取っ手の凹凸が作る深い陰影は家具の意匠を見ることを許さず、断崖絶壁と言っても差し支えなかった。そしてずらりと整列した箪笥にはこれまた巨大な足が何十本とぶら下がっていた。立ち上がって手を伸ばしてもぎりぎり届かない高さで不規則に揺れるフラットシューズの靴底、膝の位置が箪笥の角に当たり、その先には上半身が続いているようだった。逆光の中で踊る黒い棒の伴奏には、聞き覚えのない言葉による会話と忍び笑いがあった。時折甲高い笑い声が耳を劈き、その時だけ堪らず体を折った様子の足の主たちの顔が見えた。臆面もなく歯を剥き出した女たち。おかっぱの幼い顔立ちは、しかし顔だけで彼の身長ほどもあるのだった。  彼は周囲の変わりように寝起きの頭なりに驚愕した。乾いた喉からは声も出ず、呆然と光景を瞳に映していた。身の丈に不釣り合いな尺のものどもの圧から逃れようと真上を見ると、区切られた空を疾駆する雲は毒々しい色に染まり刻々と形を変えて流れていった。  夕陽は次第に平らに潰れて、彼に時間が流れていることを教えたが、代わりに地上から熱を奪い去っていってしまった。彼は震えながらそこにじっとしていた。夜が近付くにつれ、得体の知れないものの存在感が希薄になっていくようだった。日が沈んでもしばらくは箪笥と足の群れが透けて見えていたが、月の輪郭が明瞭になるのに反比例して薄くなり、ついには霧散してしまった。  いつの日か遠いところを目指すこともなくなり、あれ以来彼が夕焼けの中の箪笥群に出くわしたことはない。話を聞いた友人がこぞって合わせ鏡だ幻覚だと言うので、あの時振り返ってみたら良かったと後悔ばかり募っていく。きっとそうしていたらあちら側に迎え入れられていたような、そんな確信が彼にはあるのである。
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