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2・
みどり煌めく丘の上に、爽やかな風が吹き抜ける。
丘に広がるクローバー畑も、足元に咲くタンポポの花も。十五年前のあの日と何も変わらない。久しぶりに思い出の丘の上に立ち、あの日に心が戻っていく。
「お願い、そのプロポーズは少し待ってくれない?」、必死で歎願した。
大樹が差し出すダイアモンドの指輪を押し戻したあの日が、ふいに記憶の中に鮮やかに蘇る。
「アタシね、やっと【小説・浮雲】の新人賞に選ばれたの。夢だった小説家への道が開けたばかりなのよ」
「ねぇ、分かってよ」
手を合わせて拝んだものだ。
恋人と言ってもまだプラトニック・ラブ。晩熟の彼女の為に、男の欲望を我慢し続けて来た大樹の我慢も、きっともう限界だったのだろう。
あの五月の日曜日。
何度も一緒にピクニックに来たこの丘の上に彼女を連れて来た大樹は、いきなりダイアモンドの指輪を差し出すと。熱く彼女を見つめてプロポーズに及んだのである。
まさに電撃的な求婚だった。
そんな大樹は兄の親友で。彼と初めて会ったのは、まだ幼稚園児の頃だった。
彼女と兄は開業医の子供で、二人の両親は仲の良い夫婦だったが。彼らは医学部の同期で、恋に堕ちた頃の彼らはまだ貧しい研修医だった。
恋する二人はそのままゴールイン。二年後に授かった兄の喜一郎を抱えて、必死で医学に、子育てにと。奮闘を重ねて苦労したようだ。
そんな二人が開業にこぎつけたのは、結婚してから十年後のことで。それからやっと授かった二人目の子供が彼女だった。
だから、兄と妹は八歳違い。
兄の親友の大樹も兄と同学年だから、彼女よりも八歳年上だった。家に泊まりに来た兄の中学校の親友に初めてあった頃の彼女は、まだ幼稚園児だったという訳だ。
生意気な幼稚園児だった彼女は、大樹の事を「ダイジュ」と呼んだ。それは兄が大樹につけた渾名で、以来ずっとそう呼んで育ったから。あの時も「ダイジュ」と呼んだ。
あの丘の上で、「ダイジュ、お願い」と。
何度も頼んだのに。
それまでは、彼女のどんな我儘も笑って何でも許してくれたダイジュが、あの時だけは怖い顔でプロポーズの返事を彼女に迫った。
「どうしてだ、瑠衣。ずっと君だけを見つめて来たんだぞ。」
とっても怖い顔をして睨むダイジュ。
「お願い、一年だけで良いから待ってよ」
必死でお願いをした、馬鹿なアタシ。
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