夕映えの柿

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*  庭木に柿を選ぶ家の多い地域だった。実れば収穫して親戚連中に配ることもあるが、たいていは飽きて放置している。柿は見向きもされずに地面に落ちて、甘く腐った匂いを漂わせた。  田舎なので土地だけはやたらと広い。庭の樹木は大きく育ち、はしごを使わなければ手の届かない位置になる実も多かった。伸びた枝は道路の上にもはみ出して、実はそこに落ちて潰れてさらに轢かれ、饐えた匂いが道に染みつく。  秋の夕暮れは薄暗くなって視界が悪くなっても、その匂いで近くに柿の木があることが知れた。  高校生となった私は足元から漂う柿の匂いを嗅ぎながら、学校からの帰り道を歩いていた。  ――柿はおばあちゃんを殺した木。  太陽の沈みゆく夕暮れに、そんなことを歌うように唱えながら道を歩く。両親とともに暮らしていた街には柿の木を植えた家などなかったから、果樹を植える家の多い田舎の道が物珍しく、嬉しい。  両親の別居と離婚に振り回されて、私は落ち着くために祖父の家に同居するようになった。ビルに遮られることなくどこまでも夕陽の差し込む静かな田舎の町が私には向いている。人通りの少ない道を歩くのは、都会の人目を気にしてうつむいて歩いていたあの頃よりも楽しい。  どの木が殺した。あの木か、あの木か――。  尚も歌うように道を歩む。殺したのなら、祖父の家の柿の木だろうとは思うけれど、本当のところは何も知らない。  あれは祖父の作り話で、祖母は本当は病気で亡くなったのかもしれないし、事故に遭って亡くなったのかもしれない。私が産まれる前に亡くなった人なので、私自身は会ったこともないし顔も知らない。そんな人の死因について私に聞かせる人はいなかったし、私の中には祖父の話が根付いていたから、私も深く疑問に感じることもなかった。  わざわざ誰かに尋ねることもない。祖母は柿の実が落ちて死んだのだから。  作り話だろうと嘘だろうと、それが私に馴染んでしまった。今更訊くものでもないと思う。  視線を上げると、柿の目がこちらを見ていた。  ――祖母の顔も知らないままだが、私はいつしか枝になる実に祖母の顔を見るようになっていた。  橙色に照る実が夕陽を受けていっそう鮮やかに光る。その柿が老婆の顔をしているのだ。  顔も知らないわけだから、頭が勝手に空白の祖母の顔を想像で作りだす。何人もの祖母の顔を柿に描き出し、いくつもの柿がいくつもの人面に見える。それぞれ違う老婆の顔だ。  柿を見るたびそうして私は祖母に出会う。いくつかにひとつはあの野良犬の顔をしていて、その顔はちょうど実が頭に落ちて呻いた瞬間の表情だったりする。  ーーぐげぇ。  そう言っただろうか。  またも頭は勝手に想像で呻き声を作り出し、柿の顔に叫ばせる。苦悶の顔の柿たちが口々にぐぇ、と言って自らの重さで揺れる。  風が吹けばどれかは落ちるだろうか。風など吹かなくても自重で落ちるだろうか。道にはいくつも潰れて腐った柿があるというのに、自然に落ちた瞬間になど居合わせたことがない。  ――おじいちゃんが特別なんだ。  指を差すだけで柿の実を落とすことが出来る。幼い想像をしてくすくすと笑った。 「もう日が暮れるぞ」  誰もいないと思っていたのに声をかけられ、驚いた。けれど声の主が誰なのかは明白で、私は笑って振り返る。 「おじいちゃん」 「学校はとうに終わってる時間だろう。なにをもたもた歩いてるんだ」  あの頃よりも歯の減った口で、そのくせ不思議と流暢にしゃべる祖父。残った歯はやはりヤニで汚れている。小賢しく幼かった頃の私は祖父のことを軽んじていたけれど、あの柿の実を落とした瞬間から、私は祖父に懐くようになった。両親に振り回される私を憐れんで同居してくれるのも有り難い。 「お散歩気分で」 「こんな田舎道の何が面白いんだか」  つまらなそうに言ってから、人さらいに連れてかれても知らんぞ、と口にする。用心を促す祖父の言葉は古くさい。 「心配してくれるんだね、おじいちゃん」 「心配なんぞ」  祖父はふと顔を上げると、「落ちるな」と呟いた。視線の先を辿ればそれは先ほど目が合った柿の実だった。その顔が痛みに歪んだと思ったら、枝から取れて地面に落ちた。  ぐげぇ。  頭の中で聞こえる祖母の叫びは祖父の耳には届かない。祖父は落ちて潰れた柿を拾うと、拭いもせずにそれを口に運んだ。汁が口の端を伝って落ちる。 「家にも柿の木あるんだから、それを食べればいいのに」 「落ちたやつが美味いんだ」  熟して熟して、枝が支えきれないほどに甘く重くなったものが落ちるのだというのが祖父の持論だ。だから落ちた瞬間の実がもっとも美味しいのだと言う。熟さずに落ちる実もあるだろうに。 「お前も食うか」  差し出された食べかけの老婆を、私は首を振って断る。嫌悪したわけではなく、純粋に祖父に味わってほしいと思ったからだ。  日が沈んで暗くなった道を二人歩く。隣の祖父からは甘い柿の匂いが漂っていた。
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