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柿のことを気にしてばかりいたからだろうか、外の風に当たりすぎて体に寒気を覚え始めた。寒気がする、と自覚した時にはもう遅く、翌朝には布団から起き上がれなくなっていた。
――空気の入れ替えが出来ない。
祖父から唯一託された役目だというのに……。食事は私も自発的に作ったし、掃除もしていた。けれど祖父から直々に頼まれたお役目ごとはそのひとつだけだったので、任されたこともこなせなくなってしまったことに落ち込んだ。
そのまま寝入り、夕暮れの時間にふと目が覚めた。
……匂いが。
漂っている。柿の匂い。柿の木があるのは外なのに、どうしてこんなにきつく匂ってくるのだろう。締め切っているのだから柿の匂いなどこれほど濃厚に漂うはずもないのに。
ぼんやりと開けていた目を、じっと凝らす。と、傍らに祖父がいることに気が付いた。私の枕元に柿を懸命に盛っている。それはまるで月見をする際の団子のようにカゴに盛られており、部屋に充満していたのはこの香りだったのかと理解した。
「おじいちゃん……」
声をかけると祖父ははっと顔を上げた。
「どうして柿、こんなに」
「全部落ちんのももったいないからな。お前は食べるだろう」
カゴに盛られた老婆たちが私を見ていた。宝船に乗った七福神のような福々しい表情をしている柿はなく、どれも陰鬱な顔を見せている。そのうちのひとつが突然、にこりっと笑った。くっきりと深い皺を更に深めて、にこりっ、としたのだ。
私は思わずその顔をした柿を手に取った。山のように盛られた柿が崩れて祖父が狼狽した。
「ねぇ、この柿、もしかしてこれが一番似ていない?」
嬉しくなって問いかけてから、そうだ、柿に顔などありはしないのだった、と思い出す。私の頭が勝手に描き出しているにすぎない老婆の顔など、祖父に見えはしないだろう。
柿を手にしたまま固まってしまった私を見て、祖父は「……いや」と答えた。
「こいつは似てない。あいつはもっと違うんだ」
私の手から笑顔の老婆を取り上げて、手元に置いていた果物ナイフで皮を剥いていく。
「おじいちゃんにも、柿の顔が見えるの?」
皮を剥かれて差し出された柿を食べながら問う。
「たまにな。落ちて潰れたやつが一番似てる」
その瞳が夢見るように穏やかに細められた時、外からべしゃりべしゃりと音が聞こえた。途端にむっと香る甘い柿の匂い。おそらく庭の木が実を落としているところなのだ。
「柿が!」祖父は弾かれたように立ち上がると、ガラス戸を開けて裸足のまま庭に飛び出した。潰れた柿を、祖父は拾わずにはいられない。
あんなにたくさん実っていたっけ――と布団の中で私は柿の木を見上げる。夕陽を受けて艶やかに輝きながら、庭に下りた祖父の元へといくつもいくつも落ちていく。
落ちた柿を拾い上げて祖父は喜んでいた。
潰れた柿の老婆が祖父の手の中で、にこりっ、とした。皺の濃い笑顔。
その笑顔と顔を見合わせて祖父が笑いかけ、柿を口にした瞬間、ごしゃっと鈍い音がした。
「おじいちゃん」
祖父の脳天に、柿が当たった音だった。
真っ赤な景色の中で、祖父の血なのか柿の汁なのか分からない液体が飛んだ。
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