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「行ってらっしゃい、あなた」
「ああ」
「パパ! 行かないで!」
パパ、と呼ばれた男はしゃがみ込むと、小さな赤い双眸をじっと見つめた。今にも泣き出しそうな瞳が自分を見つめている。
大好きな父親と離れたくないと思うのは、どの世界でも共通の子の思いなのだろう。
男は思わず緩んでしまった口元を引き締め、小さな手を握る。
指先から伸びる爪はまだまだ短く、自分のそれとは到底比べものにならないほど幼い。握った手の中で触れても、痛いどころか擽ったいだけの小さな爪が愛おしい。
「いいか、解。パパはこれからお仕事だ。ママの言うことを聞いていい子にしてるんだぞ? それから、ママをしっかり守るんだ。それが解の仕事だ。いいな?」
男は指先に伸びた長い爪で、器用に解の赤毛を梳く。瞳の色と揃いの髪は母親譲りで、闇の中にあっても美しく煌めいて見える。
息子のものより五倍ほどはあるだろう長さの爪の先はまるでアイスピックのように尖り、今までに何人の命を奪ってきただろうか。
先の尖ったその爪に掠められれば生き物などひとたまりもない。だが愛しい我が子には触れずにいられないのが親というものだろう。
「……うん。行ってらっしゃい」
解は男の紫色の瞳を見上げ、憧憬の眼差しで見つめた。
大好きな、父親の姿だった。
「ああ、行ってくるよ。いい子にしてるんだぞ?」
「うん。ぼく、ちゃんとママを守るよ!」
真剣な表情に、男は黙って頷く。
「さあ、解、そろそろ門が開くから行きましょう」
「ぼく、もうちょっとくらい平気だよ」
「そんなこと言って。門が開いたら光が差し込んで、とっても眩しいのよ? 解のお目目が潰れちゃうわ」
母親に窘められると、解は仕方なく手を引かれ門を離れた。
あの門の向こうに人間の世界というものがあり、魂のリストに沿って死者を迎えに行くのだ。
善人であったならば苦痛から解放し安らかに、悪人であったならば痛みを与え制裁を下す。
生と死の間を行き来する、人ならざる者ではあるが、家族に向けられる思いにはいささかの曇りもない。
どこか切なさを駆り立てる昼と夜の間。
光が闇に飲み込まれていく不思議なひとときに、人も、人ならざる者たちも、闇に塗れて動き出す。
end.
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