雪と梅

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ーーー別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。    花は毎年必ず咲きます。                             川端康成ーーー    昔の話だ。  灰色の空からちらつく小雪を見ながら、妻の紗枝(さえ)が聞いてきた。 「ねえ正樹(まさき)、梅の花、知ってる?」  当時の俺は、梅と桜と桃のちがいがあまりわかってなかった。  うーん…と、返事をにごした。  というのも、少し前におでんを作ろうとふたりで買い物に出かけたとき、蕪を選んで大笑いされたのを思い出したからだ。俺は、大根と蕪は形が違うだけの同じ野菜だと思っていた。  花のことを言っているわけではなかった。 「実家(うち)ではね、猫の足あとのことを『梅の花』って言ってたの。固まってないセメントの上を歩いたあととかね、それっぽくない?」  なるほど。 「もしかしたら、明日の朝ベランダで見られるかも」  妻はキャットフードを盛った小皿と使い捨てカイロをくるんだ古タオルを 雪のかからない軒下において、窓とカーテンを閉めた。ニャウと呼んでいる通い猫の訪問に備えて。  翌朝窓を開けると、雪がうっすらと積もっていた。  小皿は空になっていて、ベランダには「梅の花」が規則的に咲いていた。東側から小皿へまっすぐ、そしてそこから西側へまっすぐ。  俺は「梅の花」をおぼえた。    その後ニャウはうちに居ついて飼い猫となり、推定15歳で天寿を全うした。  そして俺はそれから何日も経たないうちに、妻の前から消えた。  ペットロスに陥った妻が不愉快だった。すごく勝手な理由だ。  家に帰らず、ひそかに付き合っている彼女のところに転がりこんだ。  間もなくそれは妻の知るところとなり、離婚届をつきつけられた。彼女にも既婚者とバレて、関係は消滅した。  当然だ。正当な事情など全く見当たらない。  雪と梅を見ると強く疼く傷の話だ。
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