私の滑らない話―夏、京都にて―

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 数年後、社会人となった私は、六道珍皇寺付近に住む職場の先輩にあの夏の経験を話した。笑い話として軽く話したつもりが、どうも辻褄が合わないと先輩は首をかしげていた。  まず、その付近に公園は無いと言う。鴨川の手前、川端通と松原通の角に少し大きめの公園があるらしいが、私が見た公園の特徴には当てはまらなかった。 「道なりにある三角州のような小さい公園で、子供が乗れるバネで跳ねる遊具とブランコがあって……」  どれだけ細かく説明しても、先輩はただ首を横に振るだけだった。  また、建仁寺の門と私が歩いたはずのルートも合わないと指摘された。  私は「みなとや」を通りすぎ、えべっさんで有名な恵比須神社のある大和大路通を歩いたと思っていた。しかし、大和大路通を歩くと建仁寺の門を通るには右折して六道珍皇寺側に戻らねばならないと言う。  家に帰ろうとしているのに、わざわざ元来た方角へ戻ってまで境内を通り抜けるのは、自分の性格上無いはずである。記憶違いで「みなとや」の手前で右折したとしても公園は無く、帰路と公園の謎は解けずじまいだった。 「ハッピー六原に自転車が一台も停まってへんとか見たことないわ」  先輩がそう言うと、同僚たちも興味を無くしたのか次の話題へ切り替わった。  ちなみにその先輩はオカルト否定派ではない上に、後日身をもって体験もしている。決して頭ごなしに否定されていたわけではないことはご理解いただきたい。  この不思議な体験を話すと、ある人は「狸か狐に化かされたん?」と言い、またある人は「異世界に飛んでたんちゃう?」と言う。話をすればするほど、自分の中でも疑問の残る体験であるが、一つだけ、皆口を揃えて言う言葉があった。 「夕方に行くからやん」  オカルトと言われる類を信じていないわけではなかったが、この体験をして初めて夕暮れ時を「逢魔が時」と先人が名付けた理由がわかった気がした。  以来、夕方に寺社仏閣へ足を運ぶのは控えようと心に決めている。
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