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美佳子は泣いたまま、そうねとも言わず、頷きもしなかった。本当だったら自分も再就職をしていただろうし、夫は昇進していた。それを諦めることになる。でもそれも、平穏に過ごしていく為。頑張っていく人達もいるだろうが、僕と美佳子は穏やかで質素な道を選ぶ。
「ほら、梨佳があんなに先に行ってしまった。見失ってしまう。急ごう」
力無く歩く妻の肩を抱いて、僕達は歩き出す。
「……時も、そうだった」
僕の胸元で美佳子が何かを呟いた。
「え?」
「初めてボンゴレを食べさせてくれた夜も、徹平君はそうして私を楽にさせてくれた」
「うん……」
そこで美佳子はポケットからハンカチを取り出し、急に涙をごしごしと拭いて毅然とした顔を懸命に整えるべく乱れた髪も手で整え、しゃんと背筋を伸ばし、僕の胸から離れていった。
「好きよ。徹平君。あの時からずうっと好き」
人混みの参道で僕は思わず立ち止まり呆然としてしまった。
「なななな、なに急に、こんなところで」
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