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キッチンからそんな声、彼女がこちらに向かってくる足音。僕はふいに顔を背けてしまう。
「おかえりなさ……」
彼女の息が止まるのを僕は耳にした。
「それ、口の。どうしたの!?」
「うん、ちょっとね」
まともに彼女の顔が見れず、僕は俯いたまま靴を脱いであがる。紳士服店で結んだばかりのネクタイをほどきながら、彼女をスッと避けるようにして寝室へ向かった。
「ちょっとね、じゃないわよ。それ。どこかで転んだの?」
『そう。転んだんだ。僕ってバカだよな』と笑い飛ばしたい。そんな嘘でやり過ごしたい。でも、そんな嘘をついて後であの会社の誰かの口から美佳子が聞きつけたら『どうして本当のことを言ってくれなかったのか』と新妻としても気を悪くすることだろう。しかもあの男が殴ったことを黙っていたなんて後になって知る方が美佳子に取っては良い気はしないだろう。
「手こずったクレームがあって。顧客と担当の取り次ぎのことで、営業とコンサルでいざこざしたんだ」
そう言っただけで、美佳子が口元を押さえ愕然とした顔。見る見る間に彼女の顔が青ざめた。
「もしかして。彼が……?」
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