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「猫の額」って言い方、あれ大げさだと思うの。
猫だって、人間に化けちゃえば、それなりにおでこありますから。
私は猫だ。齢にして2歳。
現在、女子高生に化けて、「伊端 珠」という名前で人間と一緒に学校へ通っています。
理由は、楽しそうだから。
私、高校って言うのは若い人間ばかりが集まる場所だと思っていたのですが、そうではないんですね。
ここには生徒に勉強を教える大人の人間がいて、教師とか先生って呼ばれています。
この学校にも沢山の先生がいて、それぞれの教科はもちろん、各クラスにも1人ずつ担任の先生が付いています。
私たち1年C組の担任は、現代文の御嶽澤先生。
見た目はちよっと怖いけど、授業はとっても分かりやすいです。
私はまだ入学したばかりなので、御嶽澤先生と授業以外で話したことはあまりありません。入学した時に、少しお話したくらい。
でも、教師と呼ばれる職業の人間がどんな人たちなのかとても興味があるので、いつか御嶽澤先生とも距離が縮まって色々なお話を聞ければ良いなと思いながら、今日も皆と一緒に登校しています。
そういう意味だと、先生との距離に限って言えば、猫の額くらい縮まってくれると嬉しいかな。
* * * * *
「やば、キョーコちゃんだ」
昼休みの廊下。向かい側から歩いてくる人影を見て、男子生徒2人が慌てて身を隠す。
「待ちな」
張りのある声と共に近付いてきたのは、パーカーにジャージズボンという出で立ちの女性教師。髪を一括りにし、眼鏡の奥から放たれる切れ長の鋭い眼光が、逃げようとした男子生徒の足を射すくめる。
「今隠したもん、出して」
「いや、なんも隠してないっすよ! なぁ」
「そ、そうそう。俺ら飯食ってただけなんで」
その瞬間、彼女のスニーカーが廊下の床を「ッタァァン!!」と踏み鳴らす。
銃声の如きその威嚇音に縮み上がった生徒2人は、思わず身をすくめる。その拍子に、学ランの下へ咄嗟に隠しておいた携帯ゲーム機が床に落ちた。彼女の手が素早くそれを拾い上げる。
「没収」
「そ、そんな殺生な! DLC買ったばっかなのに!」
「見逃してよ、キョーコちゃ~ん」
「来週の火曜、反省文と引き換えに取りに来な」
彼女は去り際のひと睨みで男子生徒2人を黙らせると、没収したゲーム機を携えて颯爽と去っていく。
彼女の名は御嶽澤香子。
1年C組の担任にして、この学校の生活指導を担当している。
教師歴10年。
赴任先でことごとく生活指導を受け持ってきた彼女は、数々の問題児を黙らせてきたベテラン鬼教師である。
煙草が横行していた前任校では徹底的な持ち物検査の下、流通元となっていた生徒のグループを摘発し、校内における火の気を根絶やしにした。彼女は生徒からの反発を防ぐために教師の校内喫煙も全面禁止としたため、とばっちりを食らった喫煙者の教師陣は阿鼻叫喚することとなった。
また柔道、合気道をはじめとしてあらゆる武術を体得した彼女は、その存在自体が不良に対する抑止力となっている。
数年前、校舎裏にて3年生数人が下級生に恐喝をはたらいている場面に彼女が遭遇した際、彼女はその場で加害者の3年生全員を投げ飛ばしたという逸話が残っている。職員室に連行された時点で、3年生の殆どが半分気絶した状態であったという。
生徒を射抜くその眼光は蛇よりも鋭く、女子生徒のスカート丈を1mm単位でチェックする。
校内にはびこる不良行為や風紀の乱れを寸分たりとも見逃さない彼女は、いつしか「令和のヤンクミ」と呼ばれるようになって久しい。
32歳、華の独身であるが、彼女に対して独身であることを揶揄した生徒は辞世の句を余儀なくされる。
そんな彼女が現在勤務しているこの学校でも、彼女の働きにより、校内の風紀は創立以来例を見ないほど安定していた。
もっとも、この学校は元から特に荒れているわけでもなく、摘発するべき事柄と言えば不要物の持ち込みや服装・髪型の乱れくらいであるが、そんな僅かな風紀の乱れに対しても彼女は全力で取り締まりを行っている。
そのため、国語科職員室にある彼女の机の引き出しには、生徒から没収されたゲーム機やカード、いかがわしい本の類が常にぎっしりと収容されている。
しかし、そんな彼女にはこの学校で、唯一の弱点がある。
「御嶽澤先生」
廊下で呼び止められ、御嶽澤が振り向くと、そこには彼女が担当するクラスの女子生徒が1人立っていた。
彼女の名前は伊端珠。先月、C組に転入してきたばかりだ。
「これ、学級日誌です。今職員室に伺おうと思ってたんですけど、ここでお渡ししてもよろしいですか?」
「ああ……ここで良いよ。ご苦労様」
御嶽澤は本日の日直である伊端珠から、学級日誌を受け取る。
伊端は、御嶽澤が見た限りでは今のところ、特に問題児というわけでもない。転入したばかりのクラスでもうまくやれているようだ。
ただ、何故か転入前の学校の情報が一切無いという、謎の生徒だった。
……いや、「何故か」といってもぶっちゃけ、御嶽澤はその理由を知っている。
「伊端さん」
御嶽澤は伊端の服装に目を止めた。
「セーターの下、シャツが出てる。だらしないし、風邪引くよ」
「えっ、本当ですか? ちゃんと入れたつもりだったんですけど、すみません……これでどうですか、後ろとか出てないですか?」
伊端はシャツをスカートに入れ込み、御嶽澤に背中を見せて確認する。
その時、御嶽澤の鋭い眼光が、伊端の腰を捉えた。
伊端のスカートとセーターの隙間からは、明らかに猫の尻尾と思わしきふさふさの毛の塊が、ひょこっと飛び出している。
しかし、御嶽澤は指で眼鏡を押し上げた後、
「……よろしい」
とだけ言った。
「寒いから、セーターはしっかり下げた方が良いですよ」
「分かりました! ありがとうございます!」
伊端がセーターを下げ、尻尾がその下に隠れる。
「それでは失礼します! 先生、また明日!」
「……また明日」
廊下を去っていく伊端を見送りながら、御嶽澤は廊下にしばし佇んだ。
職員室に戻り、机に付いた彼女は暫く何か考え込んだ後、ノートパソコンを立ち上げ、検索エンジンを開いてキーボードを叩く。
そこには、「猫の尻尾 手触り」の文字。
御嶽澤香子、32歳。
大の猫好きである彼女は、伊端珠にめっぽう甘い。
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