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ー 夜明け ー
悴むほどの指先を自らの吐息で温めながら歩くオフィス街、まだ日が昇り始めた頃の午前五時半、周囲は薄暗く人影は殆どない。
駅からの真っすぐな道を進むと、一際目立つ明かりの灯るカフェが視界に入る。
扉を開けると更に早番出勤の担当が、仕込みを終え焼き上げた香ばしいパンの香りと、温かな焼き窯の熱で凍えた身体を優しく包み込む様に迎えてくれる。
「おはよう雫」
「おはようございます。楓花さん」
「あんたどうしたの? 指先真っ赤だよっ」
「えへっ、また、手袋忘れちゃいました」
冷たく悴む真っ赤に染まる指先を、婚約会見の指輪を披露する芸能人の様にドヤ顔で見せつける雫。
「普通、玄関出た直後に気が付くでしょっ?」
「今朝も寝坊でギリギリなのです。はいっ」
「うふふふっ、雫らしくて朝から元気もらったわ。今日も忙しくなるよっ」
「はいっ。がんばりますっ」
食品を扱う仕事のため、調理は勿論洗い物を終えるまでは指先を保護するハンドクリームは使用できない。ようやく治ったあかぎれ、極力お湯に触れる事を最低限に水洗いや食器洗い専用ビニール手袋と自分なりに自己管理は心がけているつもりだが、止むを得ないアルコール消毒と悴む指を保護するための手袋を忘れた代償は毎日の努力をあざ笑うかのように、一日で真っ赤な手荒れとあかぎれ予備軍となる。
女性ながらこのカフェの店長を任されている楓花さんは、末端のアルバイトである私に対し、いつも気遣い声を掛けてくれる優しいお姉さんであり、雫にとって憧れの社会人女性だった。
店の扉を開放し、看板を「OPEN」へと差し替える時、真っすぐな道路を見つめる雫は通りを歩く一人の男性をじっと見つめていた。
「ほら、雫っ! お客様ご案内してっ」
「あっ、はいっ。すみません。いらっしゃいませ」
午前六時、お店のオープンと共に朝型生活のビジネスマン達が来店し、瞬く間に店内はほぼ満席状態となる。世の中のサラリーマン達の殆どはまだ温もりの残る布団の中で眠りについているか、アラームを止めた自らの心と葛藤している頃だろう。この時間、ここに訪れるお客様はきっと誰よりも努力しているトップビジネスマン。雫は毎朝、そんなお客様をサポート出来る事に喜びを感じていた。
経済学を学ぶため通う大学、将来どんな形でもいいから自らの手で世の中に小さな変化をビジネスを通し与えたい、彼女にとって早朝お店に訪れるお客様達は皆キラキラとした特別な大人の姿だと瞳に映る。
そんな理想の大人の中にいる一風変わった若いビジネスマン。彼は悴む寒さを気にすることなく毎朝一人決まった席に座りモーニングセットを口にする。ランチタイムは賑わうOL達により争奪戦となる屋外席も、寒さが身に染みる早朝に好んで座るのは彼だけだった。
見渡す限りの高層ビルと一直線に伸びるオフィス通りの一本道。
ただ呆然とその道の先を静かに眺める彼の背後から声を掛け、温かなモーニングセットを提供する。
「お待たせ致しました。今朝は冷えますね」
「あっ……、あぁ」
「宜しければ、店内のお席あと一、二席ですが空席ございますのでご利用くださいね」
マニュアル通り毎朝かける言葉――、呆然としながらもビジネスの事を考えているのだろう。
彼は、これまで一度も答える事は無かった。
この日を除いて――
「ありがとう……」
「えっ……」
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