ふたりのまち

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ふたりのまち

ふわり 君の匂いがする洋服を纏っているんだけどさ 同じ時間を過ごしている それじゃダメなのかな 携帯のバイブレーションで目が覚める。優しい眠りから現実に引き戻される感覚に、ムッとした表情と寝起きの無の表情とで、上体を起こし上げる。 気づかない間に眠ってしまっていた。液晶には数件のメッセージの通知と、2:23の文字が行儀良く整列している。 仕事で上手くいかない日は、大体こんな感じの日々を過ごしている。友達に飲みに誘われたり、ネイルの予定を入れたり、映画を見に行ったり、この体が資本となる行事を入れない限り、会社でのフラストレーションと疲労を背負ったまま、メイクを落として風呂に入ることすらままならない。 昨日洗ったばかりのレーヨン素材のブラウスは、すでにシワがついてしまい、週末にはもう一仕事。とはいかなくなってしまっている。せめてダメージの回復を。ともいかないほど、適当に椅子の背もたれに脱ぎ捨て、胸の矯正具を外し、寝るためのダル着に着替える。化粧水入りのメイク落としのプラケースは、ここ数週間はリビングの一員になり、足元のゴミ箱にはベージュの粉末やらピンクの残骸をすり潰した、既に乾き切った先週の私が、死に場所を探している。 こんな私を優しく叱ってくれる奴もいた。 一緒にご飯を食べ、テレビを見て、よれたパンツを洗い、同じベッドで私と同じシャンプーの匂いを放ちながら寝ていた。 一緒にいた時は愛情を込めてそう呼んでいたが、今思うと本当に犬みたいなやつだった。私がいなければ寂しくて死んでしまうと言い放ち、仕事から帰ってきた私に擦り寄り、私の作る料理をガツガツと食べ、寝ていたい休みに限って外に連れ出し、バタバタと忙しく部屋を歩く。そんな奴だった。 私はずっと好きだった。毎日が可もなく不可もなく、当たり前に流れて、何もなく眠りにつく。居心地は良くも悪くもなく、空気であるかと言われれば違うと言い切れる、私の生活の一部にきちんとなっていた。一部になってしまっていたからこそ、未来を容易に想像できなくなってしまった。 今年で25歳になる私には、19歳にして子供を授かり早々に結婚した姉がいる。姉の子供も今年で9歳になり、私もその時は近づいているということを言い聞かせていた最中、周囲の友達がバタバタと結婚をしていく。招待状が届く度に、心の底から喜んでいる反面、まるでオセロの角を一つずつ埋められていくような、包囲網を敷かれているような、そんな焦りはやはり感じていた。 「犬を飼うと婚期を逃す。」中年女性の月刊誌という文献には、そんな殺し文句が並んでいたことを思い出した。私の彼氏として、私のそばで沢山の支えとなっていた奴は、なかなかそういった空気を読むこともできずに、毎日帰ってくる私に尻尾を振り、嬉しそうに飯を食い、私と同じ匂いを放ちながら眠っていた。飼っていたつもりは一切なかった。それでも2歳歳上の女性として、家の中でも外でも、少なからず彼の彼女として、しっかりしていなければという気の回し方が、彼氏を犬へと変貌させ、無意識のうちに飼育していたとしたら、自分で自分の首を絞める天才なのではないかと思う。 そして、仲のいい姉の子供を、結婚式の招待状を、書店に鎮座する結婚情報誌を、友達の旦那の愚痴を、SNSの親族の集まりの投稿を、見る度に、腰のあたりがずっしりと重くなるのを感じていた。 2人で住んでいた部屋は、物の配置を変えたりしたこともあって、彼のいた頃の空気も出て行ってしまった。単純に成人男性の持ち物一式が、賃貸アパートの一室からなくなれば、必然的に部屋内の物量は減る。 ただ広くなっただけで、大して何も変わらないこの部屋が、私が「ひとり」だということを決定付けるナイスアシストを勝手に決めてくる。着けなくなったテレビから、1人でにゴールの音でも聞こえてくるほど、私の心臓の核心の部分にクロスを上げ続けている。 そんなに急かさなくったって、やるときはやる奴。ビックマウスじゃないです。そう言い聞かせて、もう夏は終わって、付けなくなった日記は3ヶ月間を数える。 ここは私の部屋。それは事実だ。 ただ、彼が何も残さなかったことが、かえってここにいづらくなっていくことにも気づかずに、私は今日もこの町の営みの一部となっている。 私の部屋。ふたりのまち。「2人のものだった」ということを捨てる勇気もない私は、部屋の電気を消して、明日の朝風呂を逆算したアラームをセットする。今日も布団は私の匂いがする。
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