第一章(1)秋空に泣く

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第一章(1)秋空に泣く

b6d23491-4548-418a-8f04-ccdeedf43ebd 「僕と結婚して下さい」  そう言った声は、微かに震えていた。  普段は寡黙な彼が、いつになく真剣な表情で、勇気を出して私に告白してくれた。  私だけを、まっすぐ見つめてくれていた。  その事実が嬉しくて、私の頬を涙が伝い落ちた。 「……はい」  精一杯の微笑みを浮かべて、私は指輪を受け取った。  あの時のことは、今でも忘れることができない大切な思い出だ。  だからこそ、現状を歯痒く思うのだ。  私の他に誰も居ないリビングは、独りで過ごすには広すぎる。  仕方なく、レンタルしたDVDを観ようとして。  恋愛映画だったことを思い出し、やめた。  夫は今日も出掛けてしまった。  将棋を指すために。  彼を束縛したくはなかった。  束縛は、夫と妻の両方にとって良好な関係だとは思えなかった。  だから遠慮がちに夫が「将棋道場に行きたいんだけど」と言い出した時、私は快く彼を送り出した。  それまで趣味らしい趣味の無かった彼に夢中になるものが見つかったことを、むしろ喜んでもいた。  それが甘かった。  あの時引き留めていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。  テレビをかけると、中学生で将棋のプロになった子の特集が組まれていた。  それがきっかけだったのか。たまたま職場の同僚が将棋好きだったというのも、影響していたのかもしれないが。  夫婦の会話の端々に、将棋の話題が飛び出すようになっていた。  その頻度は現在、指数関数的に上昇中だ。  問題は、その話に私がついて行けないという点にある。  さすがに基本的なルールは覚えたが、〇〇戦法について熱く詳細を語られたところでわからないし、聞いている内に眠たくなって来る。  本当は将来のことを色々と話し合いたいのに、将棋のせいでそれができない。  私が話を中断すると、彼は悲しげに視線をそらす。  もっと色々言いたい気持ちはわかるけど、イライラが限界を超えそうだったからやめて欲しかった。  また最近は、将棋道場に通う回数も増えて来た。  最初は週1回、土曜日に半日だけだったのに。  それが丸一日になり、日曜にも行くようになり。  今では会社終わりに毎日通う程になってしまっている。  さすがに怪しいと、一度彼の後を尾行したことがあるが。  幸い浮気ではなく、ちゃんと道場に着いていた。  ──いや、ある意味浮気か?  夫婦の時間が得られない。  これじゃ結婚した意味が無い。  将棋に彼を取られてしまった。  そんなことを独りで考えている内に、だんだん腹が立って来た。何で私が、こんなに我慢しないといけない?  私はもっと彼と、一緒に居たいだけなのに。  ソファーに寝転び、ぬいぐるみを彼と思って抱き締める。  ……よそう。  これ以上独りでうだうだ悩んでいたって、何の解決も得られない。  部屋に居たって、気持ちが落ち込むばかりだ。  本棚丸々将棋の本で埋まっているし、壁にはプロ棋士のポスターが貼られているし。  部屋のどこを見ても、夫の心が私から離れていると感じてしまう。  外の空気を吸いに行こう。  気晴らしになるなら、どこでも良かった。  あてもなく、並木道を歩く。  季節は秋。紅葉が始まるまでは、今しばらくの時間が必要だろう。  爽やかな風が吹き抜けていくのを肌で感じながら、上着を羽織ってくれば良かったかなと少し後悔した。  特に考えてはいなかったが、足は自然と公園に向いていた。  いつもは親子連れで賑わうその公園には、今日は不思議と誰も居なかった。  日当たりの良いベンチに腰掛ける。  雲一つ無い、澄みきった青空。  すうっと息を吸い込み。そういえば以前は、彼と散歩デートでここをよく訪れていたっけと思い出した。  二人並んでベンチに座って、他愛の無い話で笑って。  同じ景色なのに、まるで違って見える。  彼との思い出が、過去のものになろうとしている。  不意に、視界がにじんだ。  ああ、誰も居なくて良かった。  いい年した女が人前で泣くなんて、恥ずかしいったらない。  不倫相手に負けたのなら、まだ諦めもつく。  私より良い女なんて、いくらでも居るだろう。  ところが、相手は将棋だ。  ただのボードゲーム相手に敗北する自分が情けなくて、悔しくて。  そんなに面白いのだろうか。  私を置き去りにして行ってしまえる程の魅力が、将棋にあると言うのだろうか。  ──そこまで考えた所で、私は気付いた。  自分が将棋について、ほとんど何も知らないということに。  涙を拭う。  ごしごしとハンカチで顔を擦る。  そう言えば化粧してなかった。まあいい。  泣いてる場合じゃない。  私は、ある可能性に辿り着いていた。  もしかして。  私が将棋の魅力を知って。  その上で将棋を指せば、夫も私の方を振り向いてくれるんじゃないか?  将棋を、逆に利用してやれば良いのでは?  駒の並べ方と動かし方くらいは夫から散々聞かされたからわかるが、具体的な戦い方については何も知らない。  だから今まで、自分が指すなどという発想すら持っていなかったのだが。  考えてみれば、強い人だって最初は私と大差無かったはずなのだ。  夫だって、一年前は将棋の『しょ』の字すら知らなかった。  今、夫の関心はほぼ100%将棋に向いている。  その現状を逆に利用してやるんだ。  私が将棋を指せば、間違いなく彼は私を注視するようになるだろう。  発想の転換。  マイナスをプラスに変える。  我ながらなかなか良いアイディアだと思った。  こうしては居られない。  早速、将棋道場に向かおう。
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