33人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章(5)結婚式を懸けて
道場の奥の戸を開けると、そこには小部屋があった。
長机が一つ、その上に将棋盤が二つ置かれているだけの簡素な板張りの部屋。
大森さんに促され、私としゅーくんは並んで椅子に腰掛けた。大森さんはその反対側に座る。
将棋盤を挟んで、私達と大森さんは見つめ合う。
「先程の将棋、実に見事でした」
神妙な面持ちで、大森さんは告げる。
「夫婦と聞いて納得しました。貴方がたは目に見えない絆で繋がっている。だからこそ成し得た一局だったのでしょうな。いやはや、感服致しました。あのような将棋は、一度も見たことが無い」
「お褒めのお言葉、ありがとうございます。それで、折り入ってお話とは?」
私が先を促すと、大森さんは語り始めた。
「私が貴方がたを将棋大会にお誘いしたのは、ある理由があります。新しい風を吹かせて欲しい。そう言ったのを覚えていますか?」
私としゅーくんは同時に頷く。
「新しい風とはつまり、支配されない自由な将棋を意味しています。この町の将棋指しは皆、それを願い続けて来ました」
──支配?
大森さんを始め、この道場に来ている将棋指しの人達は和気あいあいとした雰囲気で、自由に指しているように思うんだけど。
実際にはそうではないと言うのだろうか?
「支配と言っても、目に見える形ではありません。精神的に縛られているんです。魅了されているのです。
……あの、竜ヶ崎家の将棋に」
竜ヶ崎。
その単語を聞いた瞬間、狐面の女性のことが頭に浮かんだ。
竜ヶ崎雫。伏竜稲荷神社の巫女さんは、私達の知らない別の顔を持っていると言うのだろうか?
そう言えば、と思い出す。
去り際に彼女が言った言葉を。
『何故狐は竜を地に封印したと思います? 独り占めにしたかったからですよ』
人々の信仰を得ていた竜を封印し、その信仰を我がものとする。
言い伝えに登場する狐とは、竜ヶ崎家を意味するものだったのか?
だとしたら、雫さんが自身のことを狐の化身と例えたのも説明できる。
「棋力の大小関係無く、竜ヶ崎の関係者と指した人間は虜になり、まともな将棋を指せなくなるのです」
恐ろしいことをさらっと言う大森さん。
あ、オカルト的な意味じゃないですよと、慌てて付け加える。
「彼らの将棋は独創性に富んでいて、どの定跡にも該当しない手を指して来ます。それでいて別次元の強さ。こちらの勝ちたいという気持ちをそのまま利用され、最後には敗北を喫することになるのです」
普通は、指したい手をやらせてもらえないのが将棋だ。
ところが竜ヶ崎の場合は、咎められることなく、やりたい手を全てやらせてもらえる。
けど、その上で負かされるのだ。
敗者は、自分が何故負けたのか理解できない。
最善手を指し続けたはずなのに、最後には敗北する。
まるで魔法のような将棋だ。
「勇んで、勝ちに行く手を指せば、彼らの術中に嵌まる。
かといって、受けに回ればジリジリ攻められ良い所無く敗北する。
一体どう指せば良いのか、悩んでいた所に、貴方がたが現れました。
あの将棋こそ、竜ヶ崎へのカウンターになると確信しています」
だから、拍手されたのか。
ようやく合点がいった。ただの祝福にしては、大袈裟過ぎると思った。
かつてこの町は平和だった。
竜ヶ崎家の人々も狐面を被っている以外は普通で、『まとも』な将棋を指していたという。
一変したのは、竜ヶ崎の現当主がとある棋書を手にした時。
その名を『四十禍津日(よそまがつひ)』と言う。
何でも、遥か昔より闇の世界を渡って来た、呪われた棋書、らしい。
それから、毎年の将棋大会の優勝は竜ヶ崎が独占するようになった。
一般の参加者達は心を砕かれ、ある者は将棋から身を引き、またある者は病に伏せた。
高段者程、受けるダメージは深刻だった。何しろ自身の将棋を根っこから否定されるのだ、今まで積み上げて来たものが無に還される。
絶望の淵で、人々は祈った。
救世主の誕生を。
「貴方がたは我々にとって、救世主と呼べる存在です。
香織さん、貴女の将棋は愛に溢れている。勝ちに拘らず、相手の殺意も憎しみも全て、一局の内に包み込んでしまう。後に残るものは、温かみのある、慈愛に満ちた投了図。
修司さん、貴方は香織さんの内なる将棋を開放する、原動力となる存在だ。
是非共に戦って欲しい。
貴方がた夫婦の愛こそが、竜ヶ崎打倒の切り札なのです」
私としゅーくんは顔を見合わせる。
にわかには信じがたい話だ。でも、大森さんは真剣そのものの表情で、とても冗談を言っているようには見えない。
本当の話だとして、私達二人に、そんな得体の知れないモノの相手が務まるのだろうか。何よ、ヨソマガツヒって? お化けか何かか?
「勿論、ただで協力をお願いする訳ではありませんよ」
私達の心の迷いを読み取ったのか、大森さんは続ける。
「勝敗は問いません。ご協力いただけるのであれば。
この道場を、披露宴の会場としてお貸ししましょう」
えっ、ホント?
「いかがでしょうか? 引き受けて下さいませんか」
やります! 是非やらせて下さい!
と、即答したかったが。
私は夫の顔を立てる妻なので、しゅーくんの返事を待った。
「一つだけ、約束して下さい」
重い口を開くしゅーくん。
考え事をしている様子も恰好良い。
「妻の、香織の安全を保証していただきたい。香織に万一危害が及ぶようであれば、俺は二度とここに来ません」
きっぱりと、彼はそう言い切った。
「承知致しました。貴方がたの身は、我が王守(おうもり)一族が全力でお守りします」
大森さんは頷いた。
よし、これで交渉成立。披露宴会場は確保できた。
後は結婚式場だが、この近くに教会とかあったかな?
──あ。神社があったか。
「もしかして大森さん。竜ヶ崎に勝てば、あの神社で結婚式を挙げたりもできます?」
「ええ、お安い御用です。私から神主さんに掛け合ってみます」
おお! それは素晴らしい!
俄然やる気が湧いて来た。
神前婚ならウェディングドレスは無理だけど。前撮りの時に着ようかな?
「ところで香織さん。先程の将棋ですが、一局でかなり体力を消耗するように見えました。あの指し方は竜ヶ崎と対戦するまで温存しておいた方が良いと思うのですが、いかがですか?」
「そうですね。あーでも、勝ち抜かないといけないんですよね? 私の棋力じゃ、ちょっと厳しいかな」
何しろ、本来の棋力は5級である。
大会には、竜ヶ崎家以外にも一般参加の人達が居る。出場するくらいだから、相応の棋力の持ち主達だろう。
少なくとも、私より弱い人は居ないはずだ。
「やはりそうですか。
それでは、通常の状態でも勝てるよう、とっておきの秘策を授けます」
そう言って、大森さんは将棋盤に目を遣った。
秘策? マジ? そんなのあるの?
大森さんはまず、角道を開けた。
次に、飛車を左から四筋目まで滑らせる。
そして、角道を閉じた。
「四間飛車(しけんびしゃ)と」
玉を反対側に囲う。
銀を上げ、金に紐を付けた。更に左の金を斜めに上げ、連結させる。
それから右端の歩を突いた。
「美濃(みの)囲い、です」
……え。これが、秘策?
確かに、今まで私は飛車を振ったことは無かった。
だけどこれって、よくある囲いじゃん?
これで勝率が上がるとは思えないんだけど。
「香織さんの棋風は、相居飛車よりも対抗形の方が真価を発揮できると判断しました。
特に四間飛車は攻防のバランスに優れ、一方的に攻め潰されることがありません」
ふーん、そんなものなのか。
「駒を捌く感覚を養って下さい。美濃囲いは相手の舟囲いよりも固く、優秀です。互角に駒を捌ければ、それだけで優勢になるのです」
こまを、さばく、か。
今まであまり意識したことは無かったけど、大森さんがそう言うなら、ちょっと練習してみようか。
振り飛車にも興味あるしね。
将棋は飛車の位置によって、居飛車と振り飛車に大別される。
居飛車は初期位置からあまり動かさず、右側に居ることが多い。
一方振り飛車は、自陣の左側に飛車を移動させる。玉は飛車とは反対側、つまり右側に囲うことが多い。
そのメリットは、敵駒の利きが集中する左側から玉を逃がすことにある。
つまり、相居飛車の将棋であるような、一方的に攻め潰されることが無い。
反対にこちらから攻めにくくもなるが、お互いに攻め合った際には、囲いの差で手得できる。
加えて、四間飛車には居飛車の攻めに対するカウンターが存在する。
一旦閉じた角道を、再び開放するのだ。
その瞬間、駒達は躍動する。
四間飛車の場合は角道を開ける手が飛車先を突く手でもあり、大駒の利きが一挙に開放され、相手陣に突き刺さる。
ポイントは、『その瞬間』を振り飛車側が任意に選べるという点だ。
タイミングによっては絶大な威力を発揮する時もある。空振りに終わることもある。
そこに、指し手のセンスが問われる。
大森さんは四間飛車について、色々と教えてくれた。
なるほどなあ。
確かに使いこなすことができれば、強力な戦力になる気がする。
使いこなせる自信は無いけど。
夫にも何か仕込んでくれているようだけど、見てもよくわからなかった。
そう言えば後一人。
りんちゃんは、塾に行ってるのかな?
最初のコメントを投稿しよう!