第零章(1)曇天を仰ぐ

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第零章(1)曇天を仰ぐ

 親父の墓に手を合わせるのは、何度目になるだろう。  以前は独りだったけど、今は二人になった。 「お義父さん、香織です。覚えてらっしゃいますか?」  妻は花を新しいものと交換する。墓石に水をかけ、丁寧に磨いていく。  それらの所作に、彼女らしい心遣いを感じながら、俺は天を仰いだ。  ごめん。  曇天の空は、今にも泣き出しそうに見えた。  後悔した所で、謝った所で、今更どうしようも無い。  親父が生き返ることは無いし、過去も変わらないんだ。  それでも。 「……ごめん」  俺が思わず漏らした呟きに、香織は驚いたようだった。 「しゅーくん?」 「あ、いや、何でもない」  ごめんな、親父。  二人並んで、墓地を後にする。  いつもはお喋りな香織が、俺の気持ちを汲み取ったのか、無口だった。  彼女は知らない。  俺と親父の間に何があったのか。  けれど俺の様子を見て、事情を察してくれているのだ。  その気遣いが嬉しかった。  ──あれからもう、二年になるか。  実家の門を潜ると、母が出迎えてくれた。  母は物静かな人だった。  今にも枯れ落ちてしまいそうな、線の細い体つき。  顔には滅多に感情が表れることは無い。 「こんにちは、お義母さん」  やや緊張した様子で、香織が挨拶する。  無理もない。歓迎されているのかどうか、息子の俺にだってわからない。 「いらっしゃい」  短く、そう告げられる。  とりあえず、門前払いする気は無いようだ。  居間に上がると、母は温かいお茶を出してくれた。  落ち着かないのか、香織はきょろきょろと辺りを見回している。  そっと、彼女の手を握った。 「命日、覚えていたのね」  母は感情の篭っていない声で、まるで独り言のように呟いた。  心底どうでも良さそうに。 「ああ」  俺だって口数の多い方ではないが、母はそれ以上だった。  沈黙の時間が流れる。  香織には辛いだろうな。何か言いたそうに、そわそわしている。  俺も辛い。  特にすることも無いし、帰ろうか。  そう思って、口を開く。 「母さん。俺達、もう」 「修司。父さん、待ってるって」 「……え?」  虚空を見つめて、母はそれだけを口にした。  それ以上は何も答えてくれない。  俺と香織は顔を見合わせる。  待ってるって、何のことだ? 「……あ」  その時。視線の片隅に、見えた。  襖が少し開いている。  奥の和室から、冷たい空気が流れ込んで来た。  胸騒ぎがした。  立ち上がり、襖を開く。  和室の中央には、四角い形をした何かが鎮座していた。  それには、紫色の布が掛けられている。  その中身が何か、俺は知っている。 「何、あれ?」  怯えたように、香織が服の裾を掴んで来た。  応える代わりに、俺は布に手を掛けた。  そして、柔らかい布地を引き裂かんばかりの勢いで、めくり上げた。  言葉を失う。  随分と年代物の将棋盤が、そこには在った。日に当たったせいか、少し色褪せている。また、端が欠け、ささくれだっている箇所があった。見覚えのある傷も。  しかし、俺が驚いたのはそんな些細なことではない。  その将棋盤は、血塗れだった。  鮮血がペンキのように、ぶちまけられていた。  まるで、あの時のように。  はっとして目を覚ます。  夢を見ていたことに安堵を覚えると同時に、心の奥底が痛むのを感じた。  あの将棋盤は、親父が遺したものだ。正確には、祖父の代から継承されて来たもの。 今はもう主を失い、実家の押入れで眠っている。勿論、血塗れではない。  親父は待っているのか。  俺が将棋を指すのを。
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