第零章(2)父と息子

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第零章(2)父と息子

 親父は自分が将棋好きだったこともあり、子供の頃から俺に将棋を教えようとして来た。  ひょっとしたら、プロ棋士に育てようとしていたのかもしれない。  だが、幼少の俺には将棋よりも魅力的なものが沢山あった。親父の指導が厳しかったこともあり、俺の心は将棋から離れていった。  親父はさぞや失望したことだろう。  しかしそれでも、親父は諦めなかった。プロに育てるのは無理とわかってもなお、俺に将棋を教えようとして来たのだ。  子供の俺は、対局して負けるのが嫌だった。親父は一切手を抜かなかったから、容赦なく叩きのめされた。駒落ちで負けると、才能が無い自分に腹が立った。  親父の思惑は、完全に裏目に出た。  今から思えば、不器用な親父だった。愛情を表現するのが苦手だった。子供にわざと負けてあげるなんて真似、到底できなかったに違いない。  そして俺は、そんな親父から逃げた。将棋からも。  それきり、口も利かなくなった。  やがて俺は成人し、ありがたくも現在の勤め先に就職することができた。  実家を出て、一人暮らしを始めた。  だが、親父との関係は変わらなかった。  転機となったのは、親父の肺に、癌が見つかったことだった。  入院した親父の面倒を見るには、母独りでは限界がある。妹は県外で家庭を築いているし、俺がやるしかなかった。  何年かぶりに、親父と会話した。  それは取るに足らない、些細な内容に過ぎなかったけれど。  少しだけ、親父のことがわかった気がした。  病気になっても、親父は将棋をしたがった。だが相手が居ない。俺では親父を満足させることができない、弱いから。  そう思って。誘われても断り続けた。  その頃、俺には彼女ができた。  ふとした偶然で出逢ったその女性こそ、妻の香織だ。  親父に彼女のことを話すと、会いたがった。  俺は少し悩んだ。  彼女に親父が面倒な要求をするのではないか。  そんな俺の心配は、杞憂に終わった。  緊張でガチガチに固まった香織に、親父は優しく微笑んだ。  一度も見たことの無い笑顔だった。 「おいで。もっと近くで話をしよう」 「は、はいっ」  ベッドから半身を起こし、親父は手招きする。  香織と一緒に、病室に入る。  それから、色々な話をした。  親父は時たま咳き込みながらも、楽しそうに笑っていた。  親父がこんなに喋るのを、今まで見たことが無い。 09aa453c-a5af-4ac9-bc8d-2ca1b6fb0cf2  緊張していた香織も、段々打ち解けて来た。  元々彼女は話好きだ。自分のこと、俺のこと、余計なことまで様々に。話は尽きなかった。彼女が喋るだけで、病室の辛気臭い雰囲気が吹き飛んでいく。  釣られて、俺も笑ってしまった。  ああ。連れてきて、良かったな。  ひとしきり話をした後。 「香織さん。どうか息子を、宜しくお願いします」 「はい。こちらこそ宜しくお願いします」  最後に親父はそう言って、深々と頭を下げた。香織も一礼する。  俺のために、二人が話し合ってくれた。胸が熱くなるのを感じた。 「お義父さん、いい人だね」 「ああ、そうだな」  俺にももっとあんな風に、心を開いてくれたらな。  胸中でそう思いながらも、彼女の言葉に同意する。  確かにそうだ。  親父は善い人間だった。物静かで、穏やかで、その性格のせいで要らぬ苦労を負ったこともあると聞く。  不器用で、愚直で──その性質は、俺にも受け継がれている。  園瀬家は、何の特徴も無い地味な家族だ。  親父はあんなだし、母は母で、何を考えているのか掴めない。  唯一妹だけが自分の考えをはっきり口にしていたが、上昇志向が強く、大学を卒業後、県外に就職してしまった。  俺には真似できなかった。  地元で就職したのは、単に引っ越すのが面倒だったからだ。  親父と俺の性格は似ているが、決定的に違う点が一つある。  それは、親父には将棋という、情熱を注ぐことのできる趣味があったという点だ。  俺には、何も無かった。  特にやりたいことも無く、ただ漫然と、周囲に流されるがままに生きているだけの人生。  そんな人生に意味があるのか、俺にはわからない。
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