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第零章(4)エール
あれから、二年が過ぎた。
俺はその間、一度も将棋を指していない。
後悔と無念の思いが、俺を盤から遠ざける。
何もできなかった。何もしてやれなかった。
勝負に決着をつけることすら、俺にはできずに。
待ちくたびれた親父は先に、逝ってしまった。
ごめんなと詫びた所で、今更どうしようも無い。
香織との結婚を決意したのは、そんな時だった。
彼女は俺と親父の間に何があったのか知らなかったが、努めて明るく振舞った。励ましてくれた。通夜でも告別式でも、一番頑張ったのは香織だった。
当時は、まだ入籍すらしていなかったというのに。
実の家族以上に、彼女は親父のために働いてくれた。
俺には、香織が必要だと思った。
彼女無しでは、この先の人生は考えられなかった。
同時に。香織と一緒なら、やり直せるかもしれないとも思った。
周囲に流されるがままの人生。
それを変えられるのは、今なのかもしれない、と。
「僕と結婚して下さい」
俺は生まれて初めて、自分自身の意志で動いた。
心が、震えた。
隣で眠る香織の顔は、穏やかだった。そっと、頭を撫でた。
ありがとう。俺と結婚してくれて。
この二年間で、俺は君に相応しい男になれただろうか?
血塗れの将棋盤の夢は、今でも定期的に見る。
あの世から、親父が誘っている気がした。
将棋を指せば、俺も連れて行かれるのかもなと、苦笑する。
ごめんよ、親父。俺はまだ逝けない。決着は、当分お預けだ。
ごめんよ、香織。俺はまだ、君に相応しい男になれていないようだ。
身を起こす。
このままでは何も変わらない。
行動を起こさなければならない。
でも、何を?
「修司。お前には、俺に無いものがある」
親父の声が、聞こえた気がした。
俺は今まで、自分のことを親父の劣化コピーだと思っていた。
けど、違うと言うのか。
親父に無いものを、俺が持っていると。
それは都合の良い、無意識の叫びだったのかもしれない。
それでも十分だった。
根拠は必要無い。
今まで何も持たなかった男が行動を起こすには、十分過ぎるきっかけだった。
まず自分にできること。
折り畳み式の将棋盤は、押入れの奥に眠っていた。
血にまみれてなどいない。
新品同然の状態で、誰かが起こしに来てくれるのを待っていた。何年も。
──待たせたな。
俺は盤を開く。駒を並べる。親父との将棋を再現する。
自分でも驚く程鮮明に、一手一手を記憶していた。
感想戦の重要さについては、親父から散々聞かされて来た。
子供の頃はピンと来なかったけど、今になって理解できる。
過去を振り返ることができなければ、未来に進むこともできない。
今まで俺は、自分の指した手の悪い所ばかりを気にして来た。
そうではなく、良かった所にも目を向けてみよう。
相手の居ない、独り感想戦。
それでももしかしたら、何かヒントが得られるかもしれない。
親父との違い。単純な棋力差以外の部分で、何か無いか。
序盤はお互い定跡手を指していたせいもあり、先後の違い以外変わらない。
問題となる、中盤以降を再現する。
指してみてわかったが、親父の将棋は実に手堅かった。
その徹底ぶりは凄まじいものがあった。石橋を叩いて渡るどころか、鉄筋で補強するレベルだ。
二重三重に予防線が張られたそれは、正に難攻不落の要塞と言えた。
手堅いし、ブレない。
とてもじゃないが、俺には真似できない。
──けど、それって裏を返せば。
振り幅が無い、ということでもあるのでは……?
可能性を、自ら潰してしまっているんじゃないかと、ふと気付いた。
親父があの将棋を通して伝えたかったもの。
それは。
ハッとして、終盤まで進める。
俺が最後に指した、悪あがきの一手。金を犠牲に得た、遠見の角打ち。
一見してそれは、ただ王手を掛けただけの、意味の無いはずのものだった。
そこから、更に局面を進める。
間に歩を打たれるだけで、王手は防がれる。
そこで俺の攻めは終わり、親父の怒涛の王手が続き。
「あ」
思わず声が出た。
詰まされるギリギリの所で、同角と、相手駒を取る選択肢が生まれた。
それで勝てるかどうかは微妙だが、少なくとも即詰みは無くなる。
これ、か。
俺の将棋に手堅さは無い。
それは棋力のせいもあるが、心のどこかで拒否していたのかもしれない。
可能性を潰したくない。こう指したらどうなるか、試してみたい。遊び心を持ちたい。ギリギリで凌ぐ、スリルを味わいたい。
生意気にも、そんな風に思っていた。
親父は最期に、そんな俺らしい将棋を目にしたのかもしれない。
それで、安心して。
だから、逝けたのか?
棋譜を汚す覚悟で、親父に死んで欲しくなくて、何より負けたくなくて指したあの一手を見て。
園瀬修司という男の可能性を見出だして。
だから、安心して死ねた、のか?
それは都合の良い解釈だ。わかっている。
だけど、それを否定することもできないはずだ。
ならば。俺は信じたいのだ。
頑張れ、修司。
お前は、俺とは違う。
お前なら、やれる。
棋譜には対局者の人柄、生き様が表れる。言わば人生の集大成だ。
親父が伝えたかった言葉が、盤面を通して伝わってくる。
ありがとう、親父。
俺、頑張るよ。
不思議だ。
今頃になって、涙が溢れて来る。
葬式でも泣けなかったのに。
親父と指せて、良かった。
将棋の楽しさを、初めて理解できた気がした。
もっと、指したい。
もっと誰かと、この楽しさを共有したい。
できれば、香織とも。
涙を拭う。
ちら、と妻の寝顔を見る。
それから、柔らかな彼女の頬に口づけた。
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