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第一章(2)対局デート?
道場は、郊外の住宅地に建っていた。
築何十年だろう。
古い日本家屋で、以前は地主さんが住んでいたものを譲り受け、改装したものらしい。と、前に夫が言っていた。
なるほど、どうりで古臭──もとい、情緒を感じる訳だ。
枯山水の庭を通り抜けると、引き戸の玄関があった。
『伏竜将棋道場』
そう書かれた木製の看板が立て掛けられている。
少し威圧感を感じ、私はたじろいだ。
そもそもこういう場所って、男性主体で、女性が一人で入るには勇気が要る。
深呼吸をする。落ち着け、私。
ここは言わば敵地なんだ。雰囲気に呑まれてはいけない。
堂々と、生まれて初めての対局に臨まなければ。
「おや、いらっしゃい」
不意に背後から声を掛けられ、私は「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。
振り向くと、小柄なお爺さんが一人、柔和な笑みを浮かべて立っているのが見えた。
「こんにちは、お嬢さん。私は席主の大森です」
セキシュ?
聞き慣れない単語に、私はきょとんとする。
「ああ。席主というのは、道場の経営者のことです。
ここは寒いでしょう。ささ、どうぞどうぞ、お入りになって」
私の様子を見て、大森さんは言い直してくれた。
なるほど、社長さんみたいなものか。
「失礼します」
大森さんに促され、中に入る。
玄関には男性用の靴が何足も並べられていた。
──あ。
その中に見覚えのあるスニーカーを見つけ、私は胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。
彼が、居る。
今ここで、この道場で指している。
それはわかっていたはずのことだったのに。ドキドキが止まらない。
「初めての方は皆緊張されるものです。どうか肩の力を抜いて、お上がりになって下さい」
大森さんの言葉に我に返る。
そうだ、私は将棋を指しに来たんだ。夫に会いに来たんじゃない。
彼に見つかったらどうしようとか、そんなことを気にする必要は無いんだ。堂々と振る舞えば良いんだ。
実は私も将棋を始めたのよ。奇遇ね?
くらいの感じでいこう。
靴を脱いで上がる。
少し手が震えた。
玄関を上がるとすぐに引き戸があり、壁には「対局室」と書かれたプレートが吊るされていた。
この先に、彼が居る。
もとい、対局相手が居るのだ。
手にじっとりとした汗をかきながら、私は戸を開く。
そこには、思っていた以上に広々とした空間が広がっていた。
恐らく和室の壁を、柱を残して取り払ったのだろう。
休日だからか、多くの人々の姿が見られた。
やはりというか、中年以上の男性が多い。
畳敷の床には、整然と将棋盤が並べられている。
プロの棋士が指す立派なのもあれば、家にある折り畳み可能なものもあった。
道場というからもっと緊張感あるものと思ったが、皆ガヤガヤ喋りながら指している。
その中に、一際背の高い男性の姿があった。
うちの旦那である。
シュッと背筋を伸ばして、いつになく真剣な表情で盤を睨んでいる。
やっぱ、居たんだ。
ああ。相変わらず失神しそうになるくらい格好良いな。
幸いにも、こちらに気付いた様子は無い。
対局相手は小柄なのか、ここからは良く見えないが。
夫の表情から、苦戦していることが窺えた。
頑張って、あなた。
「いかがですか、我が道場は? 昨今の将棋ブームもこんな片田舎には関係無いのか、見ての通り年寄りばかりですわ」
相変わらず微笑みを絶やさず、大森さんは「お茶をどうぞ」と言って、湯気の立ち昇る湯呑みを差し出して来た。
冷えた身体には温かい緑茶が嬉しい。ありがたく頂戴した。
「でも、中には若い人も居ますよね。ほら、あの人とか」
夫を指差すと、大森さんは「ああ」と頷く。
「あの青年は研究熱心で素晴らしい。将棋を始めて間もないですが、きっと強くなるでしょうな」
そうなんだ。
夫のことを褒められると、私まで嬉しくなる。
実は私の旦那なんですよと自慢したくなったが、ぐっと堪えた。まだ早い。
「しかし、最近悩んでいるようです」
「悩み、ですか?」
「ええ。何でも、奥さんが将棋のことを快く思っていないようで、家に居るのが辛いらしいのです」
「……え?」
大森さんの言葉に、目が点になった。
まさか。
夫が最近道場に入り浸りになってるのって──私のせい?
「そう、なんだ」
そんな馬鹿なと、否定できない自分が居た。
「おっと、すみません。つい口を滑らせてしまいました。
何でしょうな、貴女を見ていると、喋らずには居られませんでした」
「い、いえ、私の方こそ。他人のプライベートを詮索しちゃ駄目ですよね。あはは、はは」
もし、私のせいなら。
私が将棋を指すことで、夫との関係も改善されるのだろうか?
確かに最近は、夫が将棋の話題を口にする度に嫌な顔をしていたかもしれない。
素っ気無い態度を取っていたかもしれない。
それが、彼を傷付けてしまったのだろうか?
自分が大好きなことを否定されたら、私だって悲しくなる。
今まで私は、自分のことばかり考えて、彼の気持ちに気付いていなかった。
ごめんね、しゅーくん。
私が泣いている時、あなたも涙を流していたんだね。
お詫びの印に、今晩はあなたの好きな肉じゃがを山ほど作ってあげるからね。
「話が長くなって申し訳無い。
それではこの紙に、名前と棋力を記入して下さい」
感傷に浸る私をよそに、大森さんは一枚のメモ用紙を差し出して来た。
「あ、はい、わかりました。
……すみません、キリョクって何ですか?」
「棋力というのは、将棋を指す力のことです。できるだけ同じくらいの力を持つ方同士が指せるよう、こちらで手合い調整するのに使います」
なるほど、戦闘力みたいなものか。
「ごめんなさい。私今日初めて指すので、棋力わかりません」
「なんと、そうなのですか。それでしたら、10級と記入して下さい」
はい、わかりました。
よくわからないので、言われるがままに記入する。
あ──名前。
夫の方をちらっと見て私は、
『清水香織(きよみず・かおり)10級』
と、旧姓を書いた。
嘘はついていない。
これだって、立派な私の名前だ。
「これはこれは、ご丁寧に振り仮名まで。ありがとうございます」
以前から『しみず』と読まれることが多かったから、予め書いておいただけなんだけど。
大森さんは大袈裟に礼をして、紙を受け取った。
「それでは清水さん。対局相手が見つかるまで、少々お待ち下さい」
「はい。見学してて良いですか?」
構いませんよ、大森さんは穏やかな表情でそう応えてくれた。
ほんと、善い人だなあ。入門者相手にも物腰柔らかで、少しも嫌味を感じない。
さて。
それでは早速、夫の対局を観に行こう。
彼に気付かれないよう、そっと背後に回り込む。
正座している彼の背中を、やけに広く感じた。
──その時になってようやく、彼の『対局相手』の姿が見えた。
高校生くらいの、女の子。
学校帰りなのだろうか。制服姿の彼女は、お人形さんのように整った顔立ちをしていた。
美少女とは、彼女のような子を指す言葉なのだろう。
小柄で華奢な体つき。艶のある黒髪を背中まで伸ばしている。純和風な雰囲気が、彼女にはよく似合っていた。
涼しげな表情で、彼女は盤面を見つめ。白魚のような指で、駒を手に取った。
綺麗な駒音が響く。
眩暈がした。
私が部屋に独りで居た時、公園で泣いていた時。
夫はこんな可愛い子と将棋を楽しんでいたのか。
そりゃあ、魅力的でしょうよ。
私なんて全然色気も無いし、可愛げも無いし。
そりゃ、道場に入り浸る訳だ。
何ですかこれ。
対局デートって奴ですか?
うん。
やっぱ肉じゃが、無し。
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