第一章(2)対局デート?

1/1
前へ
/200ページ
次へ

第一章(2)対局デート?

 道場は、郊外の住宅地に建っていた。  築何十年だろう。  古い日本家屋で、以前は地主さんが住んでいたものを譲り受け、改装したものらしい。と、前に夫が言っていた。  なるほど、どうりで古臭──もとい、情緒を感じる訳だ。  枯山水の庭を通り抜けると、引き戸の玄関があった。  『伏竜将棋道場』  そう書かれた木製の看板が立て掛けられている。  少し威圧感を感じ、私はたじろいだ。  そもそもこういう場所って、男性主体で、女性が一人で入るには勇気が要る。  深呼吸をする。落ち着け、私。  ここは言わば敵地なんだ。雰囲気に呑まれてはいけない。  堂々と、生まれて初めての対局に臨まなければ。 「おや、いらっしゃい」  不意に背後から声を掛けられ、私は「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。  振り向くと、小柄なお爺さんが一人、柔和な笑みを浮かべて立っているのが見えた。 「こんにちは、お嬢さん。私は席主の大森です」  セキシュ?  聞き慣れない単語に、私はきょとんとする。 「ああ。席主というのは、道場の経営者のことです。  ここは寒いでしょう。ささ、どうぞどうぞ、お入りになって」  私の様子を見て、大森さんは言い直してくれた。  なるほど、社長さんみたいなものか。 「失礼します」  大森さんに促され、中に入る。  玄関には男性用の靴が何足も並べられていた。  ──あ。  その中に見覚えのあるスニーカーを見つけ、私は胸の鼓動が跳ね上がるのを感じた。  彼が、居る。  今ここで、この道場で指している。  それはわかっていたはずのことだったのに。ドキドキが止まらない。 「初めての方は皆緊張されるものです。どうか肩の力を抜いて、お上がりになって下さい」  大森さんの言葉に我に返る。  そうだ、私は将棋を指しに来たんだ。夫に会いに来たんじゃない。  彼に見つかったらどうしようとか、そんなことを気にする必要は無いんだ。堂々と振る舞えば良いんだ。  実は私も将棋を始めたのよ。奇遇ね?  くらいの感じでいこう。  靴を脱いで上がる。  少し手が震えた。  玄関を上がるとすぐに引き戸があり、壁には「対局室」と書かれたプレートが吊るされていた。  この先に、彼が居る。  もとい、対局相手が居るのだ。  手にじっとりとした汗をかきながら、私は戸を開く。  そこには、思っていた以上に広々とした空間が広がっていた。  恐らく和室の壁を、柱を残して取り払ったのだろう。  休日だからか、多くの人々の姿が見られた。  やはりというか、中年以上の男性が多い。  畳敷の床には、整然と将棋盤が並べられている。  プロの棋士が指す立派なのもあれば、家にある折り畳み可能なものもあった。  道場というからもっと緊張感あるものと思ったが、皆ガヤガヤ喋りながら指している。  その中に、一際背の高い男性の姿があった。  うちの旦那である。  シュッと背筋を伸ばして、いつになく真剣な表情で盤を睨んでいる。  やっぱ、居たんだ。  ああ。相変わらず失神しそうになるくらい格好良いな。  幸いにも、こちらに気付いた様子は無い。  対局相手は小柄なのか、ここからは良く見えないが。  夫の表情から、苦戦していることが窺えた。  頑張って、あなた。 「いかがですか、我が道場は? 昨今の将棋ブームもこんな片田舎には関係無いのか、見ての通り年寄りばかりですわ」  相変わらず微笑みを絶やさず、大森さんは「お茶をどうぞ」と言って、湯気の立ち昇る湯呑みを差し出して来た。  冷えた身体には温かい緑茶が嬉しい。ありがたく頂戴した。 「でも、中には若い人も居ますよね。ほら、あの人とか」  夫を指差すと、大森さんは「ああ」と頷く。 「あの青年は研究熱心で素晴らしい。将棋を始めて間もないですが、きっと強くなるでしょうな」  そうなんだ。  夫のことを褒められると、私まで嬉しくなる。  実は私の旦那なんですよと自慢したくなったが、ぐっと堪えた。まだ早い。 「しかし、最近悩んでいるようです」 「悩み、ですか?」 「ええ。何でも、奥さんが将棋のことを快く思っていないようで、家に居るのが辛いらしいのです」 「……え?」  大森さんの言葉に、目が点になった。  まさか。  夫が最近道場に入り浸りになってるのって──私のせい? 「そう、なんだ」  そんな馬鹿なと、否定できない自分が居た。 「おっと、すみません。つい口を滑らせてしまいました。  何でしょうな、貴女を見ていると、喋らずには居られませんでした」 「い、いえ、私の方こそ。他人のプライベートを詮索しちゃ駄目ですよね。あはは、はは」  もし、私のせいなら。  私が将棋を指すことで、夫との関係も改善されるのだろうか?  確かに最近は、夫が将棋の話題を口にする度に嫌な顔をしていたかもしれない。  素っ気無い態度を取っていたかもしれない。  それが、彼を傷付けてしまったのだろうか?  自分が大好きなことを否定されたら、私だって悲しくなる。  今まで私は、自分のことばかり考えて、彼の気持ちに気付いていなかった。  ごめんね、しゅーくん。  私が泣いている時、あなたも涙を流していたんだね。  お詫びの印に、今晩はあなたの好きな肉じゃがを山ほど作ってあげるからね。 「話が長くなって申し訳無い。  それではこの紙に、名前と棋力を記入して下さい」  感傷に浸る私をよそに、大森さんは一枚のメモ用紙を差し出して来た。 「あ、はい、わかりました。  ……すみません、キリョクって何ですか?」 「棋力というのは、将棋を指す力のことです。できるだけ同じくらいの力を持つ方同士が指せるよう、こちらで手合い調整するのに使います」  なるほど、戦闘力みたいなものか。 「ごめんなさい。私今日初めて指すので、棋力わかりません」 「なんと、そうなのですか。それでしたら、10級と記入して下さい」  はい、わかりました。  よくわからないので、言われるがままに記入する。  あ──名前。  夫の方をちらっと見て私は、 『清水香織(きよみず・かおり)10級』  と、旧姓を書いた。  嘘はついていない。  これだって、立派な私の名前だ。 「これはこれは、ご丁寧に振り仮名まで。ありがとうございます」  以前から『しみず』と読まれることが多かったから、予め書いておいただけなんだけど。  大森さんは大袈裟に礼をして、紙を受け取った。 「それでは清水さん。対局相手が見つかるまで、少々お待ち下さい」 「はい。見学してて良いですか?」  構いませんよ、大森さんは穏やかな表情でそう応えてくれた。  ほんと、善い人だなあ。入門者相手にも物腰柔らかで、少しも嫌味を感じない。  さて。  それでは早速、夫の対局を観に行こう。  彼に気付かれないよう、そっと背後に回り込む。  正座している彼の背中を、やけに広く感じた。  ──その時になってようやく、彼の『対局相手』の姿が見えた。  高校生くらいの、女の子。  学校帰りなのだろうか。制服姿の彼女は、お人形さんのように整った顔立ちをしていた。  美少女とは、彼女のような子を指す言葉なのだろう。  小柄で華奢な体つき。艶のある黒髪を背中まで伸ばしている。純和風な雰囲気が、彼女にはよく似合っていた。  涼しげな表情で、彼女は盤面を見つめ。白魚のような指で、駒を手に取った。  綺麗な駒音が響く。  眩暈がした。  私が部屋に独りで居た時、公園で泣いていた時。  夫はこんな可愛い子と将棋を楽しんでいたのか。  そりゃあ、魅力的でしょうよ。  私なんて全然色気も無いし、可愛げも無いし。  そりゃ、道場に入り浸る訳だ。  何ですかこれ。  対局デートって奴ですか?  うん。  やっぱ肉じゃが、無し。
/200ページ

最初のコメントを投稿しよう!

33人が本棚に入れています
本棚に追加