第一章(3)失神する程かっこいい

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第一章(3)失神する程かっこいい

 可愛いのは認める。正直お似合いだとも思う。  けど、その人は私の夫なんだ。彼は私を結婚相手として選んでくれたんだ。  本当なら、彼と向かい合うのは貴女じゃなくて、私なんだ。  私の視線に気づいたのか、少女と目が合った。  不思議そうに小首を傾げている。何よ、そんなに面白い顔してる、私?  だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐに盤面へと視線を戻した。  そうだよね、私なんて眼中に無いよね。恰好良いお兄さんが目の前に居るんだもんね。 「やあ、注目の一戦ですな」  黒い感情が沸々と湧き上がって来たその時、背後から声を掛けられた。  振り返らなくてもわかる、この優しい声は大森さんだ。 「若い人達の将棋は元気があって宜しい。お互いが全力をぶつけ合う、積極的に仕掛けていく姿勢が素晴らしい。我々年寄りはどうも、受け身になってしまっていけませんなあ」  私の横に並んで立ち、眩しいものでも見るように、目を細める大森さん。  不思議。この人と話していると、それまで苛立っていた心が落ち着いてくる。  夫と少女の関係を疑わない訳じゃないけれど、ひとまずは観戦に集中しよう。  しかし。盤面を見ても、私にはどんな将棋なのか理解できない。  指して経験を積む内に、わかるようになるのだろうか?  もしかしたらそこに、私の知らない将棋の魅力があるのかもしれない。 「あの。そんなに面白い勝負なんですか?」 「ええ。恐らく研究の成果でしょう、序盤は男性がリードしてたんです。ところが」  私の質問に、大森さんは応える。 「中盤にかけて、徐々に女性が差を詰めて来ました。今は少し逆転していると思います。拮抗した、実に良い勝負です。最後まで、どちらが勝つかわかりませんな」  へえ、そうなんだ。  しゅーくん、頑張ってたんだ。  眠たいだろうに、夜遅くまで本を読んでたもんな。  私の位置からは、彼の背中しか見えない。  彼はどんな表情をしているのだろう。  歯を食いしばっているのだろうか。勝てるかどうかわからないこの一戦に、彼は研究の全てを注ぎ込んだんだ。  そりゃあ、簡単には負けられないよね。  さっきの言葉を撤回しよう。  今夜は肉じゃがだ。  肉じゃがパーティーだ。  彼と彼女の駒音が交互に響く。  彼は強く打ち込むように指す。  彼女は静かに美しい音を奏でる。  背筋を伸ばしていた彼は、だんだんと前のめりになっていく。  彼女は変わらない。時々足の痺れを気にする余裕さえある。  あ、お茶を一口含んだ。 「ねぇ大森さん。彼女の棋力って、何級なんですか?」 「初段です」  大森さんは盤面から目を逸らさずに、一言そう告げた。  初段。  つまり、級位者ですらないということか。  まだ学生さんなのに、凄いんだなあ。  そんな相手に、夫は挑戦しているのか。  私は改めて思った。  頑張って、しゅーくん。勝っても負けても、今夜は肉じゃがパーティーだよ。  少しずつ、二人の駒音のリズムが速くなっていく。  駒がぶつかり合い、取って取られての攻防が続く。  目まぐるしく変わる局面に、私はついていくことができない。  正直、訳がわからなかった。  でも、徐々に夫の陣地から駒が減っていくのはわかった。  一方、少女の陣地は綺麗に整備されている。  これはまずいんじゃないか?  そう思いながらも、私に形勢判断はできない。  隣に居る大森さんが頼りだった。 「大森さん。しゅーく──男の人、もしかして負けそうなんじゃないですか?」 「んー。確かに厳しい形勢ですが、将棋は最後までわかりませんよ。全くチャンスが無い訳ではありません。まあ、見ていて下さい」  大森さんが言うには、少女はしゅーくんの攻めを利用して囲いを強化しているらしい、それによって手得しているとのことだった。  ちょっと意味がわからないが、そういうことらしい。  で、その分しゅーくん側が不利になっているが、その数手くらいの差は、アマチュアレベルでは十分逆転可能、なんだって。  加えて言うなら、少女側はしゅーくんの攻めに対して、丁寧に相手し過ぎる傾向があるらしい。  その分持ち駒を使うし、攻めが遅くなってしまう、とのこと。  なるほど。わからないながらも感心する。  大森さん、もしかして凄い人なのかな? 「……来た」  大森さんがそう呟いた時。  駒音が、止まった。  夫の手が、ある駒を掴んで止まっている。  いや、よく見ると、小刻みに震えていた。  来たって、もしかして。  チャンスってヤツ? 「優勢側はどうしても気が緩みがちになるものです。一方、劣勢側は付け入る隙を虎視眈々と狙っている。両者の心理状態の違いが、人間将棋にドラマを生むのです」  やや興奮気味に大森さんは話す。 「先程の女性の手は緩手でした。今は攻め続けるべきだったのに、自陣の整備を一手入れてしまった。千載一遇の好機です」  深呼吸するしゅーくん。  掴んだ駒、歩を相手の金の頭に打ち込んだ。 「叩きの歩、それも三連打。凌ぎ切るのは容易ではありますまい」  それってつまり、勝てるってこと?  私が大森さんの顔を見ると、 「ただしこの局面、彼女にも有効な選択肢があります。これはもう、どちらが一手速いかの勝負でしょうな」  と、苦笑混じりに応えられた。  えー。何ですかそれー。  打ち込まれた歩を前に、少女は少し、考え込む仕草を見せた。  歩を取るか、取らずに逃げるか、放置するか。  歩を取れば再度歩で叩かれる、逃げれば攻めの拠点が作られる、放置すれば金が取り込まれた上にと金を作られてしまう。  この三択があると、大森さんは言う。  この中で被害が一番少なくて済むのは、歩を取る選択。  しかしそれでは面白く無い、らしい。  すぐに負ける訳ではないが、形勢はやや傾いてしまう、とのこと。  故にこの場合は、放置する一手。  金を取らせて、かつと金を作らせても良い。自玉は危険に晒されることになるが、先に詰ませてしまえば良いだけ。  取らずに稼いだ手を利用して、寄せ切ってしまえば良いのだ。  ──ということらしいが、それってしゅーくんが負けるってことじゃ……?  果たして少女は、金を動かすことは無かった。  ぱちん。  それから十数手の応酬の後。  小気味良い音を立てて、その一手は放たれた。  後には、静寂が訪れる。  夫の身体が、崩れ落ちたように思えた。  咄嗟に支えようとして、それが錯覚だったことに気付く。  のろのろとした手つきで、彼は次の手を指そうとする。  まだやれると信じたいのだろう。  右手が虚空を彷徨う。  やがて。  その手は、止まった。 「……負けました」  小さな声で、彼は敗北を認めた。  普段から寡黙で、大声で喋ることの無い彼だが、こんなにもか細く、弱々しい声は聞いたことが無かった。  よろよろと立ち上がる。  私に気付いた様子は無く、放心状態のまま、道場を出て行った。  その横顔に一筋、光るものがあった。  後を追うべきか、悩んだ。
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