第一章(5)二回目のプロポーズ

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第一章(5)二回目のプロポーズ

「お疲れ」  しゅーくんはそう言って、缶コーヒーをくれた。  そういや、近くに自販機があった気がする。まだほんのりと温かい。 「ありがと。──気付いてたんだ?」 「真後ろであんなに喋ってたら、そりゃ気付くさ。かおりんは声が大きいんだよ」  やつれた顔で、彼は苦笑混じりに応えた。  やれやれ。どっちがお疲れなんだか。 「……ごめんな。情けない姿、見られちまったな」  彼の表情が暗いのは、日が陰り始めたせいだけではないだろう。  そっか。  単に敗北して悔しかっただけじゃないんだ。  私の目の前で負けたのが情けなくて、だから気付いていながら歩き去ったんだ。挨拶することも忘れて。  だから彼は、涙を流していたんだ。 「いいよ、そんなの。あの子強かったじゃん。負けてナンボの将棋でしょ? 次勝てば良いんだって」 「ああ。次は絶対に勝つ」  彼の顔を真正面から見るのは、いつ振りになるだろう?  胸が熱くなるのを感じた。そうだ私は、この顔を見たかったんだ。 「ねぇ、将棋って、楽しいね」  満足感と共に、コーヒーを飲み込む。疲れたけど、楽しかった。  そして、嬉しかった。 「だろ?」  彼と共有できた、この時間が。  夕暮れの並木道を、二人連れ立って歩く。  まるで夢のようだった。 「そうだ、あなた。今夜は肉じゃがにしようと思うんだけど」 「え。マジ?」  私が思い出して言うと、何故か露骨に嫌そうな顔をするしゅーくん。  何だ、そのリアクションは。 「何よ? 肉じゃが好きでしょ? 美味しい美味しいって、嬉しそうに食べてたじゃない」 「それは、ほら。付き合ってる頃は手作りの料理が嬉しくてさ。けど、何度も食べてる内に、その──飽きてきたと言うか、何と言うか」  彼の言葉にハッとする。  まさか。私の料理、不味いのか?  気に入ってくれていると思ってたのに。少しばかり、ショックではあるが。  それ以上に、この会話を楽しんでいる私が居た。  ほんと。久し振りだなあ、こういうの。 「……わかった。じゃあ、一緒に作ろ? あなたの好み、私に教えてよ」  笑って、私は応えた。  ああと頷いて、彼は私に顔を向ける。 「なあ、かおりん。俺、嬉しいんだ。かおりんが将棋に興味を持ってくれて」  真剣な表情で、彼は言う。  この感じ、プロポーズの時と似ている。 「できればこれからもずっと、俺と一緒に将棋を指してくれないか?」 「……うん」 cfa04697-1b83-4cb4-8906-8ab962b5fa68  頷く。  涙が溢れそうになった。  これまで独りで過ごした時間を思い出す。それは泣く程に辛かったけど、でも。  彼を愛して、本当に良かったと思った。  この人は一途なんだ。恋愛にも将棋にも、不器用なくらいにひたむきなんだ。  私はようやく、夫のことを理解できた気がした。  手を繋ぐ。  その後家に帰るまで、二人とも黙っていたけど。  私は、幸せだった。  彼は初段になりたいのだと言う。  あの女の子、りんちゃんと同じ段位に。  それは、級位者共通の目標なんだとか。  ならば、私も初段を目指そうと思う。  まだまだわからないことが多いけど。  きっと想像以上に大変な道のりなんだと思うけど。  それでも、彼と一緒なら。  どんな困難だって、乗り越えていけると思った。 「宜しくお願いします」  夢想するのは、初段になった夫との真剣対局。  いつの日にか、それが現実になると信じて。  私達は、今日を生きていく。  第一章・完
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