第二章(4)あなただけ、みつめてる

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第二章(4)あなただけ、みつめてる

 また逢いましょう、将棋大会で。  神社を後にしても、雫さんの残した言葉が頭にこびりついていた。  あの人が狐なら、私は地に伏せた竜か? 何も言い返せなかった。情けない。  しゅーくんに相応しいのは、ああいう女性なのかもしれない。  一瞬でもそう思ってしまって、慌てて首を横に振った。 「雫さんのことなら、気にするな。冗談で言ってるんだよ」  彼はそう言ってくれるけど。  私にはあれが冗談だとは、到底思えなかった。  一方的に、宣戦布告をされた気分。 「……ねぇ、しゅーくん。私、勝ちたい」  強くなりたい。  初めて、心の底からそう思った。  負けたくない。 「ああ。俺もだ」  雫さんの棋力はどの程度だろうと、ふと考える。  あの自信溢れる口振りから、少なくとも初段以上はあるだろう。  平手どころか二枚落ちでもりんちゃん、しゅーくんに歯が立たない私にとっては、遥か高みに居る存在なのかもしれない。  それでも、私の手で勝ちたかった。  時間が無いとか言ってられない。  その足ですぐに道場に向かった。  式場見学の予約はキャンセルした。  しゅーくんは無言でついて来た。  大森さんは指導対局中のようだ。  なら。私はしゅーくんと向かい合う。 「やろ。平手で」 「……本気、なんだな? わかった、なら容赦はしない」 「うん!」  振り駒の結果、私が先手になった。  彼の全身から、湯気のようなものが立ち上る。  闘気を具現化できたとしたら、こんな風に見えるのかもしれない。  私はこれまで、本気の彼を相手にしたことは無かった。  鷹のように鋭い視線が盤を射抜く。剥き出しの殺意が、ナイフのように私に突き刺さる。勿論痛くは無い。ただ、心が傷付いた。  今この瞬間においては、夫も妻も関係ない。  あるのは対局相手という関係のみ。  対局で、殺される。  ごくりと唾を呑む。  震える手で、駒を掴んで初手を指した。  角道を開ける。  間髪入れず、彼も角道を開けてきた。交換されそうで怖い、が、せっかく開けた角道を閉じる気にはならなかった。  飛車先の歩を突く。  彼も突いて来た。  これは。  鏡写しに、彼は私と同じ手を指して来る。  角頭を守ろうと金を上げれば、彼もまた金を上げる。  急かされている気がした。  さあ、お次は何だ? と。  どこまでも私と同じ手を指し続けるというのか。  だけどそれには限界がある。私が飛車先の歩を突き越せば、同歩とせざるを得ないはずだ。  それはわかっている。  けど、それを突いてしまったら最後、取り返しのつかないことになってしまいそうで。  私には勇気が無かった。  臆病な私は、囲いを優先する。  やはり彼は同じ囲いにしてきた。  さて。囲ったら後はいよいよ、仕掛けるしか無い。  先手にはその権利がある。あるのだが。  歩を手にしたまま、私は硬直する。  駄目だ、この先どうなるか全く予想できない。  私には無いが、彼には選択肢が多い、気がする。その全てに対応できる自信が無い。  けど、いつまでもこうしている訳には。 「かおりん。思いきって踏み込んで来い。俺が全部、受け止めてやるから」  顔を上げると、そこには普段と変わらないしゅーくんの笑顔があった。  先程までの殺気は微塵も感じない。  本気は本気なのだろうが、そこには愛がある気がした。私の錯覚でなければ。  私が怯えているのを見て、可哀想に思ったのかもしれない。ごめんね、ヘタレで。 「でも。怖い」  正直な気持ちを口にする。  未知への恐怖。無知なる者の悲鳴。  私がもっと将棋を知れば、ここまで萎縮することは無いのかもしれないが。 「大丈夫。勇気を持て。俺を雫さんに取られたくないんだろ?」  それはそうだ。  勝ちたい。負けたくない。  しゅーくんへの愛だけは、誰にも負けない自信がある。  でも、だけど、何を指せば良いのかわからないんだ。  神経が焼ききれそうだ。  頭がガンガン痛い。考えれば考える程、頭の中が白く塗り潰されていく。  駄目だ、何も考えられない。  もう限界だ。  もう投了しよう。  そうだ、投げてしまえばこの苦しみから解放されるんだ。さっさと終わらせよう。 「負けま──」 「俺に勝てたら、キスしてやる」  ……ぷつん。  限界を超えた。  その瞬間、神経の糸が切れた。  顔が熱くなるのを感じる。  頭の痛みが消えた。  迷いが消えた。  歩を打ち込む。同歩同飛、歩を打たれて横の歩を取る。  視界が滲む。  涙を拭ったその後には、綺麗に開けた視界があった。  盤全体が見通せる。その中にある、しゅーくんの心までも。  全てがクリアになる。不思議。今まで曇りガラスのようにしか見えなかったのに。  思考するまでもなく、見えていた。  私は彼の妻だから、彼の考えていることは全部わかるんだ。  彼の棋風には実直さと不器用さが存分に現れている。  そこが可愛い。たまらなくいとおしい。好き。大好き。  意識が変わる。  彼との将棋を楽しむ。  勝ち負けには拘らない。  だって私は、ずっとこうしたかったのだから。  こうなることを、願い続けて来たのだから。  将棋を指し始めてから、いや、指し始めるずっと前から。  私の攻めを全部受け止めてくれると彼は言った。嬉しかった。  今、彼は私だけを見てくれている。  だったら私も、彼とのこの一局だけを考える。他には何も要らない。  雫さんに勝つだの何だの、もはやどうでも良い。私は彼だけを見る。  彼の指し手は既にわかっている。  実直に受け止める。不器用に弾かれる。それが楽しい。  ごめんね、本当なら対等の棋力で戦いたかったね。  でも嬉しい。  いつまでもこうして、指し合って居られたら。  私はそれだけで、最高に幸せなんだ。  彼の盲点を突く。  彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐさま対応した。流石。  けど、これは見えてないでしょう?  防がれた後の手は既に用意していた。  しゅーくん。  あなたが将棋に夢中になっている間、私はあなたのことをずっと考えていたんだよ。  ううん。結婚する前、付き合う前、そのずっと前から、私はあなたを見ていた。あなただけを。  あなた以上にあなたのことを、私は理解している。  けど、あなたは。  私を、どこまで知っているのかしら?  棋力の差を埋めるのは、圧倒的な情報量(あい)の差だった。  彼は反撃を試みる。  うん、絶妙な一手だと思うよ。だけど、残念ながら対策済。  もっと私を見て。でないと、あなたは勝てないよ?  もっと私のことを考えて。  もっと、私を愛して。  深く、より深く。  愛の証を、棋譜(たましい)に刻み込んで欲しい。 「──っ──!」  不意に、視界が揺れた。  頭痛が私を襲う。さっきよりもなお強い、割れるような痛みが。  ……そうか。  本来の私の棋力はせいぜい5級程度。それなのにまるで有段者のような指し方をしていたから、肉体が限界を迎えたんだ。  タイムリミットは近い。  名残惜しいけど、手早く終わらせよう。  頑張って、しゅーくん。  これに耐え切れたら、あなたの勝ちだよ。  盤上に爆弾を投下する。絨毯爆撃のイメージ。  彼の勝機、勝つ可能性を一つ一つ丁寧に潰していく。  ぱちん、どかん。ぱちん、どかん。ぱちん、どかん……。 「……負けました」  全ての手を爆破する前に、彼は投了した。  疲れ果てた、呆けた表情だった。  やがてその表情は、乾いた笑みへと変わる。 「やっぱ凄いな、かおりんは。敵わねぇや」 「ありがと、しゅーくん。おかげでわかった気がする」  棋は対話なり、とはよく言ったものだ。  私は将棋を通して彼にメッセージを送っていた。彼はそれに応えようとしてくれた。  これが将棋なんだと、実感できた。 「素晴らしい」  声が上がった。いつの間に見に来ていたのか、大森さんだった。  いや、大森さんだけじゃない。道場に指しに来ていた多くの人達が、私達の周りを囲っていた。  彼らの視線は、皆一様に盤上へと注がれている。  私としゅーくんの、愛の結晶へと。  心の奥底まで覗かれている気分になった。  何だか恥ずかしい。  拍手が起きた。  皆が祝福してくれている。新しい棋譜(いのち)の誕生を。  ああ、ありがとう。  私はお礼を言おうとしたが、言葉が出なかった。  眩暈がする。後ろに倒れる。  それを支えてくれたのは、しゅーくんだった。  疲労困憊だったが、満たされた気持ちだった。 「皆さん。実は俺達、結婚しているんです」  感極まったのか。しゅーくんは告白する。  本当のことを。私達の、真実を。 「なんと! 本当ですか?」  驚きの声を上げる大森さんに、しゅーくんは頷いてみせる。  それから、私を抱き起こした。 「彼女の名前は園瀬香織。この俺、園瀬修司の妻です」  そう言って彼は、私に向かって微笑んだ。 「香織。約束だったよな」  え、何? 約束ってまさか、ちょっと待って。  こんな、皆が見てる前で──。  抵抗できないまま。  唇を、塞がれる。 ed972353-f559-47b2-b373-873b5e1ac15b  どよめく観衆。  それはそうだろう。  いい歳した男女が、公衆の面前で接吻なんてしているのだから。  私は耳まで真っ赤になったが、しゅーくんはやり切ったような清々しい表情をしていた。  くっそー、間近で見るとやっぱりいい男だなあ。皆が居なかったらもっとキスできるのになあ。  恥ずかしいったら、ありゃしない。
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