33人が本棚に入れています
本棚に追加
第九章(1)たとえ君が
香織の意識が戻らない。
安らかな寝顔を見つめ、俺は嘆息する。
ひんやりとした空気に、思わず身震いした。
畳敷きの休憩所には、香織の眠る布団が一枚だけ敷かれている。すやすやと規則正しい寝息を立てる彼女はしかし、目覚めることは無い。寝惚け眼で、今にも「おはよう」と挨拶して来そうなのに。
何故かふと、親父の最期を思い出した。
病室での対局を終えた後の記憶。今まであえて思い出そうともして来なかった、その先を。
通夜の晩は、寝ずの番。母と二人で親父に付き添っていた俺は、虚ろな頭でひたすらに将棋盤を磨き続けた。どんなに血を拭い去っても、親父が生き返ることは無いというのに。
血塗れの盤は格好悪い。起き上がって来た時のために、綺麗にしておいてやろうと思った。やせ衰えてはいても、とても死んでいるようには見えなかったから。信じられなかったから。
結果的に、そんな奇跡は起こらなかった訳だが。
あの時の親父の顔が、どうしてか今の香織の寝顔と重なって見えた。
もしかしたらもう二度と、目覚めることは無いのかもしれない──。
嫌な想像が頭を過ぎり、俺はかぶりを振った。そんなはずは無い。香織は病気でも何でもない、ただ棋力を使い切ってしまっただけだ。少しばかり限界を超えて、指し続けてしまっただけのことだ。
たったそれだけのことで人が死ぬなど、そんなことある訳が無い。
──死にますよ、と。
声が、聞こえた気がした。
薄暗い室内を見回すも、俺達の他には誰も居ない。もう大丈夫だと告げて、照民には結月ゆかり、もとい永遠の陰へと帰ってもらっている。
震える指先が、香織の頬に触れる。俺よりわずかに高い平熱を感じ、息を吐いた。良かった、生きている。
だが、この先目を覚ますかどうかはわからない。
全ては、俺のせいだ。
俺が香織を追い詰めてしまったのだ。
彼女が全力で戦う姿をもう一度観たいと、あの文月伶架との一戦で消耗したと知っていたにもかかわらず、なおも過度な期待を寄せてしまった。香織はそんな俺の期待に応えるために無理をして、こんなことになってしまったのだ。
そう、全ては俺の責任だ。
夫として失格だ。妻よりも将棋を選ぶなど。
彼女が起きたら謝ろう。ごめん、香織。
謝るから──どうか、目を開けてくれ。
彼女の左手を両手で包む。頼む。神様でも何でもいい。どうか、香織を助けてくれ。
「祈るなら神ではなく。お狐様に頼んでみてはいかがですか?」
その時。先程の声が、今度ははっきりと聞こえて来た。
部屋の中に、突如として二つの気配が生まれる。
同時に、お香の匂いが鼻についた。まるで、微かに漂う、獣臭さを包み隠すかのように。
一人は声の主。狐面の巫女、竜ヶ崎雫。
そしてもう一人は、面を被らず素顔を晒していた。冷徹な視線が、俺の全身を射抜く。怒りを滲ませた殺意を、隠そうともしない。鬼籠野りん──いや。
「修司さん。貴方がついていながら、どうして香織さんを見殺しにしたんですか」
問い掛けて来る鬼籠野あゆむに、俺は返す言葉を持たない。見殺しにしたと言われても、否定できなかった。永遠との一局は本当に素晴らしく、見惚れてしまっていたから。どうしても、止めに入ることができなかった。
「すまない。俺は」
「やはり、貴方は香織さんのことを愛していない。貴方が愛しているのは、将棋だけなんですね」
違う。頭ではそう思っていても、何故か言葉は出て来ない。ドクンと心臓が跳ね上がるのを感じ、胸を押さえた。俺は香織を、愛していない……?
「香織さんは、私が助けます」
そう続けて、あゆむは自身を指差した。
巫女装束に覆われた部分はわからないが、彼の身体には墨で細かい文字が描かれている。二回戦で見た時よりも、文字の数は更に増えていた。まるで全身を、無数の蟻が蠢いているかのように錯覚する。
確か、香織からは『墨入れの儀』と聞いたか。将棋の駒に漆を塗る作業を『墨入れ』と言うが。もし、同じ意味合いなのだとしたら。
墨入れを経て、完成したというのだろうか?
「助けられる、のか?」
絞り出すように言葉を紡ぐ。彼らと話をする気分ではなかったが、今は香織の生命が懸かっている。四の五の言ってはいられない。
俺の問いかけに、あゆむは頷いてみせた。視線を香織の方に移して。
「ですが、その石が邪魔です」
首飾りを指差し、彼は忌々しげに告げて来た。
香織の胸元で、燦然と輝きを放つ紫の宝石。
この首飾りは、あの文月伶架から託されたものだ。魔除けの効果があるとか何とか言っていたが、狐除けにも使えるのだろうか?
「何とおぞましい光。伏竜の末裔どもが、余計なモノをプレゼントしたようですね」
今度は、竜ヶ崎雫がそう言って来た。その顔には、微かに怯えの色が浮かんでいる。
雫は首飾りに触れようともせず、香織から距離を取っている。
一方あゆむは、首飾りに手を伸ばすも、途中で顔をしかめて引っ込めた。
二人共態度に違いはあれど、触ることはできずにいる。
ミステリアスな雰囲気の、女性の顔を思い出す。彼らの言う伏竜の末裔とは、文月伶架のことなのか。それとも、その裏で暗躍する何者かのことか。
ふと思いついて、紫色の宝石の表面を、そっと指の腹で撫でてみた。俺が触っても、特に何も起こらない。やはり、竜ヶ崎に与(くみ)する者のみを退ける作用があるらしい。
「修司さん。香織さんを助けたいのなら、その首飾りを外して下さい」
俺の様子を見て、あゆむが指示を出して来た。
首飾りを外すと、彼らは香織に触れられるようになるのだろうか? 香織を助けてくれるというのだろうか? だが、一体どうやって?
「……外す前に答えてくれ。香織を、どうするつもりだ?」
俺の質問に、あゆむは冷めた視線を向けて来る。何て下らないことを訊いて来るんだと言いたげな表情だ。
「決まっているでしょう? 睡狐様の巫女にするんですよ。そうすれば、『四十禍津日(ヨソマガツヒ)』の力で香織さんの棋力を戻せます」
「何、だと……?」
睡狐の巫女? それは、この二人と同じ存在になるということか?
「巫女には、睡狐様より人智を超えた能力を授けられます。もう二度と棋力切れに苦しむこともありませんよ。永遠に将棋を指し続けられるのです。
どうです、悪い話ではないでしょう?」
生気の無い青白い顔をこちらに向け、あゆむは淡々とそう告げて来る。
──違う。以前道場で指した時とは、まるで別人だ。
鬼籠野あゆむの将棋には、澄ました表情とは裏腹に、沸き立つ情熱があった。一局に懸ける想いは、道場の誰よりも凄まじかった。俺は彼にただただ圧倒され、なすすべなく敗北を喫したのだ。あの時の彼の将棋は、今でも俺の憧れだ。
それが、今ではどうだ。格段に棋力を上げたのかもしれないが、熱意も何も感じられない。腑抜け。いや、睡狐の傀儡(かいらい)となり果てたか。
彼は、力を得て変わってしまった。
香織も、こんな風に変わってしまうのだろうか? 将棋を楽しむ心を、忘れてしまうのだろうか?
首飾りから手を離す。駄目だ、俺には選べない。
「香織さんが助からなくても良いんですか? この人はただ棋力を失っているんじゃない。魂が傷付いているのですよ?」
棋力はいずれ回復する。だが、一度傷付いた魂は簡単には治らない。放っておけば、善くないモノが心の隙間に入り込む。やがては虫食いのように食い荒らされ、廃人同然になるのだと、あゆむは告げた。
そうなっても良いのかと、彼は問うて来る。
もちろん、良い訳が無い。俺は香織に元気になって欲しい。
目を覚まして欲しい。いつも笑っていて欲しい。俺の傍で居て欲しい。一緒に、年を取って欲しい。
そしていつまでも、俺と将棋を指して欲しい。
──そうだ、だから。
たとえ姿形が変わり果ててしまっても、構わない。生きていてくれさえすれば。たとえ君が、睡狐の傀儡になり果てようとも。
俺は、君を愛し続ける。
「本当に、香織を治せるんだな?」
「ええ。彼女を同属に迎え入れるなど、誠に不本意ではありますが」
俺の問いかけに答えたのは、竜ヶ崎雫だった。唇を尖らせて、彼女は続ける。
「香織さんの復活を望んでいるのは、他ならぬ睡狐様なのです。必ずや、元通りにして下さると思いますよ」
睡狐が自ら、香織を助けようとしている……何故だ?
頭に浮かんだ疑問は、直(ただ)ちに希望に打ち消された。
香織が助かる方法がある。
ならば、俺がすべきことは何だ?
何の力も持たない、俺にできる、たった一つのことは。
考えるまでもない。
視線を香織の胸元へと向ける。
邪魔な首飾りを、外すんだ。
息を吸い、吐いた。
頭の中で詰将棋を思い浮かべ、瞬時に解いた。よし、思考はクリアな状態だ。
意を決する。
そろそろと、首飾りへと手を伸ばす。
俺が今からやろうとしていることは、香織の意思を無視した、夫として最低の行為だ。狐どもに妻の身を差し出すなんて、到底許されることじゃない。
わかっている。
それでも、彼女には生きていて欲しい。どんな形でも、生きてさえいてくれたなら、俺は──ごめん、香織。俺は君を助けるために、悪魔に魂を売る。
首飾りに触れる。やはり、何も起こらない。
後は簡単だ。柔(やわ)な鎖など、引き千切ってしまえばいい。俺にもできる、簡単な作業だ。
両手で鎖を掴み、力を込める。
最初のコメントを投稿しよう!