第九章(1)たとえ君が

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第九章(1)たとえ君が

 香織の意識が戻らない。  安らかな寝顔を見つめ、俺は嘆息する。  ひんやりとした空気に、思わず身震いした。  畳敷きの休憩所には、香織の眠る布団が一枚だけ敷かれている。すやすやと規則正しい寝息を立てる彼女はしかし、目覚めることは無い。寝惚け眼で、今にも「おはよう」と挨拶して来そうなのに。  何故かふと、親父の最期を思い出した。  病室での対局を終えた後の記憶。今まであえて思い出そうともして来なかった、その先を。  通夜の晩は、寝ずの番。母と二人で親父に付き添っていた俺は、虚ろな頭でひたすらに将棋盤を磨き続けた。どんなに血を拭い去っても、親父が生き返ることは無いというのに。  血塗れの盤は格好悪い。起き上がって来た時のために、綺麗にしておいてやろうと思った。やせ衰えてはいても、とても死んでいるようには見えなかったから。信じられなかったから。  結果的に、そんな奇跡は起こらなかった訳だが。  あの時の親父の顔が、どうしてか今の香織の寝顔と重なって見えた。  もしかしたらもう二度と、目覚めることは無いのかもしれない──。  嫌な想像が頭を過ぎり、俺はかぶりを振った。そんなはずは無い。香織は病気でも何でもない、ただ棋力を使い切ってしまっただけだ。少しばかり限界を超えて、指し続けてしまっただけのことだ。  たったそれだけのことで人が死ぬなど、そんなことある訳が無い。  ──死にますよ、と。  声が、聞こえた気がした。  薄暗い室内を見回すも、俺達の他には誰も居ない。もう大丈夫だと告げて、照民には結月ゆかり、もとい永遠の陰へと帰ってもらっている。  震える指先が、香織の頬に触れる。俺よりわずかに高い平熱を感じ、息を吐いた。良かった、生きている。  だが、この先目を覚ますかどうかはわからない。  全ては、俺のせいだ。  俺が香織を追い詰めてしまったのだ。  彼女が全力で戦う姿をもう一度観たいと、あの文月伶架との一戦で消耗したと知っていたにもかかわらず、なおも過度な期待を寄せてしまった。香織はそんな俺の期待に応えるために無理をして、こんなことになってしまったのだ。  そう、全ては俺の責任だ。  夫として失格だ。妻よりも将棋を選ぶなど。  彼女が起きたら謝ろう。ごめん、香織。  謝るから──どうか、目を開けてくれ。  彼女の左手を両手で包む。頼む。神様でも何でもいい。どうか、香織を助けてくれ。 「祈るなら神ではなく。お狐様に頼んでみてはいかがですか?」  その時。先程の声が、今度ははっきりと聞こえて来た。  部屋の中に、突如として二つの気配が生まれる。  同時に、お香の匂いが鼻についた。まるで、微かに漂う、獣臭さを包み隠すかのように。  一人は声の主。狐面の巫女、竜ヶ崎雫。  そしてもう一人は、面を被らず素顔を晒していた。冷徹な視線が、俺の全身を射抜く。怒りを滲ませた殺意を、隠そうともしない。鬼籠野りん──いや。 「修司さん。貴方がついていながら、どうして香織さんを見殺しにしたんですか」  問い掛けて来る鬼籠野あゆむに、俺は返す言葉を持たない。見殺しにしたと言われても、否定できなかった。永遠との一局は本当に素晴らしく、見惚れてしまっていたから。どうしても、止めに入ることができなかった。 「すまない。俺は」 「やはり、貴方は香織さんのことを愛していない。貴方が愛しているのは、将棋だけなんですね」  違う。頭ではそう思っていても、何故か言葉は出て来ない。ドクンと心臓が跳ね上がるのを感じ、胸を押さえた。俺は香織を、愛していない……? 「香織さんは、私が助けます」  そう続けて、あゆむは自身を指差した。  巫女装束に覆われた部分はわからないが、彼の身体には墨で細かい文字が描かれている。二回戦で見た時よりも、文字の数は更に増えていた。まるで全身を、無数の蟻が蠢いているかのように錯覚する。  確か、香織からは『墨入れの儀』と聞いたか。将棋の駒に漆を塗る作業を『墨入れ』と言うが。もし、同じ意味合いなのだとしたら。  墨入れを経て、完成したというのだろうか? 「助けられる、のか?」  絞り出すように言葉を紡ぐ。彼らと話をする気分ではなかったが、今は香織の生命が懸かっている。四の五の言ってはいられない。  俺の問いかけに、あゆむは頷いてみせた。視線を香織の方に移して。 「ですが、その石が邪魔です」  首飾りを指差し、彼は忌々しげに告げて来た。  香織の胸元で、燦然と輝きを放つ紫の宝石。  この首飾りは、あの文月伶架から託されたものだ。魔除けの効果があるとか何とか言っていたが、狐除けにも使えるのだろうか? 「何とおぞましい光。伏竜の末裔どもが、余計なモノをプレゼントしたようですね」  今度は、竜ヶ崎雫がそう言って来た。その顔には、微かに怯えの色が浮かんでいる。  雫は首飾りに触れようともせず、香織から距離を取っている。  一方あゆむは、首飾りに手を伸ばすも、途中で顔をしかめて引っ込めた。  二人共態度に違いはあれど、触ることはできずにいる。  ミステリアスな雰囲気の、女性の顔を思い出す。彼らの言う伏竜の末裔とは、文月伶架のことなのか。それとも、その裏で暗躍する何者かのことか。  ふと思いついて、紫色の宝石の表面を、そっと指の腹で撫でてみた。俺が触っても、特に何も起こらない。やはり、竜ヶ崎に与(くみ)する者のみを退ける作用があるらしい。 「修司さん。香織さんを助けたいのなら、その首飾りを外して下さい」  俺の様子を見て、あゆむが指示を出して来た。  首飾りを外すと、彼らは香織に触れられるようになるのだろうか? 香織を助けてくれるというのだろうか? だが、一体どうやって? 「……外す前に答えてくれ。香織を、どうするつもりだ?」  俺の質問に、あゆむは冷めた視線を向けて来る。何て下らないことを訊いて来るんだと言いたげな表情だ。 「決まっているでしょう? 睡狐様の巫女にするんですよ。そうすれば、『四十禍津日(ヨソマガツヒ)』の力で香織さんの棋力を戻せます」 「何、だと……?」  睡狐の巫女? それは、この二人と同じ存在になるということか? 「巫女には、睡狐様より人智を超えた能力を授けられます。もう二度と棋力切れに苦しむこともありませんよ。永遠に将棋を指し続けられるのです。  どうです、悪い話ではないでしょう?」  生気の無い青白い顔をこちらに向け、あゆむは淡々とそう告げて来る。  ──違う。以前道場で指した時とは、まるで別人だ。  鬼籠野あゆむの将棋には、澄ました表情とは裏腹に、沸き立つ情熱があった。一局に懸ける想いは、道場の誰よりも凄まじかった。俺は彼にただただ圧倒され、なすすべなく敗北を喫したのだ。あの時の彼の将棋は、今でも俺の憧れだ。  それが、今ではどうだ。格段に棋力を上げたのかもしれないが、熱意も何も感じられない。腑抜け。いや、睡狐の傀儡(かいらい)となり果てたか。  彼は、力を得て変わってしまった。  香織も、こんな風に変わってしまうのだろうか? 将棋を楽しむ心を、忘れてしまうのだろうか?  首飾りから手を離す。駄目だ、俺には選べない。 「香織さんが助からなくても良いんですか? この人はただ棋力を失っているんじゃない。魂が傷付いているのですよ?」  棋力はいずれ回復する。だが、一度傷付いた魂は簡単には治らない。放っておけば、善くないモノが心の隙間に入り込む。やがては虫食いのように食い荒らされ、廃人同然になるのだと、あゆむは告げた。  そうなっても良いのかと、彼は問うて来る。  もちろん、良い訳が無い。俺は香織に元気になって欲しい。  目を覚まして欲しい。いつも笑っていて欲しい。俺の傍で居て欲しい。一緒に、年を取って欲しい。  そしていつまでも、俺と将棋を指して欲しい。  ──そうだ、だから。  たとえ姿形が変わり果ててしまっても、構わない。生きていてくれさえすれば。たとえ君が、睡狐の傀儡になり果てようとも。  俺は、君を愛し続ける。 「本当に、香織を治せるんだな?」 「ええ。彼女を同属に迎え入れるなど、誠に不本意ではありますが」  俺の問いかけに答えたのは、竜ヶ崎雫だった。唇を尖らせて、彼女は続ける。 「香織さんの復活を望んでいるのは、他ならぬ睡狐様なのです。必ずや、元通りにして下さると思いますよ」  睡狐が自ら、香織を助けようとしている……何故だ?  頭に浮かんだ疑問は、直(ただ)ちに希望に打ち消された。  香織が助かる方法がある。  ならば、俺がすべきことは何だ?  何の力も持たない、俺にできる、たった一つのことは。  考えるまでもない。  視線を香織の胸元へと向ける。  邪魔な首飾りを、外すんだ。  息を吸い、吐いた。  頭の中で詰将棋を思い浮かべ、瞬時に解いた。よし、思考はクリアな状態だ。  意を決する。  そろそろと、首飾りへと手を伸ばす。  俺が今からやろうとしていることは、香織の意思を無視した、夫として最低の行為だ。狐どもに妻の身を差し出すなんて、到底許されることじゃない。  わかっている。  それでも、彼女には生きていて欲しい。どんな形でも、生きてさえいてくれたなら、俺は──ごめん、香織。俺は君を助けるために、悪魔に魂を売る。  首飾りに触れる。やはり、何も起こらない。  後は簡単だ。柔(やわ)な鎖など、引き千切ってしまえばいい。俺にもできる、簡単な作業だ。  両手で鎖を掴み、力を込める。
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