忘れた記憶ナポリタン

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忘れた記憶ナポリタン

――腹が減らないか?  山田が振り向かないで言う。返事も待たずに大学近くの路地を縫い針になって進んでいく。僕はついて歩いた。夕暮れの時間、二人の影は路地の黒い地面にみえなかった。 ――腹が減ったな。この店、どうだろう?  抜け路地の先、アパートの一階扉が開き放しで暖簾がかかっている。外からはなに屋か判然としない。 ――入るか?  万年ジャージのポケットに手を突っ込んで訊いてくる。僕は頷いた。 ――いいんじゃないか、もう歩き疲れたよ。 ――歩いて疲れるって人生何十年先取りしてるんだ、お前。 ――虚弱体質なんだよ、労われ。 ――瓦なら割ってやる。 ――うるせー。 ――こんばんはー。  軽く会釈をして山田が店内に入っていく。僕は後ろから追った。なんだかんだで、僕は彼といることを好いていた。一人では歩けないところを、彼となら歩ける。歩け過ぎて少し疲れるけれど。 ――いらっしゃーい。  愛想の良い声に招かれて、カウンターの丸椅子に座った。ラーメン屋? と感じる風情だったがメニューにラーメンの文字はなく、カウンター内、店主の背には酒瓶がガラスの壁になっていた。 ――夕方、こんな時間にお食事ですか?  見た目で性別がわかりにくい店主が店内の薄暗がりに似たトーンの声で尋ねてくる。 ――ええ、ちょっと小腹が。 ――はい、軽く。  水とおしぼりが出される。山田はコップに唇をつけずに水を飲んだ。潔癖か? といつか尋ねたら、「いや、ただのナマグサだ」と言われた。きっと言い間違えていたんだろうけど、僕はあの時突っ込まなかった。「それを言うならモノグサだろう」長い長い時間差突っ込みをいつしてやろうか。 ――ピザトースト。  山田がメニューを近眼にくっつけて注文した。 ――僕もそれで。  彼にくっついていく。 ――お飲み物は? ――水でいいや。貧乏学生だもんで ――僕も。  ――あら、学生さん。そうですか。じゃ、お支払いはどちらで?  店主の顔が裂けそうなほどニヤつく。後ろ手の早業でカラカラと窓を開けた。棚の一部が抜けていて窓から夕焼けが山田の目に繋がった。驚いて良くみると、川面を走る夕焼け色が窓を抜けて店内に差し込んでいるのだ。  お支払いはどちらで? ――どちらって? 俺らカードなんか持ってないけど。  うんうん。 ――違うんですよ。この時間だけ、夕方の時間だけ。忘れた記憶で支払っていただけます。  店主は背中に夕焼けをみながら小焼けもせずに言う。トースターでピザトーストが焼けるいい匂いが店内を包んだ。 ――お待ちどう。 ――ありがとう、じゃ、俺、そっちで。 ――僕は現金で。  山田は僕を咎めない。友達甲斐のない奴なんだ。 ――ありがとうございます。  店主は喜んでサービスにアップルティーを二つくれた。白いカップに入ったそれはピザトーストでグチャついたベロを愛撫して淫靡だった。しばらくはキスを慎もうと誰に見栄を張ってか僕は思う。  会計。僕はケツのポケットから二つ折りの財布を引っこ抜いて千円でお釣りを貰う。五百円玉は千円札より頼もしい、子供の頃のまま。  山田は丸椅子に座ったまま、店主の右手をおでこにかざされていた。  去年二人で行った風俗店よりおかしな風景だった。  店主は左手小指の爪を針のように尖らせていて、それで体を刻んでいる。震えと白いブラウスを染める薄い赤が、夕焼けの店内に強くあった。 ――またどうぞ。 ――ごちそーさん。 ――美味しかったです。  あの店のことを山田と話す。ただ話すだけで、僕は行かない。 ――昼と夜は現金でしか支払わせてくれないよ。  あんな気味の悪い店に、山田はせっせと通って忘れた記憶を支払っているらしい。 ――気味が悪いな。 ――まーな。  と、マンションの屋上に寝っ転がって煙草の煙を雲に加勢させている。出世の見込みはありそうかい。 ――忘れた記憶、って、なんなんだろう。あの人はそれをどうするんだ? ――さーね。 ――ちょっと考えてみたよ。 ――へー。 ――影のことだ。昼には影がクッキリある、夜になると灯りのないところではみえなくなるな。 ――あー。 ――でも、影は消えるわけじゃない。夜に匿われてなにをしているか知れないが、いっそ生き生きとある。記憶も同じじゃないかな。忘れてもなくなるわけじゃない。人の中に、生き生きとある。 ――なにを言ってる。忘れるってことは消えるってことだ。影も同じ、みえないならないんだよ。 ――そう思うのか? ――うん。ふーっ。ほら、煙も消える。あって、なくなる。そんなものをいつまでもあるとか言ってたらキリがない。 ――あの店、薄暗かったな。 ――ああ。 ――キャラハン刑事が言ってた。うちの中が暗いのは顔の粗がみえないようにするためだって。 ――誰だよ。 ――ダーティハリーだよ。 ――みたような、みなかったような。 ――僕は覚えてる。  そこで会話が止まった。  夕焼けが小学校から聴こえてくるクラシックと共に夜に呑まれていく。  僕は山田に忘れた記憶を売って欲しくなかったのかもしれない。  ついて歩く背中を、なるべく近くに感じていたかった。  不法に侵入した高層マンションの屋上で、膝を抱えて見下ろす山田の寝っ転顔は悪くない。 ――困らないんだよ。俺はさ。覚えてるよ。好きな映画なら、忘れたくない思い出なら、それで支払ったりしない。 ――それはそうか。 ――もう一度だけ、一緒に行かないか?  山田が立ち上がって言った。 ――もう、夜じゃないかな。  僕は膝をまたギュっと抱いた。 ――明日でも、明後日でもいい。 ――なんで? ――もう一度、今度はピザトースト以外の物を頼め。入口と出口、似て異なる口で挟み打てば、俺は忘れない。なんとなくだけどさ。 ――気味が悪いんだよ、あの店。 ――でもナポリタンは美味い。 ――奢るか? ――あー、いーよ、店が許すなら。 ――忘れた記憶長者だな、お前。 ――楽に生きる秘訣だよ。 ――かも、しれない。  でもいい。山田は忘れないと言った。  昼、覚えている。夜、忘れている。夕、どっちにする? 山田は忘れる方を選び、僕は覚えておく方を選んだつもりでいたけど。そうでもなかったのかも。  立ち上がると日が沈み切った町の暗闇が、昨日よりも静かにみえた。    
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