プロローグ

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 水曜日の彼は自分の世界に没頭しているみたいで、読書をしているときの表情がとにかく真剣だ。  私の演奏を聴いているわけではないし、うっとうしく思っている様子もない。まるで耳に届いていないみたい。  水曜日以外は、たいていおっとりというか、なんとなく気の抜けた表情をしているのに。  ためらいを振り払って彼に声をかける。 「おはよう、気持ちのいい朝だね」  当たり障りのない挨拶をすると、彼はわずかに顔を上げて私に視線を向けた。一瞬、ほんの一瞬だけ目を細めて小さな作り笑い笑をみせると、すぐさま真剣な表情に戻り、手にした本へと向き直る。水曜日の彼が挨拶を返さないことを、私はとっくに承知している。  フェンスに歩み寄り、広がる景色を一望する。今日は空気が澄んでいて、山々の辺縁と空の境界が明瞭だ。  山の麓に広がる平野に、駅から放射状に伸びる幾何学的なアスファルトの造形が、森林の間を縫うように広がっている。私はこの自然と調和した街並みがお気に入りだ。つくづく、この街に生まれてよかったと思う。  気持ちが落ち着いたところで、手にしているフルートを掲げて唇にあてがう。胸いっぱいに大気を取り入れ、それからフルートに息を吹き込んだ。  銀白色のフルートが震え、やわらかな音色が青空に向けて解き放たれる。  私の演奏、京本くんにはどんなふうに聞こえているのかな? 部活の先輩には、素直で憎めないところが魅力的だよ、って褒められた音色なんだよ。  でも、きみが答えてくれることは、きっとないと思う。  だって、水曜日のきみは絶対に喋らないのだから。
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