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   手が、痛い。  悠也の頬を打った、手が痛い。  なんでだろう。なんでこうなってしまったんだろう。  結局今回も同じだった。いつもの繰り返しだった。 「……あぁ」  昨日のフラッシュバックから逃げるために引き出しを開けて、封の開いているポテトチップスの袋から一枚をつまんで食べた。  ……おいしい。なんで売れなかったんだろな。  せっかく一念発起して作り出した新商品だったのに全く売れなかったな。  うちで唯一売れたと言えるのは、じぃちゃんが作り出したエプロンを付けたクマを形どったクマちゃんクッキーだけ。赤ちゃんでも食べられる素朴な味のお菓子だ。  だけど少子化の煽りを受けてクマちゃんクッキーの売上だけでは経営は成り立たず、先代から続く赤字と不景気で今は工場を稼働させていない日も多い。社員も俺以外ではあと一人となってしまった。なんとかこの状況を打開すべく、また新しい商品を考えなきゃいえないのに、突然涙がこぼれた。  八方塞がりなんだ、本当は。限界かもしれない。仕事も何もかも。  ……手が痛い。  昨日も何度も何度も悠也を叩いたから。あまりの痛みに眠れなかった。 「翔平(しょうへい)くん、翔平くん、大丈夫?」 「…………」  顔を上げると、木村(きむら)さんに見下されていた。先代の親父の頃からここで働いてくれている、唯一残っている社員の木村さん。トレードマークのように胸に山伏製菓(やまぶしせいか)と書かれた作業着をいつも着ている。 「まだ体がつらいんだろう? 無理をしてはいけないよ?」 「…………」 「翔平くん、良かったらこれで何か買っておいで」  木村さんはそう言うと、財布から五百円玉を出した。 「…………」  木村さんはまだ俺のことを子供だと思っている。昨日突然仕事を休んでしまったのを体調不良だと信じているのだ。 「……ありがとう。木村さん」  俺は木村さんの優しさをありがたく受け取った。本当に子供に戻れたらいいのに。  木村さんは笑顔になると甘い匂いのする工場に戻って行った。  そうだ。こういう時ほどたくさん食べて元気を出そう。俺は受け取った五百円玉を握りしめ、コンビニに行くことにした。ついでに木村さんに缶コーヒーも買ってこよう。  店の中で新商品や季節限定のアイスやコーヒーを手に持ち、レジに立つとまた涙がこぼれ落ちた。 「…………」 「大丈夫ですか?」 「…………」  店員の驚く声が聞こえて見ると、店員は目を見開いて驚いた顔をしていた。 「……大丈夫です」  いけない。正気を保たなきゃ。どうにかして生き抜くんだ。  お金を払ってコンビニの袋を持って店を出た。  もう忘れろ。いつものことじゃないか。  予期していた通りのことが起きただけなんだから。 「日野翔平(ひのしょうへい)さんですか?」 「…………」  いつの間にか座り込んでいたらしい。  頭の上から声がして、顔を覆っていた手をどけて見上げると、巨大な男が立っていた。 「山伏製菓の日野社長ですね?」  誰だっけ? この人。  目が細くて垂れ目の笑い顔。立ち上がってもバックに空が見えるくらいに背が高い。 「私、こういう者です」  差し出された名刺を受け取ると、そこにはイグチカンパニーと書いてあった。そこの秘書の多丸久一(たまるひさかず)。知らない名前だ。  ……イグチカンパニー? って、あのイグチカンパニー? 「うちの社長があなたに会いたがっているのですが」 「は?」  イグチカンパニーの社長って……。 「弊社の井口規(いぐちただし)社長です」 「…………」 「お忙しいようでしたらまたお伺いしますが」  笑い顔の男が俺が左手に持つコンビニの袋を見ながら言った。 「…………」  これは予期していない出来事だ。まさか、あの井口規が俺に会いたがっているなんて。どうする? 多丸という男の顔を見ながら考えた。  ……きっとこれ以上に酷いことは起きない。  俺は雲の上に座るような感覚の高級車に乗り、膝の上に溶け始めたアイスと冷めていくコーヒーを乗せて運ばれた。  巨大な建造物。社屋だと言われなければ、どこかの美術館と間違えたかもしれないエントランスホールを抜け、エレベーターに乗った。  エントランスホールを見下げるようにエレベーターは上昇し、半分ほど上ったところで降りた。  製菓会社のくせにお菓子の甘い匂いなど全くしないフロアは、パーテーションでいくつも区切られ、その中で大勢の社員が働いている。  多丸に気がつくと誰もが会釈をした。俺はその斜め後ろをコンビニ袋を持って歩いた。まるで大人の社会科見学だ。せめてこんなボロボロじゃない状態で連れて来てほしかった。  イグチカンパニー。この国に何百社もある製菓会社の最大手の一つ。うちとは比べものにならないほどの人員がここで働いている。  多丸という名の笑い顔の秘書が俺の耳元で囁いた。 「どうです? 人が魚のようにウヨウヨと動いているでしょう。気持ち悪いですよね?」 「…………」  ……なんだこいつ。  つい車に乗ってしまったけど、なんで俺はこんな場違いなところに連れて来られたんだ?  注目されながらフロアを通り抜け、また別のエレベーターに乗った。今度は上りきったところでエレベーターは止まった。扉が開くと、先程とは打って変わって静かな空間広がっていた。 「あの」 「こちらです」  俺の戸惑いを知ってか知らずか、多丸は行く道を示すように俺の前を率先して歩く。  とても人が少ない。さっきとは全く違う川を泳ぐようにゆったりと歩き、一つの扉に辿り着いた。まるで地獄の門のように存在感のある扉だ。  多丸がノックをして中に入ると、コンビニが丸々一個入りそうなスペースに、どこかの城の門構えみたいな大きな机が一つあり、机の横には無限のビルディングを見下ろせる壁一面の窓があった。  井口規はなんだか格調高そうな革張りの椅子に座り、肘掛けに頬杖をつき、睨むような横顔でそれを見ている。  ……本物の井口規だ。  この前、ガノアの夜明けに出てたから覚えてる。大学を卒業後、一般社員としてイグチカンパニーに入社し、二年前の三十歳で社長に就任。会社を継いだあとは合併と統合を繰り返し、会社をさらに大きくしている。その見た目からお菓子界のプリンスと呼ばれている。  しかし目の前にいる井口はきらびやかなプリンスというよりも、森の中で潜む狼みたいに鋭くて影が深く見えた。  そんな井口の隣に笑い顔の多丸が立った。 「ご存知かどうかわかりませんが、山伏製菓の先代の日野龍平(ひのりゅうへい)さんとイグチカンパニーの先代の井口寿(いぐちひさし)は大学の同窓生でした」 「…………」  井口の隣に立つ多丸が、まるで良いことがあったみたいに笑顔で話し出した。 「お互いに同じ業界の跡取りだったということもあって意気投合し、悩みを打ち明けたり相談したりしていたそうです。同じ女を取り合ったこともあったとかなかったとか」  なんだそれ。全部知らないぞ。 「卒業してからはほとんど会う機会はなかったそうですが、五年前のある日、お父様が突然こちらにいらっしゃったのです」 「…………」  まるで興味が無さそうにしている井口の視線を追うと、雲が横に流れ、大小様々なビルディングに日が落ち始めているのが見えた。  ……五年前? 「その時はまだ先代の井口寿も存命でした。お父様は先代に借金を申し込まれたのです」 「えぇっ!」  なにそれっ! 「旧知の間柄とあって金を貸すことにしました」 「ちょ、ちょっと待ってください!」  そんな話聞いたことない! 「もちろんこちらとしましても、無償で貸すわけにはいきません。ですのでその時お約束したのです」  多丸がスーツの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、俺の前で印籠のように縦に広げて見せた。 「もし五年後までに金を返せなかったら会社の権利を全て譲ると」 「はぁっ!?」  紙を奪い確認すると、たしかにニ千万を借りることと会社の権利をゆずることが親父の字で書かれていた。しかも日付が……。  借用書はすぐに多丸に取り返された。 「…………」 「こちらは法的にも有効なものです。五年後とはあと一月後のことです。お父様はあなたが何か奇跡を起こしてくれるんじゃないかと期待をしていたのかもしれないですねぇ」  腕を後ろで組み、楽しそうに笑う体を左右に揺らす多丸に告げられた。 「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! 知らなかったんです! そんなこと突然言われても!」  親父からは何も聞いてない。そんなこと一言も。  楽しそうに揺れる多丸が頷く。 「ですがあなたは父親から会社を相続しておりますので借金も相続したことになるのです」  ……そんな。 「実はうちの井口は山伏製菓さん対して大変思い入れがあるのです。山伏製菓さんが潰れるというのは井口にとってもとても辛いことなのです」 「…………」  ……こいつが?  さっきから退屈そうに窓の外、眼下に広がるビルの群れを見ているだけのこいつが? 「なのでこうしましょう。二千万を返してくれとはいいません。ただクマちゃんクッキーをうちにください」 「え?」 「ニ千万でクマちゃんクッキーの権利を買ったということにしますので」 「…………」  ……そんな。 「そんなの、うちに潰れろと言ってるのと同じじゃないですか!」 「それならニ千万を取り立てさせて頂きます」 「…………」  初めて膝から崩れ落ちた。  ……終わった。全部終わりだ。ニ千万なんてすでに借金で首が回らない状態なのに絶対無理だ。クマちゃんクッキーをとられたらうちにはもう何も残らない。完全に八方塞がりだ。  窓の外では夕暮れが始まっていた。でも俺の視界はすでの真っ暗闇だった。
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