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 ……なんで、親父は言ってくれなかったんだよ。せめて死ぬ前に言ってくれたら良かったのに。  とりあえず返済の期限まではあと一月ある。それまでにどうするか考えなくちゃ。  多丸に車で送ってもらい、会社に戻ると、隣の工場にまだ灯りがついているのが見えた。  木村さんが珍しくこんな時間まで何かをしているみたいだ。最近は工場の方は木村さん一人に任せている。その程度にしか今は発注がないから。少子化時代に駄菓子の需要が増えるわけがないんだ。この先さらに先細りになっていくのは目に見えてる。 『ついでに会社を手放すのもいいかもしれませんね。身軽になって楽になれますよ』 「…………」  考えなきゃと思うのに、昨日の井口のあの退屈そうな冷たい横顔と多丸の楽しげな笑顔とあの言葉が頭を離れなかった。  やっぱり俺にはこの会社を立て直すのは無理なのか。親父もそう思ってたから俺に何も言わなかったのか? 「翔平くん? どうしたの?」  木村さんがいつの間にか、作業着から甘い匂いを漂わせながら横に立っていた。慌てて袖で涙を拭いた。 「お腹空いたのかな?」  木村さんはそう言って手に持っていた作りたてのクマちゃんクッキーを机に置き、俺の頭を撫でた。 「遅かったね。まだ無理をしてはいけないよ?」 「……うん。ありがとう」  まだ体調不良だと信じてくれている木村さんの優しさがつらい。体の痛みよりもずっとずっと心に響いてくる。昔から親みたいに優しくしてくれた人だから、本当は情けない姿なんて見せたくないのに。  ……そうだ。  ふと思いついた。木村さんなら何か知ってるかもしれない。若い頃から親父の元で働いていた人だから、親父から何か聞いてるかも。 「木村さん」  聞こうとした瞬間だった。机に置いていたスマホが振動した。なぜかその振動からはサイレンのように嫌な予感がした。   ……まずい。悠也だ。  届いたメッセージから今自分に迫っている危機を読み込んだ。 『お前を殺して俺も死ぬ』  ……早く帰らなきゃ。  手が、まだ痛いのに。  心も。  でもまた悠也がおかしくなってるから。 「木村さんっ! ごめんっ!」  慌てて立ち上がると、木村さんが驚いた声をあげた。 「翔平くんっ!?」 「俺もう帰るから!」  謝りながら会社の中を走り、駐車場へ向かった。駐車場に止めていた車のドアを開け、乗り込もうとすると体が勝手に後ろへ傾いた。 「え?」  気が付くと首を何かでロックされていた。  ……遅かった。  サイドミラーに俺を捕まえている充血した目の金髪の男が映っている。建設現場で鍛えられた大きくて日に焼けた体。その太い腕が俺の首を締め付けていた。  切れ長のイケメンだったはずの顔は俺のせいでボクサーの様に腫れ上がっている。何度も何度も求められるままに叩いたから。 「なんで逃げるんだよ」 「……ち、ちがうんだ。今から帰ろうとしていたんだ」 「本当は俺から逃げようとしているんだろう?」 「……ちがうって」  体ごと後ろへ引きずられ、悠也がドアを開け、後部座席に押し込まれ、ドアをバタンと閉められた。  運転席に乗った悠也は、よく見ると左手に包丁を握っていた。そのまま右手でハンドル持ち、エンジンをかけた。 「うわっ!」  車が急発進したせいで、シートに頭をぶつけた。  視界をチカチカさせながら起き上がると、カーブでシートに体を投げ出された。なんとかドアに掴まり外を見ると、車は家とは別の方へ向かっていた。 「……ど、どこへ?」 「このまま二人で遠くへ行こう」 「は?」 「お前のために仕事を辞めてきた。家族も捨てた。もう俺には戻れる場所はない」  ……どうしてそうなっちゃうんだ。 「……悠也、考え直して」  暴れる車の中でシートの間に挟まってしまい、抜け出せずにいると、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。猛スピードで迫ってきたパトカーが横に並んだが、悠也がスピードを上げて突き放す。 「悠也! 止まって!」 「嫌だ。もうこれ以上お前と離れていたくない」 「ずっと一緒にいるじゃないか! これ以上どうしたいんだよ!」  スピードを上げたパトカーがまた横に並んだ。 「悠也! お願いだから止まって!! パトカーが来てる!!」  なんとかシートの間から抜け出し、後部座席から助手席へ移ろうとしたが、またもカーブで運転席と後部座席の間に挟まってしまった。 「止めろって!」 「俺にももうどうしたらいいかわからないんだ! お前といると頭がおかしくなる!」 「…………」 「お前なんかと出会わなければ良かったんだ! そうすればこんなに苦しまずにすんだのに! 俺の人生はめちゃくちゃだっ!! もうずっとお前のことしか考えられないんだよ! 頭がおかしくなりそうなんだ! それが苦しいんだ! お願いだからもう解放してくれ!」 「離れたいのか離れたくないのかどっちなんだよ! 俺はどうしたらいいんだよ!」  挟まっていたシートの間から抜け出し、悠也がガンガンと殴るハンドルに思い切って飛びかかった。  しかし悠也に右にハンドルを切られ、何かにぶつかる激しい衝撃を感じた。  しばらくじっとしていたが、体を動かすと猛烈な痛みに襲われた。 「……いってぇ」  どうやら下半身は運転席と助手席の間で、上半身はエアバッグに抱きついているようだ。もう全身という全身が痛い。  なんとか起き上がって、運転席の方を見ると悠也が首に包丁を当てていた。 「……悠也、やめて」 「……翔平、ごめん。お前といるのは苦しすぎるんだ。だから……」 「…………」  警察官が何かを言いながら窓が割れている運転席のドアを開けた。悠也の包丁を持った手を掴まれ、車外へ引っ張り出される。  悠也が首から一筋の血を流しながら俺へ手を伸ばした。 「…さよなら」 「…………」  悠也が警察官に両脇を抱えられ後ろ向きに引きづられていく。  どうしてこんなことに。 「悠也ぁぁああぁああぁっ…………!」  お互いに伸ばした手が触れ合うことはなく、悠也はパトカーにのせられてしまった。それはスローモーションのようだった。  いつもそうだ。別れはいつも苦しい。  ……でもどうしていつもこんな終わり方なんだ。  好きなのにもう一緒にはいられない。  後部座席のドアを開けられ、警察官に腕を支えられながら外へ出ると、車の前部分が電信柱にめり込んでいた。 「…………」  あとから来た救急車に乗せられ、病院に行って検査を受けたあと、朝まで病室で事情聴取を受けた。  警察から解放されると、体は骨折はしていないものの廃棄寸前なほどボロボロだった。  一睡もせずに病院からそのまま会社に行こうとバスに乗ると、窓ガラスに額に固まった血が付いているのが見えた。  ……どうしてこうなってしまったんだ。  どうしていつもいつも。  俺の与える痛みが、悠也から徐々に理性を失わせている気がしていた。お互いに止められなくなっていたんだ。でもこれでやっと地獄みたいな日々が終われるんだ。  悠也もきっと正気に戻れってくれるだろう。  涙で額の血を拭いながらバスを降りた。歩いて会社に向かっていると、会社の入口に人が立っているのが見えた。 「…………」  優しそうな笑顔で遅刻した俺を待つ木村さんと、その横で得体のしれない笑顔の多丸が、なぜか楽しそうに拍手をしながら俺を出迎えようとしていた。
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