ハーブの風

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ハーブの風

546dd2ff-d82c-4c12-9f44-fbe4846a9223 緑が丘、という地名はまさかその店のためにあるわけではないだろうが、高台の住宅地のその奥に敷地のほとんどを草花が占める『ハーバルショップ グリンフィンガーズ』はある。 その広さ、ざっと300坪。住宅地の一角という表現はあまりふさわしくないそこは、周りを簡素な木の柵で囲まれ、庭一面のハーブ畑と小さな白いガゼボ、入り口である木製のアーチから続く小道の突き当りに蔦に覆われた漆喰の古い家があって、そこに若い主人がひとりで住んでいた。 その日の早朝、年の頃12、3の小柄な少年がアーチを抜け、風にそよぐ草花をぼんやりと眺めながら小道を歩き、ガゼボの中央にある真四角のベンチにストンと腰掛けた。 色は白く手足は痩せていて少し猫背気味なのはいかにも街の子という感じなのだが、長めの前髪から覗く瞳は野生動物に似て、虚無と生命力を共存させた強さを秘めている。 まだ青白く肌寒い空気に混じる植物たちの様々な香りに、少年は知らず胸いっぱいに深呼吸して、後ろにゴロリと寝そべった。 それから間もなくのことだ。遠くでパタンと戸の閉まる音がして、この店の主人が一抱えもある大きな竹製のザルを持って朝のハーブ摘みに出てきた。 すらりと背の高い、どこか儚さを感じさせる佇まい。それはサラサラと茶色味を帯びた髪のせいか、銀縁の繊細な眼鏡のせいか。動植物に愛されそうな、優しく温かい眼差しをした男だった。 少年は身軽に体を起こし、ガゼボの白いフェンスから顔を覗かせるように首を伸ばした。 「稲穂(いなほ)。今日は随分早いね」 主人の佐倉(さくら)陽人(はると)は眼鏡の向こうでくしゃりと笑って、ハーブの庭の真ん中にある白いガゼボへやって来た。 ふと見れば、少年、槙尾(まきお)稲穂(いなほ)の口元には生々しい出血の痕があり、佐倉はほとんど分からないくらいの憐れみを瞳の奥に隠して、稲穂の片頬を包むように触れた。 「お父さん?」 「そ。朝帰りでさ。酒臭くてたまんないから出てきた」 「おいで。カレンデュラオイルを塗ってあげる」 佐倉は頬に当てていた手で稲穂の頭をふわりと撫でると、ザルをガゼボに立てかけて家の方へ戻り始め、後を追う稲穂はもうこの小道の行き来も慣れているのが見て取れる軽い足取りで、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま佐倉が招き入れるように開けた古い木の戸の向こうにその身を滑り込ませた。 長らく土足で人の出入りがある床板はよく通る場所が靴底に削られて色が薄くなり、奥のアイランド型の作業台へと続いている。 作業台の奥の経年を感じさせる木製の棚には、様々なハーブが種別に詰められた大きなガラス瓶がずらりと並ぶ。グリンフィンガーズを訪れた客の多くは佐倉のカウンセリングを受け、自分の体にあったお茶やエッセンシャルオイルをブレンドしてもらうのだ。 ほぼワンフロアが吹き抜けで天井は高く、所々ひび割れた漆喰の壁とむき出しの梁が不思議な温かみを感じさせる店内。2階へと続く階段の手すりには乾燥した草花たちの束が幾重にも吊り下げられ、広い室内は電気をつけていても少し明るめの納屋といった風情だった。 「ハーブ摘みを手伝ってくれたら特製モーニングをつけるけど。どう?」 稲穂を作業台の奥の流しへ手招きした佐倉は引き出しから清潔な布を取り出して水で濡らし、稲穂の口元の血の固まった傷をそっと拭き、それから青い瓶に入ったカレンデュラオイルを少し手に取ってチョンチョンと傷に塗りつけ、その上からガーゼを当ててテープで止めた。 「ほんとは冷やした方がいいけど」 「大袈裟だな。いーよ、もう」 「そう言うと思った」 オイルの瓶を戸棚に戻した佐倉が困った顔で笑うと、稲穂は頭の上で手を組んで身を翻し、今入ってきた店の入口の木戸を開けた。
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