ハーブの風

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佐倉と稲穂が知り合ったのはおよそ5年前。両親が離婚して父方の実家、つまり稲穂から見れば祖父母宅に越して来た頃の事。 ホームシックになるような性質でも人見知りなわけでもない稲穂は、横柄な祖父といつも疲れている祖母と、おまけに酒が入るとしばしば暴力を振るう父との暮らしに上向く兆しを見い出せず、かといって夜の街とも共鳴出来ず、小さな携帯ゲーム機だけをポケットに入れて居場所を探していた。 あれは風の強い日で……その風がハーブの庭の独特の香りを遠くに運び、学校帰りの稲穂を包んだのだ。 ふと足を止めた稲穂は寂しげな瞳をゲームの画面から中空へ彷徨わせて鼻先を上げ、クンと匂いを嗅いだ。 いつもの彼なら、何の匂いだろうと思っただけで終わったに違いない。だがその青く生命力に富んだ豊かな香りが稲穂の奥に眠る子供らしい好奇心をくすぐり、稲穂はゲーム機をポケットにしまうと風上に向かって歩き始めた。 そうして稲穂のいた場所から近かったわけではないハーブの園に導かれたのは、やはり運命だったかもしれない。 たまたま20代くらいの綺麗な女性から『ぼく、この辺にあるグリンフィンガーズっていうハーブのお店、知らない?』と訊かれて首を振ったのだが、その女性が微笑んで立ち去ると、稲穂は少し間をあけて後をつけて歩き出した。 小学3年生の彼に何か明確な理由があってそうしたのではない。ただ、眠る自分を揺り起こした香りと、綺麗な女性が口にした ”ハーブ” は繋がる、と感じた。そしてそこへ自分も行きたいのだと思った。それだけだった。 かくして稲穂はグリンフィンガーズに辿り着いた。 木製のアーチの上に『Green Fingers』と英語表記で店名が刻印されていたが、もちろん稲穂には読めない。それでも稲穂を誘った香りは青々とそこに満ちて、稲穂は入口の正面、庭の真ん中にある白いガゼボの中のベンチに腰掛け、ゆっくりと深呼吸した。 サヤサヤと草が擦れる音が耳に心地良い。目を閉じれば広い草原の中にいるような、どこまでも自由になれるような、そんな気がした。
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