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やがて日は傾き、外灯がポツポツと灯り、店の方からすらりと背の高い涼やかな佇まいの男が出てきた。このハーブの庭の主人、佐倉である。佐倉はガゼボにぽつんと座る稲穂に気付くと、銀縁眼鏡を曲げた人さし指の関節でくっと上げて立ち止まった。
「ぼく、迷子?」
微笑んで、稲穂の傍まで歩いてくる。稲穂は首を振って佐倉を見上げた。同年代の子供たちよりもさらに小柄な稲穂からすると、随分と大きな大人の男である。それでも恐れもしなかったのは、植物のように静かで押し付けのない自然な空気を佐倉が纏っていたからかもしれない。
佐倉はすとんとしゃがみ込んで首を傾げ、稲穂を覗き込むようにした。
「おうち、一緒に探そうか」
適当に歩いて来たから道をはっきりとは覚えてないない。だがまったく見当も付かないほど分からない訳でもなかった。それなのに稲穂はただこくりと頷いて、佐倉が差し出してきた手を取った。
その瞬間……体の内に広がったなんとも言えない安心感に、稲穂自身も気付いていなかった感情の塊が溶け出し、ほろりほろりと落ちた。それは決してあやふやな道順を家に帰れるかどうか分からないという不安ではない。もっと根源的な……求めていた温かな空気だった。
「あらら。大丈夫だよ。おうちはちゃんと見つかるよ。お名前は?」
佐倉は稲穂を覗き込むように微笑み、優しく訊ねた。
「まきお、いなほ」
「稲穂くんかぁ。素敵な名前!さあて。お兄さんはね、スーパーミラクルな勘がすごいんだから。きっとすぐに見つかる!」
「すーぱーみらくる……」
「そう!じゃあまずは、こっち!」
そして住宅街を東へ西へ……途中で稲穂が見覚えのある道に出て、結果、佐倉の言葉通りすぐに家は見つかった。
「良かったね!じゃ、またね!」
稲穂が門に入るのを見届けて、佐倉は手を振りながら来た道を戻って行って、稲穂は街灯に伸びた影が小さくなって消えるまでそこに立っていた。
家に入ればどこをほっつき歩いてた!と祖父に怒鳴られたが、稲穂は不思議と叱責の声が自分の体を避けて通り過ぎていくように感じた。家の中があんなに息が詰まるようだったのに爽やかな香りに守られて、まるで魔法のあぶくを飲んで水の中でも息が出来るようになったような、そんな心持ちだった。
きっとあのおにーさんの、すーぱーみらくるな力なんだ……
何故かそう思えて、その日以来稲穂は頻繁にグリンフィンガーズを訪れるようになったのだった。
「稲穂~~終わった~~??」
「終わった~」
「よ~し、お疲れ様!さ、帰って朝ご飯にしよう」
大きなザルにこんもりと摘み終わったハーブたちを乗せて、佐倉と稲穂が小道を歩いて行く。
遠くに見える東の木々の先端から、眩しい朝日のかけらが煌めいている。
この庭にお客が訪れるまであと数時間……植物の恵み溢れる店の一日が、始まろうとしていた。
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