10# ジンジャーシロップ

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己を世界から切り出すような孤独の感触に圧倒された稲穂は、そのまま静かに泣いていた。そして自然と涙が引くにまかせて放心して……やがてむくりとベッドの上に起き上がった。 開けっ放しのカーテンの向こうの窓は黒く、電気を付けていない部屋の中とガラスを隔てて繋がっている。 稲穂はベッドを降り、窓を開けた。古い木枠が軋んで高い音を立てた。 もう寒いくらいの冷たい空気が流れ込んでくる。中と外が曖昧になる。稲穂は窓から見える住宅街の屋根を見下ろして、はぁっと白い息を作るように吐いてみたが白くはならなかった。 「……」 みんな一人なんだ。誰かといる人も、そうでない人も。 間を闇が埋めて、こうしてゆるく繋がっている。 急速に自分を立て直そうとする力がどこからともなく湧いてきて、窓とカーテンを閉めて電気を付けた稲穂は、もう一度ベッドに座って今後のことを考えた。 実は引っ越し費用はもう貯まっている。それならそろそろここを出なさいっていう、神様からのお告げかもね、とまだじくじくしている胸のことは放ったらかしで小さく笑う。 時計をみればキッチンを出てから三十分以上経っていて、空腹を覚えて自分が今日の夕食の係であることを思い出した。 それを条件に置いてもらっているのだ、と稲穂はいつもの醒めた目を取り戻して部屋を出た。出た途端にふわっと甘い匂いがした。 陽人がジンジャーシロップを作ってる。菖蒲のために。 やはり消えない寂しさを、稲穂はもはやどうこうしようとは思わなくなっていた。 階段を降りながら、植物の香りと優しい息吹に満ちた店内を見渡す。稲穂の人生と交わってからもう7年。もうすぐお別れだと思うと驚くほど胸が痛んだが、人生はこんなもんだろうと元々の達観癖が戻って来た。 キッチンと店を隔てるのれんの下から、佐倉の足が覗いている。 きちんとガスコンロの方を向いてじっと動かずに。 稲穂はキッチンに近づこうとしたがその足を見て動けなくなり、その場に立ち止まり、佐倉が甘く煮ている生姜の香りを胸いっぱい吸い込んだ。 「稲穂」 物音がしたはずはないのに、のれんを手で避けて佐倉がこちらを見ていた。 「もうすぐできるよ。おいで」 それはまるで何もなかったかのような穏やかな表情で、めくったのれんの向こうに銀色の片手鍋がくつくつ音を立てているのが目と耳で感じ取れた。 暗示をかけられたみたいに近づくと、傍に用意されていた稲穂のマグカップに出来立てのショウガシロップが入れられ、隣で沸かしていた湯が注がれる。おそらくは生姜湯を作って部屋に逃げた稲穂の元へ向かうつもりだったのだろうことが、それで分かった。 マグの中のそれは湯気で顔が湿るくらい熱々だ。 稲穂は何度もふーふーと息を吹きかけた。飲み頃を待つその時間も、その稲穂を見守る佐倉の時間も、この店と庭にある手仕事の時間と同じ。急がず急かさず、ゆったりと必要なだけそこにある。 大好きだった。ここが。この空間と時間が。佐倉が。 まるで熱さのせいで潤んだのだと言い訳するように稲穂は生姜湯をすすって、「ちょっと甘すぎ」と意地悪く笑った。 「これからも、味見は稲穂に一番にして欲しいな」 陽人は全部分かってるみたいだ、と稲穂は思ったけれど、それを言うとやっぱり子供な自分を認めるようで悔しかったから、「いいけど」とだけ呟いてそっぽを向き、晩ご飯の支度に取り掛かったのだった。 稲穂の引っ越しは、結局稲穂が高校を卒業するまで先送りになった。 卒業後、勤めていた会社にそのまま正社員として雇われてからその会社の寮に移ることになったとき、先に泣いたのは佐倉の方だ。 「休みには帰って来るし」 稲穂が呆れたみたいに笑えるようになったのは、このハーブの庭と家を自分の帰る場所だと心の底から思えるようになった証。 それを生んだのは、あの甘い甘いジンジャーシロップが作り出した、遠い涙の思い出だった。 04b63aeb-6aa6-4851-9b94-2882e3ea0242 血流促進、抗酸化作用、抗炎症作用、デトックス効果……ジンジャーシロップには様々な効用がある。 佐倉は砂糖を揉み込んだ生姜に水を入れ、シナモンパウダーを少々とレモン果汁、種をとった唐辛子を加えて強火で煮始め、沸騰したら弱火で30分、蓋をして煮込んだ。稲穂にはこの状態を掬って味見をさせたが、実際は生姜をブレンダーでペースト状にして、全て混ぜ込んだシロップにする。 グリンフィンガーズデイに来た客には時々振舞われるそれは、販売希望の多い一品であった。 END
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