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1# カモミールブレンド
部活動をしていない稲穂は、中学から帰ってくるとほとんど毎日と言っていいほどハーブの庭に顔を出す。
ガゼボに人のいないときは中のベンチに胡座をかいてゲームをし、先客があれば店の中に入って勝手知ったる様子で2階へ続く階段の中腹に腰を下ろしてやはりゲームをする。
そういう事を含め佐倉は咎めることなく稲穂の好きにさせていたが、皆が皆そうだったかというとそういう訳ではない。
ちょうど客の切れ目にやってきた稲穂が、「陽人、お茶ちょーだい」と言って作業台の傍の丸椅子に腰掛けると、大きなロフトのようになっている二階部分から「陽人さん、だろ」という佐倉ではない男の声がした。
稲穂は驚きもせず、真上を見上げた。そこにいたのは顔見知り。手摺に身を預け、乗り出すように下を覗いている洋風の顔立ちの男。
まつ毛の長いくっきりした二重の目もふっくらした唇も女性的だったが、濃い眉と通った鼻筋はりりしく、佐倉の友人、榎田菖蒲はそういうわけですれ違えば二度見三度見のイケメンであることに間違いはない。
あやめ、とは明らかな女名であるが榎田がその名前をからかわれたのは小学校低学年までで、その後は名前負けしない美貌と決して引かない押しの強い性格も手伝って誰にも何も言わせなかった。
「陽人が陽人でいいって言ってんだもん。あんたには関係ないじゃん」
「ハルが良くても俺が許さねぇ。年上を呼び捨てにすんな」
「はいはいはいはい。まったく、うるさいな」
その後の「ハイは一回でいい」と榎田が言うのに稲穂が声を合わせると、店の奥のキッチンとを隔てるのれんをペラリとめくって佐倉が顔を覗かせ、「ケンカしないの」と静かに二人の間に割って入った。
「お茶、何がいい?今、あやめちゃんにカモミールブレンド入れようと思ってるんだけど、それでいい?」
「えーーあいつと一緒~?」
稲穂がわざと不満そうに言うと「贅沢言うな、クソガキ」と榎田が階段を降りて来ながら言い、稲穂が榎田に背を向けたままベーと舌を出して、佐倉は呆れた顔をして「別のがいいなら言ってね」とのれんの向こうへ引っ込んだ。
稲穂は立ち上がってキッチンに小走りで行った。
「じゃあ、あいつのはただのカモミールブレンド。俺のは陽人スペシャルにして」
稲穂がボウルの中の白い生地をかき混ぜている佐倉に言うと、追いついてキッチンに入って来た榎田が「陽人スペシャルってなんだよ」と低い声で不機嫌そうに言った。
「あ、知らないの?知らないんだ。へぇ~」
わざと煽るように言っていると分かっていながら、榎田はムッとして「どうせお子様好みの甘ったるいヤツだろ」と稲穂の後ろから佐倉の手元を覗き込んだ。
「お。パンケーキ?」
「うん。こっちもカモミール入り」
「この間作ったやつ、うまかったろ。ソーセージのっけてシロップかけたやつ」
「ああ、うん。あれは傑作だった!」
こうやって榎田と佐倉が楽しそうに笑うと、稲穂は僅かながら悔しくなるのだ。
自分だけ頭一つくらい背も低いし、仲間に入れない感じがして。しかしそれを口に出すのは癪で、稲穂は作業スペースに置いてあるガラスのポットを手に取ると「何と何?」といかにも慣れた様子で佐倉に聞いた。
「あ、入れてきてくれるの?じゃあジャーマンカモミールとアップルフルーツカットを一対一で」
「ん」
稲穂は少し力を入れるとパキャンと割れてしまいそうな丸いガラスのポットをそっと持ち上げ、後ろの食器棚の引き出しから銀の匙を一本取って、のれんの向こうのハーブ棚に歩いた。
蓋を作業台に置いて振り向くと、後ろをついてきていた榎田が棚の『German chamomile』というタグの上にあるガラス瓶の蓋を開けた。右手にポット、左手に匙を持っていたから助かったのだが、そこは素直ではない稲穂のこと。ジロリと榎田を見上げて匙を瓶に差し入れた。
中の茶色く乾いたカモミールを小さじに3杯。斜め上の瓶も同じく榎田が開けて、コロコロとしたアップルフルーツカットも同様に3杯すくってポットに入れる。
なんだかんだ口うるさい榎田だが基本的にはとてもよく気のつく男で、おまけに都内の有名なリストランテで修業してきたシェフという肩書が伊達ではないことを示すように、ぱぱっと有りもので作るパスタは絶品。
実家のイタリアンダイニングレストランを継ぐために戻ってきたのは二週間ほど前なのだが佐倉とは高校からの付き合いらしく、会うなり割り込めない雰囲気を作り出した二人に、稲穂はなんとも言えない疎外感を抱いているのだった。
「お湯沸いた~~あやめちゃん、入れて~」
「うん。ふふ……入れて、って」
「……あやめちゃん」
それはほんの5秒にも満たないやり取り。何か含みがあるとは思いながら言葉の意味するところは分からない。稲穂はまだほんの子供だった。
それでも先ほどのセリフがふたりの暗号のように働いていることは分かるのだ。大好きな佐倉がこのしなやかな黒豹のような男に奪われる、そのことを直覚するのだ。
「陽人。陽人スペシャルは?」
稲穂は静かな顔で目線を落とし、皿の上に積みあがったパンケーキを見た。自分だって佐倉との間に暗号ぐらいある、という負け惜しみのような気持ちだった。
「うんうん。稲穂は陽人スペシャルね」
佐倉が眼鏡の奥の目を優しげに細めて稲穂の頭をヨシヨシと撫でると、嬉しいくせに途端にうっとうしげに頭を避ける稲穂だった。
多感な頃は、兎角難しいものである。
この本心と態度のアンバランスを佐倉も榎田も「己も通って来た道」と懐かみ、苦笑して見逃すのだった。
陽人スペシャルはカモミールブレンドに温めた牛乳を注ぎ、ほんの少量シナモンパウダーを散らす。
カモミールもシナモンもミルクもリラックス効果が高く、逆立った神経をゆったりと落ち着かせてくれる。
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