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2# ペパーミントブレンド
春は、これから訪れようとしている陽気の明るい兆しと名残惜しむ消えかけた寒気が混在してどことなく落ち着かない。外に向かってぐんと広がりそうでいて、いざ飛び出すとまだエネルギーは十分ではない。そんな焦燥と苛立ち。
しかし光の色は新しい世界へと誘う。構わず飛び出せ!とけしかける。そんな期待と上擦り。それらもろもろを含んで、春が来るとハーバルショップ グリンフィンガーズに訪れる客も少しずつ増えてくる。
暖かくなってきたし、行ってみようか
友達からいいよって薦められたハーブのお店へ
年度が変わるし
学年が変わるし
春だし
新しい自分に会うために、新しいことをしてみようか
そんな風に、そわそわして。
稲穂が朝から店に来ていたのは、何も学校をさぼっているからではない。
「春休みだっての。なんで朝っぱらからアンタがいるの。ヒマなの?」
ノックで開いたドアから覗く佐倉の顔を想像していた稲穂は、少し不機嫌そうに見下ろしてきた榎田に「なんだよ。学校は。さぼりか?」と言われてツンツンと言い返した。
「俺はここに泊まったんだよ。ハルと仲良しだから」
「何が『仲良し』だよ。いい年して気持ちワル」
「あぁ?お前、その口のきき方──」
「はいはいはいはい、ケンカしない!もう……あやめちゃん大人でしょ?」
榎田の手を強く引いた佐倉は、振り向いた榎田の少しきつい眼差しに昨夜の情熱を見つけてそっと目を伏せ、稲穂に「おはよう」と微笑みかけることで夜の余韻をうやむやにした。
「朝ごはんは食べてきた?」
「食ってない。けど腹減ってないし。いらない」
本当はここで食べさせてもらおうと考えていたのだ。あまりよく食べる方ではないが、そこは成長期の男子。腹が鳴る音で目が覚めるような年頃である。
だが佐倉とふたりの時に得られる穏やかな空気感を壊した榎田に腹が立ち、しかし榎田を泊めたのは佐倉で自分には文句をいう筋合いはないのだと分かっているからこそ、モヤモヤの持って行きどころを失ってプイと横を向いたのだった。
「ほっそい体して……食わねぇといつまでもオトコになれねぇぞ」
榎田が大きな手で目にかかる黒髪をざっと上げ、身を翻す。ただのカットソーにスエットという格好なのにそこには思わず目を吸い寄せられるような大人の男の色気があって、それがますます気に食わない稲穂は「あいにく、生まれてこの方ずっとオトコだよ」とボソボソ呟いて、キッチンに入って行く榎田を見送った。
「稲穂ーー!リゾットなら食えるかーー!?」
のれんの向こうから声がする。なんだかんだ言っても結局は優しい榎田に、佐倉はくすりと笑って稲穂にどう?という目線を向けた。
「食えないっつっても作りそうだよね」
「美味しいよ?俺たちもまだなの。一緒に食べよ?」
佐倉がわずかに首を傾げて微笑むのを、稲穂は思わずじっと見た。何しろ好きなのだ。この笑うと黒目ばかりになる優しい笑顔が。
「おい、聞こえた!?」
苛立ったようにのれんを手でざっと分けて顔を出した榎田に、佐倉は「食べるって!」と代わりに返事をして稲穂に椅子をすすめ、自分も手近な椅子に腰かけた。
「いよいよ中学3年生だね。受験生だ」
「高校ね。もういいけどね。勉強なんかかったるいし。それより就職して早くあの家出たい。ねーここで働かせてよ」
図々しさを装って冗談ぽく訊ねていながら、それが案外本気であることに佐倉は気づいている。そして佐倉がいいよと言わないことを前提にそれを言っていることも。
「うちの店がおおはやりで儲かってたらなぁ~稲穂を雇えたかもしれないけどね」
「雇えないの?だめじゃん」
「ダメだよねぇ。でもさ、もしかしたらあと3,4年したら雇えるようになるかもよ?だから稲穂は高校に行って……その後まだここで働きたいなぁって思ってたらその時にまた話をしようよ」
話を先延ばしにしてうやむやにする、そんな大人の手口だと取られてもおかしくない。だが、佐倉がそういう人間ではないことは重々知っている稲穂だった。
「高校は行っておいた方がいいよ。視野が広がるし、自分から将来の選択肢を狭めることはないと思う」
「へーへー。分かってますよ」
口振りは生意気だが、佐倉の真意はちゃんと汲み取っているのだ。稲穂は窓の向こうの、もうどこに何が植わっているかが殆ど分かっているハーブの庭に目をやって、きゅっと口を尖らした。
そのツンとシャープな横顔。でも眼差しは案外素直で、佐倉はハーブの庭で出会ったこの少年が本当に好きで、可愛くてならないのだった。
やがてキッチンからいい匂いが漂い始めて、「稲穂ー!運んでー!」と呼ぶシェフの声がすると、食欲をそそる旨いと分かる匂いに、稲穂の気分も自然と上向きになった。
「食後にはペパーミントティーをいれようか。あ、それかホットココアミント。どっちがいい?」
「んーココアの方」
「ん。じゃあそうしよう」
一緒に立ち上がって、稲穂はキッチンへ、佐倉は作業台の上を台拭きで拭き始める。
畳一畳分よりも一回り大きい木製のその台の中央には、かわいいグラスの水に挿されているアイビー。ここに榎田のお手製リゾットが並べば、そこはさながらおしゃれなカフェのようになるのだった。
ペパーミントは消化を助け、気分をリフレッシュする代表的なハーブ。
ミルクココアと合わせることでその効果をより強化し、不安定な年頃の子を優しく支えてくれる。
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