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最初に彼女を見たとき、彼女が飛び降りでもしようとしてるんじゃないかと思った。マンションのベランダで、ずっと外を見たりなんかしているから。
彼女のマンションは僕が通ってる塾のビルの向かいにあって、窓際の席からはその姿がよく見えた。僕と同い年か、少し下くらいかもしれない。
塾の授業が始まったときにはとっくに、彼女はベランダの手すりに頬杖をついていた。日が暮れて、町が赤く染まるころになっても、変わらずそこにいて、空をぼんやり眺めている。
いったい何がおもしろいんだろう。
塾の先生が話す英語の構文のことは、もう頭に入らなくなっていた。
「SVOC、第五文型」と書いたノートのページをめくって、真っ白な紙面にいちばん太いペンで書き殴る。ノートを窓にぺたりと押しつけた。どうせ見つかりやしないだろうと思いながら。
『なにしてる』
しばらく窓にノートを張りつけて、ちらりと見ると、もうその子の姿はベランダから消えていた。
単にノートに気付かずに中に引っ込んだのか、僕のメッセージをとがめ立てだと受け取ってしまったのか。どうせちょっと気になっただけだし、と内心意地を張っていると、その子が大きなクロッキー帳を小脇に抱えてベランダに出てきた。
クロッキー帳を大きく広げる。別に色なんて変えないでもいいのに、色とりどりの文字で、
『光を待ってる』
と書いてあった。
『光って?』
『おしえない』
『ケチ』
『信頼できない』
僕は少し考えて、ノートに「七時半、下のバーガーショップで」と書いて窓に押しつけた。そろそろ先生に注意されそうだ。
向かいのベランダを見ると、彼女が大きく手で丸を作っていた。
塾の授業が終わるころには、とうに陽が落ちていた。あくびをかみ殺しつつエレベーターで一階に降りる。塾と同じビルにあるバーガーショップは、話をするのにはちょうどいいだろう。
奥まった席で、彼女は二枚重ねのパテを挟んだバーガーにかぶりついていた。僕に気付くと、口を動かすのをやめないまま隣の席を指差す。
さて、どうやって切り出そうか。手持ちぶさたにコーラを飲んでいると、
「物好きだねえ」
間延びした声に先を越された。そのバカにしたような言い方に思わずむっとする。
「あんなベランダにいつまでもいるから、気になるのは当たり前だろ」
「それでも暇人じゃない? 塾の授業中だったんでしょ。……受験生?」
「いや、来年。暇人なのはそっちじゃないか」
「私は理由があるから」
と得意げに言う。天体観測じゃあるまいし、夕暮れのベランダにいつまでもいる理由がどこにあるのだろう。
「よく分からないけど。収穫はあったのか」
ポテトを飲み込んで、いかにもおかしそうに笑う。
「まだ早いよ。今日は当日が楽しみだなって思いながら待ってただけ」
ますます分からない。近くで見ると、幼い顔つきがやはり年下だと思うけれど、そんな相手にどこかからかわれているのも悔しかった。
この子が何を狙っているのか、「光を待ってる」というのがどういうことなのか、突き止めたくなってきた。
「俺は高野港」
「なに? なんで名乗るの」
「『信頼できない』って書いてたじゃないか。信頼を得るにはまず名乗らなきゃいけないだろ」
「律儀だなあ」
あきれたように言うが、嫌そうではなかった。中身が氷だけになったらしいドリンクのカップを振って、
「私は戸村初陽。高野さん、塾は何曜日にあるの」
「いきなりなんだよ。……月・金」
それを聞くと初陽はにやりと笑った。
「運がいいね」
「どういうこと?」
「光は日曜日にやってくるんだよ。それまでに私に信頼されたら、教えてあげる」
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