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その血肉の還るところ
おめぇ、夕刻の鐘を鳴らし忘れてんじゃねえか! はよ上に行ってこいや!
まだ日ぃ沈むまで時間あるって? 馬鹿野郎、今日は満月だから日没ちょうどじゃなくて繰り上げの日だっての! いいからさっさと鳴らしてこい!
――おう、戻ってきたか。今日の仕事はこれで終わりだから帰る支度しな。
ったく、満月の夜の怖さはガキの頃から聞いてるだろ? 月が出ると死神が出るから、家から出ないようにってよ。月が出る前までに帰れるように鐘を鳴らすのがどれだけ大事なことなのか分かってんのか?
……ハァ、おめぇ十五か。じゃあ前のときのは記憶に無ぇわな。
いいか、死神ってのは本当に居んだよ。満月の夜に、外に出ているやつの命を刈り取る死神がな。
◇
日没直後の茜の空を一心不乱に飛んでゆく。速く。溶けるほどに速く。
この街で一番高い建物の屋上の、その人の背中に飛び込んだ。
「来たよ」
わたしの弾んだ声を聞いて、その人は肩越しに振り返った。
「来なければ良いと、祈っていましたよ」
風にそよいだ鈍色の髪の向こうで、優しげな琥珀色の瞳が憂いを帯びていた。
申し訳なく思いながらも、わたしのことを考えてくれていたことに頬が緩んで、背中に額を押し付ける。
「今でさえ、可能な限り貴女に生きていてほしいと思っています。貴女が貴女でなくなるその時まで」
「それでもあなたは、わたしの願いを叶えてくれる」
離れがたく思いながらも、背中から少し距離を置いて顔を上げた。
目と目が合う瞬間の、この焦がれるような胸の熱さがわたしの選択を正しいと思わせてくれる。
「【夜の王】よ、どうか眷属のわたしを満月の向こうの昼の世界へ連れていって。あなたの好きなわたしのまま、わたしの好きなわたしのままで」
琥珀色の双眸がくしゃくしゃに歪んだと認識するのが早かったか、抱き締められるのが早かったか。
切ない、乞うような声が耳朶に触れる。
「近い未来にその身体が限界を迎え、自我なく彷徨うだけの屍になったとしても、私は貴女を愛しますよ」
「知ってる。でも、あなたも知ってるでしょ? わたしはわたしが大好きで、わたしの大好きなわたしでありたいの」
「ええ、知っています」
囁いた声音はわずかに震えていた。
「私の一番愛する貴女が、貴女を好きな貴女でなければ。それならば生かせたでしょうに」
言葉を重ねられれば重ねられるほど、胸の内は熱さを増してゆく。ほぅ、と吐いたわたしの息まで熱い。
「わたしがわたしであることを愛してくれて、とっても嬉しいよ」
ゆっくりと離れ、再び顔が近づいた。柔らかさと熱を唇に感じる。交換し合う熱の甘さが深まってゆき、涙が滲む。
唇が離れた瞬間、ぼやけた視界の中で琥珀色が黄金に輝いたのを見た。満月が昇ったようだ。
【夜の王】は、その大きな口で勢いよくわたしに噛みついた。
私は微笑んでいた、と思う。
◇
夜に住まうわたしたちは皆、いつかは等しく屍となり、王の血肉へと還るのだという。
王はその身に宿す力で、朽ちても死ねないわたしたちに安らかな終焉を与えながら、街から街へと渡っているのだ、とも。
遠い遠い昔、幼い日の記憶である。
◇
満月が、沈んだらしい。
耳や尾といった一部分を残して、ほとんどヒトに戻っている。
口内に残る屍の血は、狼の身ならともかく、ヒトの味覚では美味しくもない。
唾液とともに吐こうとし――彼女のことが脳裏に浮かんで飲み込んだ。
東の空に光が見える。
「ファムファ、これが望んだ夜明けですよ」
身体を巡って胸を熱くなるこの血潮は、私か、それとも彼女か。
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