太陽を飲む

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 酒が好きな母は夕方よくグラス一杯、沈みゆく太陽と一緒に飲んでいた。  黄金色の夕焼けにはもちろん黄金色のビール。  ほのかに赤い空のときはロゼワイン。  雨がしとしと降る日には澄んだ清酒。  曇天の日には少し重たい黒ビール  お日様をグラスに移して今日一日に感謝する。お酒を美味しく味わえるくらい無事に終えられたことに。  酒飲みの言い訳だよねと夕方五時から酔っ払う母を見て、兄とよく呆れていた。 「なにようその言い方。今日も汗水たらして稼いできた一家の大黒柱に文句あるの」  母はそう言いながらも酔うとすぐ楽しくなるタイプなので、グラスを揺らして笑っている。  うちは母子家庭で、病院の調理師である母は朝食を作るため朝四時には家を出ていく。一日働いて帰宅は午後三時頃。夕焼けが綺麗なこの時間は調度晩酌タイムなのだ。 「はいはい、今日のお酒は美味しい?」 「最高。労働の後の一杯は違うわ」  くぅーっと美酒に頬を緩めた母。その様子がなんだかオッサン臭くて、私はわざと邪険にする。 「酔っ払いはうるさいから早く寝てよね。茶碗は洗っとくからさ」 「持つべきものは娘よね。なんて出来た子なの、アンタ最高!」  目を細めた母は酔っ払い特有のスキンシップが多い。頭をワシワシ撫でてくる。  こういうの思春期に差し掛かった娘には逆効果だから。本当は嬉しいなんて絶対に言わないから。 「やめてよ! それに私だけじゃなくてお兄ちゃんも。部活から帰ってきたらいろいろやってくれるんだから。お風呂も最後洗ってくれるし」 「うん、息子も最高! 私はいい子に恵まれたよホント」  グシャグシャにされた髪を手櫛で整えながら抗議するけどもう聞いていない。  母曰く『命の液体』を窓に向かって掲げ、口角をキュキュっと上昇させる。 「お日様今日も一日ありがとう、明日も美味しいお酒が飲めますように」  どんなに時が流れても、東から登ったお日様が時間が経てば西に沈むのは変わらない。  今日もいい夕焼けが期待できそうだ。まだ時間が早いから黄金色ではないけれど。  こんな時ママはきっと、うきうきして今日飲むお酒の準備をするだろう。  そう思っていたら少しの間姿を消していた兄がコンビニ袋をぶら下げて帰ってきた。袋の中身はスパークリングワイン。今、調度似合う淡黄色だ。  居間のカーテンを開けママが横たわっている部屋にもこの光を届けよう。  三つのグラスに注がれたスパークリングワイン。カチンと鳴らしてお日様を溶かした液体を身体に取り入れる。ママにもハンカチに染み込ませて色のない唇にあてる。冷えたスパークリングワインと同じくらい冷たい身体。改めて感じる喪失感と、温度差がないけど美味しいかしらという無用の心配。  兄と私、それぞれの連れ合いがこの非常時になにをという顔をしてみているけど構いやしない。 「どんなに忙しくてもグラス一杯分くらい、今日一日に感謝する時間はとりたいの」  そうだねママ。酒飲みの言い訳だと思っていたけど今なら分かるよ。  でも今日は一日じゃなくて、あなたの一生に感謝するから。  歯を見せてはいけない席で私と兄は、泣きながら笑うという高等技術を披露したのだ。
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