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少女がその店の看板を見上げてから、一分近くが経過していた。
それはさして長くはない時間ではあるものの、その間、この店の看板を眺め続けていたと考えると、普通であれば通りかかる人に胡乱な目で見られていたかもしれない。
しかし、そうしてくる人間はひとりもおらず、そもそも通りを歩く人がひとりもいなかった。
「『昼と夜の間』、ねぇ。まあ確かにそれぐらいの時間? なんかね? 知らんけど」
腕時計に視線を落としてみれば時刻は17時。確かに『昼と夜の間』というにはちょうどいい時間かもしれない。
そして、看板を再度見ることなく、お店の扉を開けた。
カランカランと扉に付けられた鐘の音が店内に響き渡るも、それを聞いたのは店員ひとりだけだった。
「いらっしゃいませ。レストラン『昼と夜の間』でございます」
白いワイシャツにネクタイ、ベストといった格好をしたボーイが、お客が来るのをわかっていたかのように扉のすぐそばで丁寧に頭を下げていた。
そもそも、少女がぱっと見たところお客は誰もいないようだし、このボーイは暇を持て余していたのかもしれない。
「変わった名前っすね。ここ」
ボーイが「こちらへ」と手招きながら歩きはじめたので、少女はそれに付き従う。
どうせ他に客もいないのだし、少しぐらい話しかけてもいいだろう。
「ええ。他のお客様にもよく言われます」
「客、いるんだ……」
失礼なことを口に出してしまってから、しまったと思ったものの、ボーイからは特に気にした様子は見られなかった。
「そうですねぇ。お客様によって来たい時というのはまちまちでございますから。お客様がひとりということはつまり、お客様はひとりで楽しみたいということなのでしょう」
ボーイが少し意味深な顔をこちらに向ける。
どういう意味だろうと考えようとしたところで、ボーイはそのままテーブル席の椅子の背を持って引いた。どうやら顔をこちらに向けたのは特別な意図があったわけではなく、案内する席に着いたかららしい。
ボーイの引く椅子に少女が腰を下ろすと、ボーイは慣れた手つきで椅子をちょうど良い位置に調整する。
その手つきが高級店を思わせるもので、自分の手持ちで足りるのだろうかと少し不安になる。
「入ってきといてなんなんすけど、あたしそんな手持ちないんだけど、大丈夫っすかね?」
「そうですね……。千円ほどあれば十分かと。万一足りなくてもツケでいいですよ」
千円ぐらいなら財布に入っていたはずだ。
「それなら大丈夫かな」
「こちら、メニュー表でございます」
ボーイがいつの間にか手にしていたメニュー表を渡してくる。革製――合皮か本革かの違いはわからないが――で立派な装丁のメニュー表である。
三つ折りされたメニュー表を開くとハンバーグやエビフライなどといった洋食屋らしいメニューが並んでいた。
写真はなかったが、文字だけのシンプルな構成が大人なお洒落さを醸し出していて、少し目をきらめかせてしまう。
「へぇ、こういうの格好良いな」
「ありがとうございます。お決まりになりましたらお声をおかけください」
そう言い残してボーイがテーブルを離れる。
メニューの端から順に見ていくものの写真がないとなかなかこれと決められない。大人の格好良さも難しいものだ。
「ん? 今日のおすすめ?」
メニュー表の最後には『今日のおすすめ』というメニューがあり、『内容は店員にお聞きください』と書かれていた。
「店員さーん」
「お決まりになられましたか?」
「ああ、いや。この『今日のおすすめ』って今日はなにが出てくんの?」
「本日は『あさりとほうれん草のクリームパスタ』でございます」
「じゃあそれで」
特に嫌いなものというわけでもなかったので『今日のおすすめ』にする。
「かしこまりました」
それから料理が来るまでスマホでもいじるかとポケットの中に手を突っ込むも、いつもあるその場所にスマホを見つけることができなかった。
「あれ?」
では反対側のポケットかとそっちを探してもやっぱりない。
というか手ぶらである。
スマホがないのはいいとして……いや、よくないが。それよりも財布が見当たらないのはまずい。
しかもさっき千円なら大丈夫と言った手前、お金がないとか果てしなく格好悪い。
「あー、もう千円ぐらい服に忍ばせとけよわたしー!」
そう言いながら無意味にぴょんとはねてみる。するとブレザーの胸ポケットの辺りからちゃりんという音がした。
淡い期待に縋りながらポケットの中に手を突っ込んでみると硬貨が数枚出てくる。
「って足りるかボケ!」
ブレザーのポケットに入っていたのは五十円玉1枚に十円玉が3枚。恐らく自販機で飲み物を買ったときのおつりかなにかだろうが、全然千円にはほど遠い。
「あー、店員さーん。って、あー、もう作りはじめてるよねー。そりゃそうだよねー」
このお店にはカウンター席もあり、そこからさきほどのボーイに声を掛ける。
ボーイはベストの上からエプロンを羽織り、既に料理をはじめていた。
「はい? どうされましたか?」
「そのー、いや、ホント申し訳ないんすけど、財布がないことに気付いて……」
気まずさに、少女の声はどんどん小さく、目線は下へと下がってしまう。
注文を出したあとにお金がなかった場合も食い逃げになってしまうのだろうか、と不安な気持ちになる。
「そうでしたか。安心してください。先ほども言いましたが、ツケでも大丈夫ですよ」
「あー、すんません……。ありがとうございます。とりあえず80円だけあったんで、これだけでも先に払います……」
そう言って、ことりと硬貨4枚をカウンターに置く。ついでにそのままカウンター席に座ってしまう。
「そういえばさ、さっきは聞き損ねちゃったんすけど、この店の『昼と夜の間』ってどういう意味なんすか?」
気を取り直して少女はボーイへと話しかける。あのまま席にいても自己嫌悪にうじうじとしてしまうだろう。それだったらこのボーイと話していた方が気が紛れるというものである。
「当レストランは昼と夜の間だけ開店しているのですよ」
「昼と夜の間ってつまり夕方しか開いてないってこと?」
随分と短い時間しかやらないのだな、と思いながらそう聞くと、予想に反してボーイは首を横に振った。
「いいえ、夕方ではなくあくまで『昼と夜の間』でございます」
「んー? それって具体的に何時から何時までなんすか?」
昼と夜の間と言っても開店時間は決まっているのが普通だろう。お店としてはあまり短い営業時間ではやっていけないだろうし、15時ぐらいからやっているのだろうか。
「昼と夜の間というのは人によって異なります。ある人は夕暮れ時をそう呼ぶでしょう。またある人はおやつの時間以降をそう呼ぶでしょう。
ですが、敢えて言うならば、子供は辺りが暗くなる前に家に帰らなければなりませんし、逆に夜は大人の時間という言葉もございます。つまりはそういうことでございます」
「いや、そういうことってどういうことよ」
意味がわからずつい口調が乱暴なものになってしまったが、ボーイはにこりと笑うだけでそれ以上は教えてくれない。
それからもボーイの言ったことを考えてみるも結局お店の名前の意味はわからなかった。
「お待たせ致しました。本日のおすすめ『あさりとほうれん草のクリームパスタ』でございます」
「わお、おしゃんてぃ。写真……はそっか、スマホないんだった……。どこで落としたんだろ」
いつもであればスマホで写真を撮って、SNSで友達に共有するところだ。
仕方ないので久しぶりに外食時に写真を撮らず、いただきますの挨拶をしてからご飯を食べはじめる。
「うわ、美味しい……」
「そう言っていただけますと、わたくしも嬉しいです。水、ここに置いておきますね」
どうやらテーブルを移動したときに水を持ってくるのを忘れていたらしい。ボーイがことりと少し汗をかいたコップを少女の席に置いた。
「うん、ありがと。なんだか店にひとりって気楽でいいね。お店的にはあんまよくないのかもしれないけどさ。あたしはこういうフンイキ好きかも」
少女はきちんと口の中の食べ物を飲み込んでからボーイにお礼を言った。見た目はイマドキの高校生みたい格好をしているが、これで躾はかなりきっちりとされているのである。
友達としゃべったりするときは相手に合わせてわざと〝だらしなさげ〟にすることもあるが、彼女としてはこちらが素なのである。
そのように周りに合わせて自分の仕草を変えられる彼女だったが、今はボーイしかおらず気にする必要がないのであった。
「いつもはひとりではないのですか?」
「うん、まあ友達は多い方なんじゃないかな。やっぱり女子高生にとって友達の多さって強いよ。もはや政治って感じ。たまに面倒くさくなるけどね」
とは言っても、もちろんメリットも多いし、多くの友達と遊ぶのは当然、楽しいのだ。
楽しいのだが……たまにひとりの時間が欲しくなったりもするのである。
「ボーイさんは? 友達いんの?」
「わたくしからすれば、お客さんこそが友達といえ――
」
「ああ、いないのね。いいよ、いいよ。無理しなくて」
途端に微妙な空気になってしまい、若干の気まずさを覚える少女だったが、ふと、それなら自分とこのボーイももう友達と言えるのだと気付く。
「じゃあさ、ボーイさん今度遊ぼうよ。客とは友達なんでしょ? あたし客よ?」
「それは残念ながらお断りさせていただきます」
「即答!?」
まさか断られるとは思わなかったので少女は目を見開いてボーイのことを凝視していた。
別に絶世の美女とか、街を歩けば10人中10人が振り向くとか、そういう大それたことは言わないものの、あるていど顔面偏差値が高いことは自負していたのだが……。
ちょっとショックである。
「というのも、わたくしはこの店にくるお客様を待たなければなりませんので。ですからどこかに遊びに出かけたりはできないのです」
いや、休みの日ぐらいあるだろ、労働基準監督署に訴えるぞと思ったものの、本人が駄目と言っているのだから無理強いするものでもない。
「そっかー。ちょっと残念」
だから、実際は結構残念でも、そんな風に軽く済ませるのが正解なのだ。
そんな風に話しているうちに少女は皿を空にしており、最後に丁寧に両手を合わせ、「ごちそうさまでした」と口にしていた。
「それじゃあ、また近いうちにくるよ。今日の分のお金を払わなきゃだし。〝友達〟ともっとおしゃべりしたいしね」
「はい、レストラン『昼と夜の間』はお客様をお待ちしております。もちろん、友達として」
ボーイはわざわざ扉の近くまで来て、少女を茶目っ気のある笑顔で見送ったのだった。
それから少女は何度かレストラン『昼と夜の間』を訪ねることになった。
不思議なもので、探しているうちはその場所がわからないのに、数ヶ月経ってふとした拍子に店の前にボーッと立っている。
いつ行けるかわからないものだから、最初はまた行きたいと思っていたものの、次第にあまりお店やボーイのことを考えなくなり、数年が経つ頃には彼女がレストラン『昼と夜の間』に行くことはなくなっていた。
それでも、その店のことを忘れたというわけではなく、彼女はいつも服のポケットの中に千円札を忍ばせていたのだった。
時が経ち――
「おばあちゃん! 聞こえる!? 優香だよ!」
少女は齢を重ね、娘や孫もでき、そして今、その人生に幕を下ろそうとしていた。
「うん、聞こ……えるよ。来てくれ……ありが……ね」
その言葉は途切れ途切れで、彼女の意識は朦朧としていた。
やり残したことは、ないと思う。
娘にも孫にも、伝えるべきことは全部伝えたし、やりたいこともやってきた。
それになんだか眠いのだ。ふわふわとして、気持ちが浮かんでいるようで。
このまますべてを放り出して寝てしまいたい誘惑に駆られていて、別に放り出してしまってももう問題がないのだ。
ああ、でも……。
最後に一度くらい、あのレストランのご飯が食べたかったかもしれない。
まあ、もうあそこに行けないことはわかっているけれど。
だって、あそこは――。
そうして、彼女の生は終わりを迎えたのだった。
「あれ……ここは?」
見覚えのある道。見覚えのある看板。
その看板には『昼と夜の間』と書かれていた。
彼女はレストラン『昼と夜の間』の前でボーッとその看板を見ていたのだった。
とは言っても、あの頃とは違って、彼女は学生などとっくに卒業していたし、〝思春期〟だって卒業していた。
「お久しぶりですね。入ってこないのですか?」
店の扉が開いたかと思うと、中からあのときとまったく変わらない姿のボーイがあの頃と変わらない仕草で店から出てくる。
「わたしはもう入れないわ。だって『昼と夜の間』――思春期なんてとっくに過ぎてしまっているもの」
子供は辺りが暗くなる前に家に帰らなければならないし、逆に夜は大人の時間という言葉がある。
つまり、昼は子供の時間。
そして、夜は大人の時間。
では、昼と夜の間は?
それは子供と大人の間の……思春期の少年少女の時間なのだ。
この不思議な店は、思春期の少年少女が迷い込み、その悩みを少しでも減らしてくれるお店だったのである。
だからこそ、少女が成長することで、お店に行く機会は減っていき、大人になってからは行くことがなくなったのである。
ニヤリとボーイが笑みを見せた。
「ええ、わかっております。ですので、お客様はこちらへお越しください」
そう言うとボーイは彼女の隣を通り過ぎた。
ボーイの姿を目で追いながら振り向くと、そこには別のお店があり、その店には『昼と夜の間』と同じような看板が掲げられている。
その看板に書かれている文字を見て、彼女は目を見開いた。
その表情が、初めてお店に来たときに、遊びの誘いをボーイが断ったときの表情とまったく同じで、ボーイは思わず笑みを浮かべてしまう。
そして、ボーイは丁寧にお辞儀をすると、いつも通りの口調で言ったのだった。
「いらっしゃいませ。レストラン『最後の夜と始まりの朝の間』でございます」
〈了〉
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