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(夜の部も行きたかったな……)
新幹線の丸みをおびた四角い窓から見える景色を見ながら、私はそんなことを思った。
私がいる車両は珍しく空いていて、私を含めて5人ほどしか席は埋まっていなかった。
次の駅に着くまではまだ時間がある。
ちょっとでもいい音で曲を聞くために買ったブルートゥースのイヤホンは生憎充電切れ、スマホの充電も残しておきたくて、とくにやることもなくてこのまま窓の外でも眺めていようかと思ったタイミングで新幹線はどこかのトンネルに入ってしまった。
突然真っ暗になった窓に、私の顔が写り込んだ。
(ひどい顔……)
昼間の新幹線のトイレで鏡を見て「悪くない」なんて思っていた自分が恥ずかしい。
顔を伏せた私の目に入ってきた青色のスカートと座席の青色。
朝早い新幹線では「推しの青海君の色だ」とウキウキしていた青色の座席も、今の私には憂鬱なものにしか見えなかった。
久しぶりに青海君に会える日だった。
青海君というのは若手声優で、私が応援しているいわゆる「推し」だ。
だから会えると言ってもCD特典イベントのサイン会で、会えるのはサインを書いてもらっている間のほんの数秒。
私は昼の部しか当たらなかったから、会えるチャンスは一回だけ。
でも、青海君に会えることにはちがいなかった。
だからこの日のために大学から始めたバイト代で髪の毛のケアをしたり、服を選んだり、生まれて初めてデパートで化粧品を買ってみたりもした。
こんなことを言うと、すぐに恋だの愛だのと言ってくる人がいるけど、そういうわけじゃない。ただ、たった数秒だけでも青海君に会うなら、少しでも可愛く見られたくて。
私が勝手にそう思って、全部勝手にやっているだけ。それの何が悪いんだろう。
私のことを覚えてほしいわけでも、特別に見てほしいわけでもない。
ただ青海君に伝えたいことがあって、青海君に会いたくて。
だから私はイベントに応募した。
(なのに……なんでうまく言えなかったんだろう)
新曲最高でした、この前出てた番組面白かったです、CD買いました、青海君に一杯元気をもらってます、青海君のおかげで私も頑張れてます……。
今さらになって青海君に伝えたかった言葉が、いくつもいくつも私の頭の中に浮かんでは消えていく。
青海君を目の前にした瞬間、もう駄目だった。
片道2時間の新幹線の中で考えていたはずの言葉はまるでビッグバンでも起きたのように散り散りになって、私はまともに目線を合わせることもできなくて。
ただ「応援してます」とぼそぼそ口にするだけで精一杯だった。
(青海君、ありがとうって言ってくれたけど、絶対キモいとか思われてるやつだ)
そんなことを考えていると、座席のテーブルに置きっぱなしにしていたスマホの画面が入ってきた通知で光る。
それは青海君のアカウント更新を伝えるもので、私はおそるおそる通知をタップして推しのアカウントを開いた。
今日のイベントに来て下さった方、ありがとうございました。
もっとひとりずつと話したかったけど、短い時間の中でも必死にたくさんのことを伝えようとしてくれて嬉しかったです!
緊張してた人もちゃんと気持ちは僕に伝わっていたからね!ありがとう!
次はもっとたくさん話せたら嬉しいです!
緊張していた人なんか私以外にもいる。別に私のことを推しは言ってるわけじゃない。
そんなことわかってる。
(けど……)
その言葉に私の目からは涙があふれていた。
私が今日まで色々頑張ってきたことは全然無駄じゃなかったんだと、そう思った。
そこら中にありふれた、きっと特別でもなんでもない言葉。
けれど、私にとっては特別なものだ。
顔を上げると新幹線はいつの間にかトンネルを抜けていて、夕焼けに染まっていた空は暗くなり始めていた。
(次に新幹線からこの景色を眺める時には少しでも後悔が少ないといいな)
今頃、青海君は夜のイベントに向けて準備をしている頃だろう。
「夜の部も頑張れ、青海君」
新幹線の中にいる私の言葉が青海君に届くわけない。
そうわかっていても、私は声に出さずにはいられなかった。
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