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昼と夜の間
暗くなる前に帰るとキシモに約束して黄昏時の散歩に出た。
ガラス越しに覗かれるタワーマンション最上階の部屋で,艶やかに化粧したミチルが流行歌を口ずさみながら肉を焼いている。表情から影が抜け,摂食障害も克服されたせいか健康的な身体になった。
もう大丈夫なのだろう。出番はないようだ。
さよならを告げて,もう1人の過去の自分に会いにいく。
橙色の陽光をねっとり帯びる駅ビル26階の部屋は全てのストームシャッターがおりている。シャッターを透過すれば,自殺志願者の希が寿司桶や皿を並べたテーブルに頰杖をついていた。何処か虚空に漂う両眼がやはり捉えきれない絶望と悲哀に沈んでいる。それでも以前の猟奇は消えた。救いはあるかもしれない。
「今日はお休みなの?」
希がおろした髪を搔きあげた。「休んだのよ,あんな店――それより遅いお出ましじゃない。よその女のとこに行ってたのね」
「来るのを期待しないでって言ってあるよね。いつも来られるわけじゃないから」
「分かってるわよ,あんたには彼女が多いもんね。どうせあたしは第3,第4――いいえ,10本の指にも入らない存在だし」
「自分を低く見積もるのはやめなよ」
「いいのよ,事実でしょうが。でもね,お客が気紛れで訪ねてきたとき何にもないんじゃ,ホステスの名に恥じるじゃないの――どうせ何人もお客を奪られるようなショボいホステスだけど」
「僕は何も欲しくないよ。お喋りできればそれでいい」
「でも振る舞ってあげたいのよ。あんたの好きなスイーツも買い込んであるのよ」奥の収納室からコンビニ袋を幾つもぶらさげてくる。「今日は泊まってよ。夜の時間が本職でしょ」
「いつも言ってるよね」
「僕は弱い幽霊だから」希が唇を尖らせる。
「そうだよ。弱い幽霊だから,強い幽霊に遭うのが恐いのさ。だから幽霊たちの出没する夜になる前に帰る」
「日中は除霊師たちに見つかっちゃう?」両拳を顎の下で揃え,アニメのかわいい系キャラみたいな口調で言ってみせる。
「そうさ。だから昼と夜の間しか来られない」
「分かった,分かった。騙されてあげる。都合のいい女で構わない」繕った笑顔が強張って崩れた。
彼女の頭を撫でた。「ごめんね,小心幽霊で」
「分かってるわよ,分かってる――でも今日は駄目みたい。あんたが消えちゃったら,あたしも消えちゃいそうで……」そのまま火のついたように泣きじゃくる。
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