プレイ・ザ・ピアノ

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「何やってんの?」  ひとつ隣の席に座った、(かなで)が話しかけてきた。  見てわからんか。  私は固く組んだ両手に乗せていた額を離し、姿勢を少し起こしてから、 「拝んでるの。 祈ってるの。上手く行きますように、失敗しませんようにって 」  そう小声で早口に答えた。横目で奏を盗み見ると、 「ふうん」  聞いてきたわりに、奏は興味のなさそうにそっぽをむいていた。その水色のドレスに包まれた膝の上を鍵盤に見立てて、奏の両手がかたかたと跳ね回っている。無意識に、指が勝手に、というかんじ。顔と手が、まるで別の生き物のようだ。  舞台上で、今弾いている子の演奏が終わったら、次は奏の番。その次が、私の番だ。  会話は終わりかと思った矢先、 「誰に?」  そっぽを向いたまま、せわしなく指を動かしながら、奏が短くまた聞いてきた。 「神様」  私はさほど考えることもなく答える。  奏は、 「ふうん」  とまた。さらに続けて、 「それ、意味ある?」 「……」  私はことばにつまってしまった。何か責め立てられているようで、どきりとした。 「ないかもしれないけど、願掛けだよ、願掛け」  何もしないよりましじゃない?……と言いかけた私の心を見透かしたように、 「ないよ」  ぴたり、と手を止め、感情のない声で、奏は言った。  奏にとっては、そうかもしれない。  私は、きゅっと唇を結んだ。  なにせ奏は練習の鬼だ。  一日十時間以上、弾いてるらしい。  それだけ練習すれば、自分の腕だけを信じていれば何も怖くないぐらい、自在に、思うがままに、弾けるようになるのだろう。  そんな子には、きっと神頼みなんて必要ない。  私とはデキが違うのだ。  急に込み上げた劣等感を飲み込んで、噛み締めた唇をほどく。 「どーせあんたは神様なんていないって言うんでしょうけど」  そこそこの練習しかしてこなかった自分。神様への願掛けは、そんな自分の、愚かであさはかな悪あがき。後ろめたさを感じてしまって、おのずと早口になる。  心に変な、緊張からくるものではない別の鼓動が打ち鳴らされる。  あーあ、どうしてこの子と連番になっちゃったんだろう。こんな本番の直前に、かき乱されたくなかったのに。  だけど、 「神様いるよ」  と奏は言った。ぽとりと落ちる、雫のような声で。 「え?」  思わず私は顔をあげ、 「どこに」  と間抜けな問いを投げかける。  奏は立ち上がって、まっすぐ前を指さした。  ふんわりと膨らんだドレスの袖口から伸びる細い腕、長い指の先にあるのは、反響板の重い扉、その隙間から差し込む、舞台上の光。  ちょうど前の子の演奏が終わったところだった。  ひとごとみたいな拍手の音が、パラパラときこえてくる。 「じゃあね」  ゆっくりと、扉が開く。光の筋が、大きく広がり、奏の顔を照らした。  笑っていた。  今から舞台の上に、歩いていく彼女は。  一瞬、挑戦的な、不敵な笑みを浮かべていた。  その瞬間、悟る。  彼女にとっての神様は、祈るためのものではないのだと。  毅然とした足取りで、奏は舞台の中央へと歩いていく。  彼女がなにかに祈るとしたら、おそらくさっきまで、別の生き物のように動き回っていた、彼女自身の指と腕だ。  あの舞台の上にいると言う神様が、彼女の目には、見えているのかもしれない。奏はそれに、挑むのだ。祈るのではなく。対等に。  私は、今しがたまで固く組んでいた自分の手に目を落とす。 「そりゃあ勝てないよな」  心の中でつぶやくと、なんだか逆に落ち着いた気分になった。  顔をあげて、漏れてくる奏の演奏に耳を傾ける。  ドビュッシーの、ベルガマスク組曲より「月の光」  奏の紡ぐ、温かな音色に、問いかける。  ――そこに神様はいる?  奏の見ている神様(おんがく)には、私はきっと会えないけれど。  私は自分の神様(おんがく)に、いつかもっと対等に、胸を張って会いに行こう。
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