1−1 予言の詩

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1−1 予言の詩

苑国 洛都 ヒョォオー…… ヒョォオー…… 横笛の()が静寂を切り裂いた。 それに合わせ、その”女のようなもの”がゆっくりとその裸の足を打ち鳴らし始めた。 タン、タン、タン……! それを合図に、皇帝の一段下に座った老人が、その老いた姿からは想像もできない、深くそれでいて澄んだ声で朗々と(うた)い始める。 「丸き円が満ちる時 蒼き双星(そうせい)降り立ちて……」 パンッ……! 裸の足が激しく床を打った。途端に”女のようなもの”が自らの白い薄衣(うすごろも)を剥ぐ。 おおっ……! そこにいる男のほとんどがそのものに目を奪われる。 現れでたのは、薄衣(うすごろも)と大差ない、おしろいさえくすむかと思うほどに雪のような白い肌を持つ美しい女であった。薄桃色の唇は僅かに赤い紅を刺しただけ、薄茶色の瞳は満月に照らされ猫の目のように金色に輝いている。同じく薄茶色の長い髪はまとめてさえおらず、舞うたびに肌が透けるかと思うほどの青い衣装にまとわりつく。 女はここにいる男の視線全てが自分に集まっていることをわかっている、とばかりに激しく身をくねらせる。 舞いというよりこれは誘惑だ…… 皇帝より一段低い場に座った太子の横で李賁(りひ)は思った。隣をみれば太子はすでに女の誘惑にすっかりのぼせ上がっているようだ。たぶんここにいる男の中で、自分ひとりだけが冷静にこの女を見ている。なぜならまだ十八でありながら李賁はこのような女を知っているからだ。しかし自分には他の男の想いを止めようがない。 老人の歌はさらに続く。 「惹かれ焦がれて 魔都と共 円を欠くまで 舞い踊る……」 タン、タン、タンタタン……!!! 舞いながら、女がさらに激しく足を踏み鳴らす。それに誘われるように、老人もさらに高く声をあげた。 「円が欠けるも……!」 突然男が立ち上がり叫んだ。 「陛下、これは侮辱にございます!侮辱の歌にございます!」 中書侍郎の林志甫(りんしほ)である。余興を邪魔された皇帝が何も言わずに顔を上げる。 しかし林志甫は震える声で叫び続けた。 「即興とはいえ、私の、私の姪にこのような歌で踊らせるとは……賀士正(かしせい)殿はいったい……!」 姪か…… 李賁は心の中で笑った。仮にも中書侍郎の姪がこのような裸同然の姿で男の前で踊るはずがない。その時だった。女が李賁を見た。まるで心を読んだように、その薄茶色の瞳が、ねめつけるように李賁を見つめる。それはまさに猫のように誰にも媚びぬと言わんばかりの瞳であった。 * 「公子」 李賁は小さく自らを呼ぶ声で目が覚めた。 そこには心配そうに自分を見つめる丸い二つの瞳があった。こちらも薄茶色の瞳だが、極めて温かい。 「うなされていたようでございますが、いかがなされましたか」 ここに十二の頃から暮らす今は十七の高廉である。下男のように李賁の身の回りの世話をしてくれるが、李賁は一度も下男と思ったことはない。彼がここに住んでいるのは、亡き父が、学問に興味を持つ商家の息子高廉を家に住まわせ李賁から学べるよう計らったのがきっかけだ。父母なき今、今や高廉は李賁の唯一の家族であった。しかし、李賁は先程の夢、いや過去を高廉に伝えるつもりはない。李賁は微笑んだ。 「いや、気にするな、いつものことだ」 李賁は寝台から立ち上がると、高廉が持つ自らの衣を見た。いつもなら白い衣があるその手には今日は薄紫色の着物とそれに合わせた濃紫の袴が乗っている。どちらも青みがかった上品な色なのは、高廉の実家が衣を扱う商家だからだ。 「そうか、喪が明けたのだな」 「はい、先帝がお隠れになってから三年目の春となります」 高廉が明るい声で答える。 「なるほど」 李賁は高廉の明るい声に微笑んだ。 「師の蟄居は昨日までか」 李賁の師である賀士正は、あの夜の即興歌が林志甫に侮辱と罵られ三年の蟄居を命じられた。それも誰にも会えない幽閉である。というのも、あの夜、先帝は突然崩御したのだ。まるであの歌の通り満ちた円が欠けるように。それが今日明ける。 「すぐに師にお会いしに行く、馬を」 「承知いたしました」 高廉の笑顔が戸の向こうにすっと消えた途端、李賁はまたあの時の苦々しい想いが蘇る。実は前帝はあの場で賀士正を不問とした。ところが前帝が亡くなった途端、また林志甫が太子にあれは予言詩だと直訴した。それもあの姪という名目の舞姫林蓮を連れてである。 賀士正は現皇帝李逵の師でもあった。前帝の甥であり自らの従弟である李賁と共に彼から学んでいたのである。その頃の太子はまっすぐで兄のように優しかった。しかし、林蓮が現れてから変わった。現皇帝李逵は自らの師に幽閉を申し渡した。師よりも女を選んだのだ。しかし前帝の甥とはいえ李賁にはどうしようもない。皇帝はこの苑国では絶対なのだ。 それよりも…… ひさしぶりに会う師に何を学ぼうか、李賁に笑みが浮かんだ。今や二十一となったというのに李賁の心が踊る。また師と詩をつくり、学ぶことができる。それは絶対に叶うはずであった。いや李賁は叶わないはずはないと信じていた。
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